第428話
「ウニ、買うたんですって?」
俺が更衣室に入ると、ほとんど着替え終わった裏田君が俺に向けてたずねた。
恐らく、魚屋の店主から話を聞いたのだろう。
「ああ、そうなんだ。試食させてもらったミミルが美味しそうに食うもんだから、ついな」
「それ、わかりますわ。見せてもらいましたけど、立派なウニでしたもん」
ウニ自体の大きさは普通なのだが、殻のなかにビッシリと身が入っていた。持ってみるとずっしりと重いものを選ぶと身がたっぷり入ったウニに当たることになるのだが、それだけでは味の良し悪しまではわからない。そのため、店では試食用に殻を割ったものを用意している。
たぶん、裏田君も少しくらいは試食しているのだろう。
「まあ、店で出すには少々値が張るからなあ」
「そうですねえ。あ、先に行きますね」
着替えを終えた裏田君が俺にひと言だけ告げて出て行った。
まあ、俺の着替えを待つ理由は彼にはないし、そろそろ業者が食材を届けにやってくる時間帯だ。
裏田君に遅れること2分程度、俺も着替えを終えて更衣室を出ると、そこには田中君と中村さんがやってきた。
「おはようございます」と、挨拶する2人に向けて、俺も「おはようございます」と挨拶を返した。
吉田さんがまだ出勤していないようだが、時間はまだあるので問題ない。と思っていると、吉田さんが遅れて階段を上がってきた。
「おはようございます」と、吉田さんが俺に向けて挨拶をした。俺が「おはようございます」と挨拶を返すと、慌てて更衣室の中へと入っていった。
性分だったり、他の店員との相性だったり……開店直前のこの時期にパート、バイトの誰かがこの店には合わないと思って辞めてしまうと大変だ。1日目で誰かが辞めてしまう、なんてことがなくて俺はそっと胸を撫で下ろした。
厨房へ移動すると、早速業者によって食材が運ばれてきていた。
昨日は届かなかった食材もいくつかあり、また調理台の周辺がにぎやかなことになりつつある。
「悪い、先にパン生地をやっつけたいんだがいいかな?」
荷物の検品にいっぱいになっている裏田君に向かい、声をかけた。リストと商品の照合をしている最中に声を掛けたのだから、即答は期待しない。先に、ミキサーのボウルを取り出して調理台の上に置いた。
裏田君は手に持った納品書のリストをひととおり確認し終えてから「あ、いいですよ」と返事した。
仕入れを任せたとはいえ、全部やってもらうのは少し気が引けるが。その業者にどのような商品を発注し、納品されていないものはないか等までは俺にはわからないので、任せざるをえない。
ボウルに強力粉……計量した0番粉、塩水、老麺を加えてミキサーで混ぜていく。
その間に着替えを終えた田中君が厨房へとやってきた。
「おはようございます。オーナーは何をしたはるんです?」
「ロゼッタの生地を作るんだよ。このあとはフォカッチャの生地を作る」
「うちは何しましょう?」
優秀な田中君のことだから、今日になって試作しようとしていたドルチェがあるのだと思う。
11時になれば保健所の検査員がやってくる予定だ。その際は検査員から説明を求められる場合もあるので同行しないといけない。
ミキサーからボウルを取り出してロゼッタ用の生地を寝かせる。
「これは1時間くらい寝かせるから、フォカッチャの生地を頼んでもいいかな?」
俺は尻ポケットに入ったクシャクシャのメモ帳を取り出してフォカッチャ生地のレシピを書き込み、田中君に差し出した。田中君もフォカッチャ生地のレシピは知っていると思うが、うちでは老麺を使うので老麺にあわせたレシピが必要だ。
「はい、わかりました。吉田さんと中村さんは何してもらいましょう?」
「それは俺が直接行ってくるよ」
「はい」
ちらりと裏田君の方を見る。
初日とは違って運び込まれた食材の量は少ないようで、裏田君も比較的手は空いているようだ。
「裏田君は少し時間をとれそうかな?」
「そうですね、仕込みは殆ど終ってますよって、フロア側のお手伝いしましょか?」
「保健所の人たちが来るから、その時に代わって欲しい。接客トレーニングだから、お客さん役をしながら気づいたところを指摘する感じで頼むよ」
「了解っす」
裏田君の返事を後ろに聞いて、俺は客席の方へと急いで移動した。
客席では、テーブルに座ったミミルの周囲に中村さんと吉田さんがいて、ミミルの漢字ドリルを覗き込んでいる。
「えっと、おはようございます」
「あ、お、おはようございます」
「おはようございます」
慌ててミミルから距離を取った2人だが、客席側に俺が移動した時点で何をしていたかはよく見えているので無駄な抵抗というやつだ。
「何してたんだ?」
「おはなし」
気になったのでたずねてみると、ミミルが返事をした。
パートの2人が何を話していたのか気になるが、あまり時間がない。
「ふうん。まあいい、吉田さんと中村さんは今日も接客訓練です。今日は保健所と消防署の検査があるので、その間は裏田君の指示に従ってください。いいですか?」
「「はい」」
2人の返事を聞いて、俺は接客訓練を開始した。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。






