87. 結婚ではなく婚約
こんやくしゃ。
ステラはとっさに言葉の意味を掴みそこねた。
シルバーも、ついでに他の二人もぽかんとした顔でヨルダを見ていた。
婚約。王女と。シンが?
少し遅れて、ステラの胸の奥でさざ波が立つ。
王族の命令? だとしたら、逆らえるものなのだろうか――。
そんな、内容についていけていない一同の前で、顔に微笑みを貼り付けたままヨルダが続ける。
「沈黙は肯定と受け取るわ」
「…………は?」
シルバーが、たった一音でここまで不快感を表せるものかと思うほどの声を出した。同時に、周辺の空気全体が静電気を帯びてしまったかのように、肌がゾワゾワと粟立つ感覚に襲われる。
(シンに反応して精霊が怒ってる)
ステラはハッとしてシルバーの腕にしがみついた。
ヨルダの口にした内容自体は受け入れがたいものだが、ステラが前にレビンから聞いた話では、王子二人はどうしようもない連中だが、王女は優秀な人だという評価だったはずだ。ならば彼女の提案にはなにか意味があるのかもしれない。
「シン、ストップ、まずは話を聞こう?」
「やだ」
「やだじゃありません! あの、お……嬢様? ここでは詳しく話せないのですよね? とりあえずどこか場所を変えてお話をしませんか?」
完全に機嫌を損ねてそっぽを向いてしまったシルバーの頭をペシンと軽く叩き、ステラはヨルダに話しかけた。ヨルダはひどく珍しいものを見るような目でしばらくステラを見つめたあと、「ええ、それでいいわ」と頷いた。
「ありがとうございます、じゃあ、ええと……」
了承されたとはいえ、相手は王女で、話す内容はユークレースとの婚約である。どう考えても下手な場所で話していい内容ではない。むしろここにいるのもまずいし、早く離れるべきである。
しかし、ステラはそんな話ができる場所に心当たりがまったくなかった。
「あー……ねえアル、どっか、落ち着いて安全に話せる場所ない?」
「……うーん……あ、近くにいい場所がある」
「どこ?」
「セグの家」
「……ああー……」
セグニット・ホワイト。
リヒターの友人だがユークレースの人間ではない。
レグランドの警備を総括する人物で、過去に王宮の軍隊に所属していたこともあるらしい。ある意味中立と言えるかもしれない。
恐らくヨルダのことも知っているだろうし、彼女がこのような行動を取っていることに関して、なにか情報を持っている可能性もある。
「……いい場所かもしれないけど、すごく困らせるんじゃ」
「内容からしてどうせセグも巻き込まれるし。早いか遅いかの問題だよ」
確か前もそんな感じだったなあ……と、ステラはセグニットの心労を思って遠い目になってしまう。ひょっとしなくても彼は頻繁にユークレース家の問題に巻き込まれているのだろう。
「じゃあ、案内よろしく」
「らじゃ」
***
扉を開けて、一行の顔ぶれを見回した直後、セグニットは無言で天を仰いだ。
「……今日久々に休みなんだよ」
「知ってる。残念だったね」
「お前俺のシフト把握しすぎだろ……はああ……」
笑顔で答えたアルジェンに、セグニットは大きな体が縮んで見えてしまうほど深いため息をつき、「とりあえずさっさと入ってくれ」とぞんざいな身振りで家の中を示した。
セグニットの家は一般的なアパートメントハウスで、通された台所付きの居間は、ステラが現在滞在させてもらっている別館のラウンジよりも狭かった。
だが、物があまり置かれていないので殺風景で広く感じる。アルジェンによると、ほぼ寝に帰っているだけのようなものなので、寝室の中だけはぐちゃぐちゃになっているそうだ。
「セグニットさん、急にごめんなさい」
「おお、姫様久しぶり。大変だなあんたも。――って、別の姫様もいるが」
セグニットは、謝るステラに苦笑いしながらテーブルに紅茶を並べたあと、ヨルダに顔を向けた。
「どうぞ。一応申し添えておきますが、おかしなものは入っていませんから」
「ええ、心配はしていません。あなたには見覚えがあるもの」
「それは光栄の至りです。……で、どういう趣向の集まりなんだこれは」
やはり面識があったらしく、セグニットはヨルダに丁寧に会釈をした。そして、後半は台所を勝手に漁ってクッキーを出してきたアルジェンを睨みつけて言った言葉だ。セグニットの中では厄介事イコールアルジェンという図式ができあがっているらしい。
「そこの王女様がシンと結婚したいんだって」
クッキーをかじったアルジェンが肩をすくめた。
しばしの沈黙が部屋のなかを支配し、ごりごりというクッキーの咀嚼音がやけに響いた。
「……は!?」
「結婚ではなく婚約です」
サアッと血の気が引いたセグニットの悲鳴のような声に、ヨルダは落ち着いた声で訂正を加える。
「え、いや、婚約……っていっても」
セグニットの視線がちらりとシルバーに向く。
「ユークレースってだけでも問題があるのに、その上こいつはコレですけど……」
コレ、と言われたシルバーは、ステラを自分の膝の上に座らせて、離すまいと両腕で抱え込んでいた。――先程セグニットがステラに「大変だなあんたも」と言ったのはそのせいだった。
シルバーは、ステラが先程『婚約』と言ったヨルダに対して反対する態度を見せなかったことが面白くなかったらしく、ステラを抱えたまま拗ねているのだ。
しかし、ヨルダは「構いません」と言い切った。
「ユークレースの血を引く彼がすでに相手選んでいるなら、私にとってはむしろ好都合です」
「……え……特殊な性癖?」
「違います」
アルジェンの余計な一言に、ヨルダはピシャリと強めに言い返す。
