17書斎にて
「あら、大分元気になってきたわね」
一時は命も危ぶまれた小鳥は、今は手を差し出すとその上にぴょんと飛び乗るぐらいには回復してきた。
「ほら、感謝祭のパンくずよ。お前も、マーガスさまに感謝をするのよ」
「この鳥は旦那さまを見たことがないですから、言われてもわかりませんよ」
「言葉のあやよ」
「わかってますよ」
小鳥はパンくずを食べ終わると、翼を広げて林檎箱で作った巣箱へと戻った。飛ぶことはないけれど、曲がっていた羽根は綺麗にくっついたみたいだ。
「奥さまには、癒やしの力があるんですよね?」
と、ミューティが言った。
「無い事もないけど……役には立たないのよ」
「効果があったじゃないですか、ほら」
ミューティは小鳥を指さした。けれど、それは自然治癒によるものだろう。
「絶対に羽根はまっすぐにならないと思いましたし、獣医もそう言っていたでしょう。だから、この鳥がここまで元気になったのは奥様のおかげなんですよ」
「痛みを和らげる力はあっても、外傷を治癒するまではできないわ」
それができたら、家であんな扱いを受けることはなかっただろう。もっとも、今更少しだけ癒やしの力がありますよ、と言っても仕方がないし、褒めて欲しいとも思わないけれど。
小鳥の世話を終えて、二階にのぼっていく途中、書斎の扉が少しだけ、私を誘うように開いているのが見えた。
そっと近寄ってみると、部屋の中で誰かが作業をしている気配は無かった。
「マーガスさま?」
返事は無かった。いつものようにそっと部屋をのぞきこむと、マーガスさまがソファーに横になって、目を閉じていた。
毎晩、遅くまで明かりがついていて、お仕事をされていて、朝は誰よりも早く起きている。
一度、それとなく疲労がたまらないのですか、と尋ねてみると「昼に休憩をとっているから平気だ。少しだけ眠ると、すっきりする」と返事が返ってきた。
だから、私はマーガスさまがお昼寝をしている時間を知っている。知っているからと言って、悪事を働くつもりはないけれど。
短い時間にすぐ眠れると言うのは才能の一つか、あるいは生きるために染みついた習性なのか──。
マーガスさまは私の不躾な視線に気が付く事もなく、まぶたは閉じられたままだ。
──今日も、眉間にしわが寄っているわ。
まぶしいのかもしれないと、カーテンをそっと閉めたけれど、安らかな眠りは訪れていないようだった。
差し出がましいのは重々承知で、私はいつものようにマーガスさまの額に手をかざした。効果があるのか、無いのかは不明のままだけれど、効果があってほしいと思っている。
──でも、いつまでこうすべきなのかしら。
「最近夢見はどうですか?」なんて尋ねるのも変なので、私の行動がマーガスさまにプラスになっているのかはわからない。
けれど、最近は心境の変化とともに、私の癒やしの力が少しずつ──ほんの少しずつだけれど強まってきている、そんな感覚がある。だから、もしかすると、いつかマーガスさまのお役に立てる時が来るかもしれない──。
「なんて、そんな都合のいいことあるわけないか……」
ただでさえ最近は私にとっていいことがありすぎるのに、これ以上を望むのは贅沢と言うものだ。
独り言を口に出して顔を上げると、マーガスさまと目が合った。
──バレた。
「ひゃっ!」
思わず、後ろに尻もちをついてしまった。叫び出したいのはマーガスさまの方だろうに、冬色の瞳ははっきりと見開かれて、私をじっと見つめている。
「も、ももも……申し訳ありません!」
床に手をつき、必死に謝罪をする。寝込みを襲ったと言われても反論はできないのだ。
「謝罪は必要ない」
マーガスさまはゆっくりと身体を起こし、少し乱れていた前髪をかき上げた。
「大分前から、君がこうしているのに気が付いてはいた」
「し……知っていらっしゃったのですか?」
「寝る前には無かったものが置いてあれば、誰でも……それにまあ、人の気配がすれば」
恥ずかしいやら、情けないやらで顔が赤くなる。ばれていないと思っていたのは私だけだったらしい。戦場で過ごした人が、気配に敏感なのは当然のことで、それに思い至らない私が馬鹿なのだ。
