20仕組まれた事故(前)
──人の叫び声と、まわりの景色が妙にゆっくりに見えた。
思考は停止したままだったけれど、咄嗟に、体を捻って思い切り飛んだことでなんとか直撃を免れることができた。
「……っ」
けれど、転んだ拍子に思いっきり全身をぶつけてしまって息ができないし、起き上がる事ができなかった。私の周りに人だかりが出来ていき、衛兵を呼ぼうと騒いでいる人の声が聞こえてきて、やっと体を起こす。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
「ええ……はい。どこも折れてはいないようです」
馬車はギリギリ私の直前で止まったらしく、骨を折るほどの大けがには至っていないようだけれど、腕や足をひどくすりむいてしまったようだ。お気に入りだったワンピースの袖の部分がビリビリに破けて血が滲んでいるし、靴も片方どこかへ行ってしまっていた。
「ああ、若い娘さんなのになんてひどい。うちの人が角で薬局をしているから、とりあえずこっちに来なさい」
助け起こしてくれた女性が心配そうに声をかけてくれ、手を引いて落ち着ける所へ連れて行こうとしてくれるのを遮る。
「い、いえ。大丈夫です。家に帰ります」
「大丈夫ってあんた、そんな格好で……」
他の人には酷く痛々しく見えるだろうけれど、思いの他痛くはない。この近くにはリリアナがいる。騒ぎを聞きつけて、この様子を見られでもしたら、何を言われるものか。
「近いので、大丈夫です……」
立派な馬車は間違いなく貴族だ、それも少し成金趣味の。私が住む場所がマーガスさまの別邸と知られたら、どことなくまずい事になりそうな気がする。……何にせよ、今日は酷い日だ。早く帰りたい。マーガスさまのお誘いだからと楽しみにしていたけれど、こう泣き面に蜂のようになってしまっては、早くあの家の人達とポルカに一刻も早く会いたい──と思ってしまう。
「おい、あんた、お貴族さまだからって、人を轢きかけたんだ。だんまりはよくないと思うがね」
不満のせいなのか、男性がひとり、馬車に向かって腹立たしそうな声を荒げた。私の他にも、転んで軽い怪我をした人は複数いるようだ。それだと、さっさと帰りたい私はともかく、このままさようならとはいかないだろう。
「ご……ごめんなさい。私ったら気が動転していて……」
声と共に馬車の扉が開いて、私は自分の不運を今日一番嘆きたい気持ちになった。
しおらしい声と共に馬車から顔を出したのはほかでもない、私が一番会いたくないリリアナだったからだ。
彼女の容姿の愛らしさを見て、憤慨していた男性たちがすっと落ち着いていくのがわかる。こんな可愛らしい女性が、わざと人をいじめて弄ぶような性格の筈がないと思ってしまうのだろう。
「ああ、なんて事。私の馬車が人を轢いてしまうなんて……なんとおわびして良いか」
リリアナの瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。それを見た男性陣が、どんどんと、彼女が馬車を動かした訳ではないし……と加害者であるリリアナを庇う様な雰囲気を作り出す。
リリアナは涙を拭うと、ゆっくりと馬車から降りて来た。
「私は治癒院で働いております。せめてものお詫びに治療をさせてくださいませ……」
リリアナがかすかに微笑むと、足元にふわりと魔法陣が展開されて、柔らかな桃色の光が周囲を包み込んだ。──リリアナの治癒魔法だ。
珍しい光景に歓声が湧きあがった。治癒院で治療を受けるには高額な費用がかかり、普通の生活をしていては治療を受ける事がめったにかなわない。その才能を惜しげも無く平民に対して発揮するリリアナは、さぞや立派な人物に見えるだろう。
「みなさん、大丈夫でしたか。もし治りきっていない箇所がありましたら、遠慮なく治癒院までお越しください。もちろん、無償で治療させていただきます」
……リリアナの治癒は軽度な怪我や、この事故とは関係ない怪我まで治ったらしく、人々は口々にお礼を告げ、去って行った。
ただ一人、怪我が治っていない私だけを除いて。
「……あら、姉さん! まさかこんな所で再会するなんて……!」
と、リリアナはまるで今始めて私の存在に気が付いたかのように、偶然を装って話しかけてきた。
たまたま馬車が暴走して、その先に私がいた。そのうえ全体に治癒魔法をかけ、私だけ治療し忘れた──なんてそれこそ天文学的な確立で、リリアナが故意にやっているのは明らかだった。
