伊勢の斎宮【壱】
邸に巡らせた結界に、式が衝突して燃え尽きた。この邸は強力な結界で守られている。偵察用の式程度では越えられないのはわかっていた。
それでも、時嵩は目を開き、式がぶつかったあたりに視線をめぐらせた。時嵩は当代一と言われる霊視能力の持ち主だ。目を凝らせば、式の残滓が見える。
宇治重玄か。
これまでのように大きな動きは見せないが、宇治重玄はちょっかいをかけるように偵察用の式を送ってくる。それはほとんどが結界に阻まれ、時嵩に見つかれば打ち落とされている。那子は『返して』いるそうだ。
「寒い……」
小さな訴えが聞こえ、時嵩の腕の中で那子が身を震わせた。時嵩が身じろいだことで隙間が生まれ、冷たい空気が入ってきたのだろう。時嵩が小さな体を抱えなおすと、那子はなつくようにすり寄ってきた。可愛い。
「……大丈夫ですよ。宇治重玄は、しばらくは動きません」
目を閉じたまま、那子はいつもの澄んだ声で言った。驚いて自分の胸のあたりにある顔を見つめる。
「どういうことだ?」
「式を送ってくるのは牽制です。わたくしたちを警戒させて、消耗させようとしているだけで、自分自身が動けるほど回復していません。しばらくは、大丈夫」
目を閉じたままよどみなく言う那子に、時嵩は眉をひそめた。少し迷ってから、さらに問いを発する。
「しばらくとは、どれくらいの期間だ?」
これには返答までしばらく間があった。ややあって。
「……子が、生まれるころまで、でしょうか」
那子はそう言って、また寝息を立て始めた。
年の暮れだ。雪が積もり、火鉢を置いても寒い季節だ。それでも、弾正尹宮・久柾の五条邸は暖かい方だろう。女性が多く、妊婦もいることもあるが、純粋に人が多いのだ。時嵩の東四条邸はこの邸の半分程度の広さだが、人が少なく、なんとなく肌寒い。
異母兄でもある久柾の邸に、時嵩は昼間から訪れていた。この邸の中の姫である那子の夫である時嵩は、夜に訪ねてくることは多いが、昼間に現れるのは久しぶりだ。
「久しいな、臘月。婿殿、と呼んだ方がいいか」
「やめてください」
本当に嫌そうな顔をして時嵩がにやりと笑う久柾に訴えた。時嵩にとって異母兄だが、義理の父でもあるという少々複雑な状況だ。久柾は肩をすくめると「からかい甲斐のないやつだ」とうそぶき、時嵩の前に座る。
「して、どうした。姫に不満が出てきたか?」
那子との恋人期間が短く、結婚が早かったのを言いたいのだろうか。確かに、那子が後宮から下がり、すぐに所顕しを行ったが、それが不満なのだろうか。
「五十鈴に不満はありません……彼女のことで相談に来たのは確かですが」
「仲良くしているのなら何よりだが、何かあったのか?」
生活に不満はない。問題は、彼女の能力の方だ。
「彼女の予知能力、強くなっている気がするのですが」
「……」
沈黙が返ってきた。
予知、というより予言の能力と言うのが近いのかもしれない。那子は巫女としての能力が強い女性だ。それを見込まれて、伊勢の斎宮に選ばれたのだと思われる。
これまで彼女が予言を行うときは、神がかり的に、明らかに彼女ではない人格が降りてきていた。時嵩はそのほとんどに立ち会っているし、久柾も一度だけだが見たことがある。
これが、最近はそうではない。今日は晴れていますね、くらいの口調でさらっと予言を行う。もはや予言ではなく予知だ。今のところ寝ている間に限られるため、時嵩しか聞いていないし、本人は朝になると覚えていない。
「何故そう言えるのか、と聞いたら、「わかるから」と答えたんです」
明らかに、那子の力は強くなっているように思われた。時嵩の育ての母でもある賀茂の斎院・志子は、那子の子の力を制御するように求めた。そして、その訓練はうまくいっていたように思われる。
おそらく、那子の力が強くなりすぎて、その制御を外れてきたのではないだろうか。時嵩はそう言ったが、久柾は唸った。
「その現場を見ていないからな……」
まさか見せるわけにもいかないので、時嵩の言葉だけが証言だ。怪しすぎる。だが、真面目な朴念仁と言われる時嵩がわざわざ嘘をつくはずがないので、信用される。ある意味彼は得をしている。
「……正直なところ、結婚すれば、五十鈴のこの力は弱まるのではないか、と思っていました」
ため息をついて時嵩は言った。巫女は未婚の女性であることを求められる。乙女であることは絶対条件ではないが、斎宮も斎院も未婚だ。そのため、那子も結婚すれば予知能力が弱まるのではないかと思ったのだが。
「むしろ強くなっている、と。夫が臘月だからではないか?」
「……やはりそうでしょうか」
霊力の強い那子と結婚したのが、やはり霊力の強い時嵩だ。ここに問題があるのだろうか。相乗効果を発揮したのだろうか。ないとは言い切れないが、可能性としては低い気がする。
「冗談はさておき。そんなにはっきりわかるものか?」
「予知を行う状況がもはや違います。意識はないようですが、はた目にもわかる神がかりの状態になっていません」
普通に会話をするように予知を述べるのだ。こちらの問いかけにもこたえるので、一方的ではない。だが、本人は覚えていない。この、本人が覚えていない、と言うのが一番怖い気がする。
「……巫女としての能力が高い、と言ってしまえばそれまでだが……そもそも、あれはそこを見込まれて伊勢の斎宮に選ばれたようなものだし」
久柾が腕を組んで言った。伊勢の斎宮は卜占により選ばれる。通常は未婚の内親王から選ばれるものだが、那子は女王だ。それなのに、卜占の結果ははっきりと彼女を示していた。
伊勢へ行くのを嫌がった内親王が女王に押し付けたり、該当する内親王がいないときは女王が斎宮になることはある。大きく分ければ那子は後者に該当すると思われるが、当時、未婚の内親王は何人かいた。その中であえて那子が選ばれたのは、その霊力の高さを見込まれてのことだと思われていた。
「……彼女の、伊勢での生活はどうだったのでしょうか」
「本人に聞かなかったのか?」
「魚がおいしかったらしいです」
久柾につっこまれるまでもなく、時嵩だって那子本人に伊勢でのことを聞いてみた。どういう暮らしをしていたのか、どういう行事があったのか。そこで彼女は何を見聞きしたのか。
だが、わかってやっているのか、那子からは天然の入った返答が返ってくる。会話としては成立していないわけではないのだが、そういうことを聞いているのではない、と言う返答があるのだ。
「あれは……少々浮世離れしているからな」
かなり言葉を選んで久柾は娘を擁護した。ひとまず時嵩も「そうですね」とうなずいておく。世俗から切り離されて育っているから、間違いではない。
もともと素養があった故に斎宮に選ばれたのは確かだが、伊勢での生活も那子の能力に影響を与えている気がする。あそこは、神に近い。さすがに時嵩も久柾も伊勢を訪れたことはないが……。
「姉上に話を聞いてみるか……」
久柾が姉と呼ぶ人は二人いるが、この場合は二番目の姉の方だろう。志子ではなく、那子の伊勢群行に随行した保子のことだろうと思われた。
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