伊勢の斎宮【弐】
斎宮の伊勢に向かう際、一人で向かうことが多い。その斎宮が幼くとも、伊勢と言う田舎に向かう母親は少ない。たいていは乳母など、雇った女性が同行する。
那子の母である朔子は、どうやら娘について行きたかったようだ。だが、その時期、彼女は息子の田津を出産したばかりだった。心配する朔子に、自分が同行しようと名乗り出たのが、久柾の二番目の姉の保子だったそうだ。当時子育てが終わっており、どうやら夫との折り合いもよくなかったようだ。当時はさすがに時嵩も若かったので、あまり覚えていないが。
時嵩が久柾に話を持って行った数日後、本当に久柾は保子を呼び寄せた。異母兄弟である久柾と時嵩も年が離れているが、同母の保子と久柾も年が離れている。
話し合うときは男女で御簾のこちらと向こうに分かれることになるが、時嵩は先に那子に会ってきていた。夜に訪ねることが多いが、昼間にやってくることも珍しくないので那子はにこにこ笑って出迎えてくれたが、那子の予知能力についての話だと言うと、解せぬ、と言う表情になった。
「気にするほどではないのではありませんか?」
「お前、自分が予知を行っているときの記憶はあるのか?」
「記憶……いえ」
首が左右に振られる。わかっていたことだ。彼女は自分の言ったことを覚えていない。
「なら、なぜそう思う。予知にしても、予言にしても同じだが」
「それは……わかるから、としか」
困惑したように唇を尖らせ、那子は言った。時嵩はその唇を人差し指で押さえる。
「ほら、記憶にないのに『わかる』というのがおかしい。私が見る限り、お前の能力は強くなっている」
「ええ……」
そんな馬鹿な、という顔をされる。自覚がないところが一番怖いのだ。
時嵩は怖いのだ。気づかないうちに那子が連れて行かれるかもしれない。これまでの彼女の予言の方向から考えて、神に近しいものの干渉を受けている可能性がある。
保子は時嵩と久柾、ついでに那子の主張を聞いて少し考えこんだ。保子は久柾の姉で内親王であるが、普通に結婚し、一般的な貴族女性に近い生涯を送ってきた女性だ。賀茂の斎院であった志子に育てられた時嵩だが、保子との面識はほとんどなかった。
「……私には、中の姫の予知能力が伊勢の斎宮であったことに関わっているかはわかりません」
慎重に、言葉を選ぶように保子は言った。中の姫とは那子のことだ。三人姉妹の真ん中なので、中の姫。
「伊勢で、神を降ろしていた、と言うこともありません。私が知る限り、一般的な、これまでの斎宮と同じような生活を営んでいたはずです」
那子は明らかにその霊力を見込まれて斎宮に選ばれている。通常、斎宮は卜占により未婚の内親王の中から選ばれる。該当する内親王がいるのに、女王である那子が選ばれたのはそういうことだと思ったのだが、そうではないのだろうか。
「私はそう言ったことはよくわかりませんが……伊勢は空気が違ったと、思います。静謐で清らかな場所だったと思います」
そういう意味では影響があったのかもしれませんが、と保子は締めくくった。彼女は姉や弟とは違い、術者としての訓練を受けていないそうだ。それでも感じるのだから、伊勢とはそれほど空気が違うのだろう。
時嵩は久柾と顔を見合わせた。お互いに何とも言えない表情をしている。思ったより、那子は普通、と言ってはおかしいが、通常と変わらない斎宮としての生活をしていたようだ。
「お姉様、姫と共に伊勢に行ってくださったこと、本当に感謝しております。よろしければ、当時の姫のことを聞かせてくださいませ」
「やめてください、お母様」
当時田津を産んだばかりで同行できなかった朔子が、保子に頼み込んだ。自分のことを聞かれるのが嫌なのだろう、那子が止める。時嵩の頼みは那子の霊力に関連していたから止められなかったが、私生活について聞かれるのが恥ずかしいのだろう。
「そうですね……伊勢に発ったばかりのころはさみしかったのか、ぼんやりしていたのを覚えています。すぐに道中の景色に興味津々になりましたけど」
保子が淡々と話しているのを聞きながら、寂しがっていたのは母と別れたせいだけではなく、志子と死に別れ、時嵩にあしらわれたせいでもあるんだろうな、と心の中で反省する。時嵩はとても気にしているのだが、那子自身はからりとしていて気にしておらず、謝らせてくれない。その分、存分に甘やかそうと思っているので、時嵩は自分が那子に甘い自覚がある。
「外を眺めて、あれは何、これは何、と聞かれて困りました」
「ご、ごめんなさい」
内親王であり自身も初の遠出であっただろう保子に聞いてもわからないだろうと思うが、幼い那子はわからなかったのだろう。自分より年上の大人に、知っているかと聞いていただけだ。
「伊勢でも現地で雇った者たちにあれは何これは何と聞いていましたね」
当然だが、伊勢の斎宮でも現地で雇用するものもいる。郷に入っては郷に従えではないが、京と暮らしが違うので、その齟齬を埋めるための採用でもある。
「そう言えば、当時、不思議だな、と思ったことがありました」