「す、すみません、嫌な夢を……見ているのではないかと。もしかして効果があるかもと思いまして。不愉快な思いをさせて申し訳ありません」
「嫌な気持ちだなんて、そんな筈はない。効果があった……悪夢にうなされている時、君の声が聞こえた。その声に耳を傾けていると不思議と体が楽になって……すぐに、俺の為に力を使ってくれているのだとわかった」
どうやらお怒りではないらしい。本当に良かった。
「君がそばに居てくれると、悪夢を見ないんだ。しばらく一緒にいてくれないか」
「は、はい。私で良ければ、喜んで」
再び横たわったマーガスさまの額に手をかざすと、マーガス様の瞳に柔らかい色が差した。
「騎竜の里では、いつもこうしていたのか」
「はい。私にはこれぐらいしか出来ませんから」
「……騎竜たちは、アルジェリータがいなくなって、さぞや残念に思っているだろうな」
急に名前が呼ばれて、ふたたび顔が赤くなったのがわかる。薄暗くて、あまり見えていないといいけれど。
「……そう思っていてくれたら嬉しいような、お世話が中途半端になってしまって申し訳ないような……」
「騎竜の里に、戻りたいと思うか?」
「……私はここが好きです。里の事は気になりますが……できればずっと、ここに居られたらな、と思います。でも、落ち着いたら、皆にマーガスさまを紹介したいです」
「人間の男にか?」
「騎竜ですよ」
「そうか……騎竜の話をしてくれないか」
マーガスさまはそう言って、瞳を閉じた。
「ここにくる直前は、ラルゴと言う雄の騎竜の面倒を見ていました」
「その名前は、君が?」
「いいえ。本当は良くないのでしょうけど……」
騎竜の里に連れてこられた騎竜は、人間の手を離れて大地に帰る準備のために、人間からもらった名前を捨て去る。
「騎竜の胸のあたりの、心臓に近い所に名札をつけますよね。離れ離れになるとき、名札をそのままにしておく人が多いんです。それを探して……元々の名前がわかれば、そのままです。偶然、同じ名前がついた、という事にして」
だからラルゴはラルゴのままなのだ。彼もきっと、それを望んでいるだろう。あんなにも、主人になついていたのだから。
「そうか。ほかにも……そういう竜は?」
「はい。春先まで、ウェルフィンというおじいさんの竜がいて。三十歳ぐらいだったと思いますが、そう見えないほどにても立派な竜だったんですよ。彼にもきちんと、名札がついていました」
「その騎竜は……いつ、来たんだ?」
急に見開かれたマーガスさまの瞳に、何かの強い感情が渦巻いているのが見て取ることができて、私は答えるのを躊躇した。けれど、マーガスさまの促すような強い視線に、おずおずと口を開く。
「去年の夏頃でしょうか……。その少し前に、酷い怪我をしたラルゴが輸送されてきて……最初のうちは凄く暴れていたんですけれど、ウェルフィンが来てからは落ち着きました。彼はとても……なんというか、堂々としていて立派でしたから、あっと言う間に里の長になったんです。でも、とても優しくて……」
ウェルフィンがやって来た日の事はよく覚えている。夏の、ものすごく暑い日に、立派な馬車がやってきて、まるで投げ捨てるようにウェルフィンを置きざりにした。
「ウェルフィンは、私にとても良くしてくれました。力に気が付いたのは……彼が足を痛めていて、もしかして少しでも役に立てるんじゃないかって思ったことがきっかけです。彼はとても賢くて、話しかけると、こちらを向いて、じっと見つめてくれました。だから私、ああ、言葉は通じなくても騎竜とわかりあうことができるんだ、って気がついたんです」
ある日、ウェルフィンは口にくわえていた羽根を一本、私に向けて差し出してきた。私は仕事として、預かった彼のお世話をしているだけだから、厳密には彼の羽根の一本だって私のものではないのだけれど──その羽根に関しては、ウェルフィンが私にくれたのだと解釈している。
「終戦がきて、これから傷ついた騎竜が沢山やってくる……そんな時に、まるで自分の場所を譲るみたいに、亡くなってしまいました」
マーガスさまは突然、体を起こした。
「……用事を思い出した」
口を挟む事が出来ないほどの勢いでがばりと立ち上がり、私には一瞥もくれずに部屋を出て行ってしまった。
あとには私と、毛布が残された。