「先程も申しましたが、私は提案をしに来たの……その前に、大変失礼だけど、そちらの女性のお名前を伺っても?」
ヨルダの視線がステラを捉える。
「あ、はい」
ヨルダはリシアとセグニットの二人とは面識がある。そして、ユークレース兄弟を探していた。
だが、ステラはそこにたまたま居合わせただけの人間にすぎない。
彼女からしてみればステラなど、美少年にぬいぐるみのように抱えられている謎の一般市民なのである。そんなおかしな人間の前で込み入った話などできなくて当然だ。
ステラは立ち上がってお辞儀を――しようとしたのだが、シルバーに押さえつけられているせいで身動ぎすることしかできなかった。
「そっちは名乗らないくせに、一方的に名乗れっていうのか」
なんとか脱出を試みようとするステラを巧みに抑え込みながら、シルバーが棘のある声でそう言った。
「シン、喧嘩売らないで。それにあちらは名乗らなくても分かってるし」
「ごっ、ご、ごごめんなさい……」
「あ、ううん、リシアを責めてるわけじゃないから……というかシン、いい加減離して」
むぐぐ……と力を込めてシルバーの腕を押しのけようにも、力の差が歴然でびくともしない。抗議の声も完全無視されてしまう。ステラは脱出を諦め、ぐったりとため息を吐いた。
(でも、私の名前か……)
名前はステラ・リンドグレンだが、ヨルダが求めている回答はそういうことではなく、ユークレースとどのような関係にあるのか、ということだろう。
だが、現時点で王族に対して『ユークレースとつるんでいるクリノクロア』という自分の立場を明かしていいのか、大変微妙なところだ。
そもそも、クリノクロア当主に孫娘がいること自体、まだ公にされていないのだ。
「ええと……こんな状態で申し訳ありません。私はステラ・リンドグレンと申します。少し事情があって、ユークレースのご当主様の邸宅に寄宿させていただいている者です」
「リンドグレン……?」
ヨルダは少し考え込む顔を見せた。が、思い当たらなかったのだろう。微妙に釈然としない顔になる。
そりゃ知らないよね、とステラは心のなかで苦笑する。
リンドグレンは母親の姓だし、過去に名士を排出したような立派な家系でもない。王女様がそんな家名を知っていたら、その方がびっくりしてしまう。
今の説明で、ステラがユークレース当主の家に寄宿させてもらえる程度には信用されていることが伝わればいいのだが。あとはヨルダの判断次第だ。
そう考えていたステラの横――正確にはステラを抱えたシルバーの横――で、リシアが少しだけ身を乗り出した。
「すすっステラの身元はリシア・ユークレースが保証致します。彼女は我が家門の関係者と考えていただいて結構、です……」
早口気味のそのセリフは最後が尻すぼみになってしまったが、それでも普段の彼女からは考えられないほど毅然とした態度だった。ヨルダも驚いたのだろう。しばらく目を瞬かせてから苦笑を浮かべた。
「……そう。ええ、誤解させてしまって悪かったのだけれど、彼女が不審な人物だと疑っているわけではないの。ただ……」
じっと、ヨルダは観察するような視線をステラに向けた。
「……さっき、私がそこの彼を怒らせたとき、あなたが精霊の暴走を止めたように見えたから気になったのよ。それに、少し珍しい髪の色だし――そういう方に心当たりがあるから、もしかして関係者かしら、と思って聞いてみたの」
(つまり、「あなたクリノクロアの人間でしょ」ってことね……)
相手は王女で、ユークレースの次期当主のリシアと面識がある。ならば当然クリノクロアの当主周辺とも面識があるのだろう。薄桃色の髪はとんでもなく珍しいと言う程ではないが、それでも『よく見かける』という色でもない。
もしかして関係者かしら――どころではない確信を持った顔で見つめてくるヨルダに、ステラは精一杯『一体何のことでしょうか』という笑顔を返す。
そこで不意に、シルバーがステラを押さえていた腕を解いた。
「それで? 人をわざと怒らせて、なにがしたかったの」
シルバーが口を開く。いつもの淡々とした声だ。
おそらくステラが困っているので、わざと話題を自分に向けたのだろう。
やっと開放されたステラはそそくさとリシアを挟んだ反対側に移動した。――困っているところを助けてくれたのはとてもありがたいが、膝上抱っこもかなり困るので、できれば今後はご遠慮願いたい。
「あら……あれだけ腹を立てていたのに、意外と冷静に見ていたのね」
「そっちの偉そうな態度が不愉快だっただけで、別に頭に血が昇ってたわけじゃない」
王女というものは実際偉いんだと思いますし、どちらかというとシンの方が偉そうにしてます、と思ったがステラは空気を読んで大人しくお口にチャックをする。
「ふふ、態度が不愉快、ね。さすがユークレース」
ヨルダはニコリと笑う。
彼女はシルバーの失礼な態度を別に気にしていないらしい。――それにしては目が怖い気がしなくもないが、きっとステラの気のせいに違いない。
「……では、事情を説明するわ。さっきは、少し拙速に事を進めようと思っていたのよ」
そう言って髪をかきあげたヨルダは、今までの『余裕のある王女様』然とした雰囲気が消え、どこか思い詰めた表情に変わっていた。
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少女と鳥のお話です。
自分が癒やされたくて書きましたので、癒やしが欲しい方はどうぞ。
ことりの小鳥のぬいぐるみ
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