「不思議? 存在自体が不思議だけれど……」
「お母様、ひどい」
那子が涙目になっているのがわかるようだ。時嵩はくすりと笑う。
「どう考えても姫が知っているはずのないことを、『知っている』と言ってのけたのです。気づいたら伊勢の郷土遊びをしていることもありました」
「えっ」
驚いた声を上げたのは、なぜか本人である那子だった。どうやら、当時からそういうところはあったらしい。伊勢で何かあったと言うより、もともとの能力が神に近いところにいることで研ぎ澄まされたのかもしれない。考えてみれば当然であるが、斎宮としての暮らしは潔斎を含んでいただろうし、神に語り掛けることもあっただろう。生活しているだけで必然的に、能力が研ぎ澄まされていく。
保子との対面は、思ったような方向ではなかったが、収穫はあった。やはり那子は神に近しい。時嵩や久柾が気づいたのは今だが、もしかしたら、宇治重玄は以前から気づいていたのかもしれない。この二人にとって、那子の前に賀茂の斎院・志子という存在があったから思い至れなかったのだ。
「中の姫、くれぐれも、くれぐれも気を付けて過ごせ。宇治重玄ならずとも、気づいたら連れ去られてお前自身が神として祀られるかもしれん」
「それは困りますね」
久柾は真剣だが、那子はいまいち現実味にかけるような口調で返事をしている。時嵩は那子の両肩をつかむ。
「漠然としたことを言うが、できるだけ力の制御を怠るな。矛盾しているが、力の使い方を学び自分の制御下に置け。能力に振り回されるんじゃない。お前が、能力を支配するんだ」
これは時嵩が賀茂の斎院によく言われたことでもある。彼も那子くらいの年のころ、力を持て余していた。そう考えると、那子も霊力の成長期なのかもしれない。
「頑張りますが……」
釈然としなさそうな顔をしつつ、那子はうなずいた。本人にいまいち響いていない、と思ったが、もしかしたら那子もどうすればいいのかわからないのかもしれない。
「伊勢ではどんな生活をしていたんだ?」
そう言えば改めて聞いたことがないと思い、褥で寝転がり、肘をついて横向きに眠る那子の顔をのぞき込むと、彼女はぱちぱちと瞬きをした。前回は伊勢はどうだった、と言うあいまいな気い方をしたので、欲しい回答が得られなかった。
「どうしたんですか、急に」
「いや……そう言えば、聞いたことがないなと思って」
那子の頬をなでると、少し冷えていた。小さな体を抱き寄せてやると、那子も暖を求めるように時嵩にすり寄った。
「そうですねぇ……伯母様も言っていましたけど、他の斎宮とほとんど同じ生活をしていたと思います。潔斎をして祭祀を行い、祈る。わたくしは実際に霊力を持っていたので、神宮の神官に使い方を教わったりとか」
神宮には斎宮のほかにも巫女がいて、裳着を済ませてからは、巫女たちに話を聞くこともあったようだ。
「話を聞いて、わたくしの力は巫女に近いのだな、と思いました」
「まあ、そうだろうな」
時嵩はそう相槌を打った。斎宮は巫女の一種だ。神の声を聞き、神と人をつなぐもの。それを考えれば、那子は理想的な巫女だっただろう。確実に神の声を聞いている。
「正直なところ、私の妻になったお前は力を失うのではないかと思っていた」
「ああ……巫女は未婚の女性ですものね」
なるほど、と那子はうなずく。斎宮は未婚の内親王、もしくは女王から選ばれるのだ。婚姻していなければ、斎宮を退下した後、再び選ばれる可能性がないわけではない。
「未婚である、と言うよりは幼くあることが重要なのではないのでしょうか。自分で言うのもなんですけれど、純粋な心だと神の力が届きやすい。おそらくわたくしは、純粋だと言うよりは神のお力と波長が近かったのだと思うのですが……たぶん、そういうことなのではありませんか」
那子の言うことも一理ある。未婚であると言うことよりも、『大人ではない』と言うことが重要なのかもしれない。その心持の問題として。
「お前の推論で行くと、結婚していても巫女の能力を失わないわけか」
「だと思います。まあ、これでもわたくしの予知能力の説明ができませんが……」
那子はそう言いながら時嵩になつくように肩に額を擦り付けた。腰に手を回して抱き寄せる。時嵩も那子の頭に頬を押し付ける。
予知能力は一種の才能だ。能力が成長することもある。これは彼女のせいではない。ただ。
「私を置いて行かないでくれ」
「行きませんよ。ちゃんと力を制御できるようになります」
手始めに彼女は力を抑えるための勾玉をつけている。気やすめだが、ないよりましだ。こうした能力は本人の精神状態にも左右されるので、那子の精神状態が落ち着いていればそれほど問題はないと思われる。
「那子」
耳元でささやくと那子が顔を上げた。そのまま覆いかぶさるように口づける。弾力のある肌を堪能しながら、これで彼女をつなぎとめることができるだろうかと不安に思った。
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