姿を見かけたのは私だけではなくて、向こうも私を見付けて、こっそり跡をつけていたのだろう。
けれど、そこまで……たまたま見かけた私を追いかけて、痛めつけて悦に入ろうだなんて、自分の妹がそこまで醜悪な人間だとは思いたくなかった。
その内面とは違って、表向きは美しいドレスが汚れるのもためらわずに跪いて私の手を取るリリアナは、傍目から見ると聖女のように見えるだろう。
「大事な一張羅がボロボロになってしまって、ごめんなさいね。家から古い服を送りましょうか? 新しく新調したもので、衣装棚がいっぱいなのよね」
耳元で小さく、周囲の人間に聞こえない様にリリアナが囁いた。
確認するまでもなくわざとだ。肩に添えられたリリアナの腕には、見た事もない純金の腕輪が光っていた。その後ろに佇んでいる所在なさげなウィリアムも、記憶よりずっと仕立ての良い衣類を身に着けている。
「……結構よ」
「遠慮しないで。さっき、洋服店の前に居たでしょう? 私が新しい服を買ってあげる。せめてものお詫びに、受け取ってほしいの」
リリアナのべったりと口紅を塗った唇が、不自然に歪んだ。
「いらないわ。夕食の買い出しに来ただけだから」
「夕食の買い出し、ね。でも、ローランさまはご老体でしょう? そんな街で購入したようなお肉を出すのは良くないわよ。姉さんは知らないかもしれないけれど──貴族にはちゃんと、御用達の食材屋があるのよ。もっとも、わざと体に悪い物を食べさせて、早く未亡人になりたいのかもしれないけれど」
「旦那さまはとってもお元気だから大丈夫よ」
私はほんの少し、皮肉を込めて言った。マーガスさまの祖父であるローラン・ブラウニングさまの死は伏せられている。リリアナはまだ、私がローランさまの後妻になったと思っているのだ。
「そうなの、とってもお元気なの。それはそれで結構ね。可愛がっていただいているみたい。──良かったじゃない、ねぇ、ウィリアム」
ウィリアムは「まあ……」と口ごもった。服だけは立派になったけれど、煮え切らない態度はそのままだ。
「姉さんによいご縁があってよかったわ。……私達ももうすぐ式をあげるの。姉さんも結婚式には来てちょうだいね」
「……ええ」
行かないと答えてしまうとまた面倒なことになりそうだ。二人の結婚式に行くぐらい、なんてことはない。
「それじゃあね。事故には気を付けた方がいいわ」
立ち上がろうとした私の手を、リリアナは強く掴んだ。
「待ってよ、姉さん。そんな泥だらけの格好でお屋敷まで歩いて帰れないでしょう。送ってあげるわ」
自分の優雅な生活を見せつけたいのか、それとも私のみじめな話を聞きたいのか、あるいはその両方か。
「……大丈夫よ」
「遠慮しなくてもいいわ」
ぐいっと掴まれた腕が、じんじんと痛んだ。
「……っ」
「怪我をしているじゃない。私に治させて?」
リリアナは再び、にいっと口角を上げて微笑んだ。彼女は子供の頃からいつもこうだ。私にわざと怪我をさせて、それをこれ見よがしに自分で治癒してみせるのだ、さっきみたいに。
確かに治癒の魔力によって怪我は治ったけれど──そのたびに、心に傷が増えていった。
「結構よ」
力一杯、リリアナの手を振り払う。私はもうあの家に戻らないし、リリアナの引き立て役にもなるつもりはない。
「だって、姉さんは治癒の魔力がないでしょう? どうするのよ、そんなぼろぼろの服を着て、血だらけのまま歩いていたらブラウニング家にも迷惑がかかるわ。いいかげん、強がるのはやめてよ」
「強がりなんか、じゃ……」
「さあ、早く馬車に乗りましょう? そうだ、久し振りに実家でゆっくりするのもいいわね。義理のお兄様のお話も聞きたいし」
リリアナはより一層強く、私の手を握った。嫌だ、と心の底から思う。言わなければ。嫌よ、あなたに構っている暇はないのよ、私には──。
「い……」
「……その必要はない」
まるで触れると切れてしまう硬質な刃物のように、ピンと尖った声が聞こえて、私の目の前に黒い影が現れ、リリアナとの間に割って入ってきた。
「マーガスさま……」
──もう、いい加減、自分の目が信じられない、でも、マーガスさまの事なら分かる気がする。
「すまない、謝罪はのちほど」
──やっぱり、マーガスさまは時間に遅れても、約束を守ろうとする方なのだ。




