118. 『お前の天使が』
「俺はいつになったら帰れるんだ……」
レビンはムスッとした顔で、木目が美しい大きなテーブルにほおづえをついた。
本当ならばもうクリノクロアの家を離れ、帰路についているはずだった。今頃は美しい妻とかわいい娘に囲まれていたはずで――……それなのに、今レビンがいるのは、王宮の一角にある貴賓室だった。
「やっとコーディーさんとステラとゆっくり過ごせると思ったのに……。なんでこんな地獄の番人みたいなしかめっ面のジジイと虚無の時間を過ごさなきゃならんのだ」
そう口をとがらせたレビンはちらりと『地獄の番人みたいなしかめっ面のジジイ』に目を向ける。
その相手は不機嫌な顔ですっかり冷めてしまったお茶をすすっている。猫舌なのだ。
「……こちらとて、愚かな愚かな愚息が放蕩などしていなければこんな所まで足を運ばずに済んだんだがな」
ジジイ――クリノクロアの現当主、フェルグ・クリノクロアはため息と共に言葉を吐き出した。
彼は実年齢で言えばそれなりに高齢なのだが、クリノクロアの呪いの影響でジジイというほどの老年には見えない。ただし、しかめっ面をし過ぎたせいで眉間に深く刻み込まれたシワが、どことなく彼を年相応に感じさせる。
愚息と呼ばれたレビンは、ほおづえをついただらしないポーズのままフンと鼻を鳴らし、そして、イライラを隠そうともせず空いた手でテーブルをコツコツと叩いた。
「ってか、ウチがユークレースに常駐員を置くって報告だけのためにわざわざジジイがここまで来る必要はないだろ。書類での裁可はもう受けてるんだし、それに俺まで顔出ししなきゃいけない意味がわかんねえよ。……しかも、しばらく滞在するって何だよ。理由を言え理由を!」
俺は早く俺の女神と天使のところに帰りたいんだよ、と続けたレビンに、フェルグは再びため息をつく。
「女神だの天使だの……お前は十年と引き換えに脳みそが腐ったな」
「あ? ステラが天使じゃないとでも言うつもりか?」
「はあ……まあいい」
フェルグは言っても無駄だな、とこめかみを押さえた。――そして、ふと、何かを思い出した表情で改めてレビンを見た。
「ひょっとして、ここに来た理由を説明していなかったか」
「え、今気付いたの? ずっとそう言ってるんですけど……」
「なにか騒いでいるなとは思っていたが」
「くそジジイ……。牢から出てきてすぐ連行されたんだよ、俺は。ちらっと会った兄貴が、後で説明するとかなんとか言ってたが……それきり、説明らしきものは欠片もされてない」
「そうか。てっきり誰かが話していると思っていた」
レビンは実の母であるローズ・クリノクロアの手で薬を盛られ、本家の屋敷の近隣にある古い城塞の地下牢に監禁されていた。
薬の効果が切れて目を覚ましたレビンが牢から脱出し、屋敷に戻ったところを長男のヴォーグに捕まり、フェルグと一緒に馬車に乗せられそのまま王宮まで連行されたのだ。
馬車の中では延々と説教が続いたので、レビンは半分以上話を聞いていなかった。
もしかしたらそのどこかで説明が挟まっていたのかもしれないが、フェルグ自身が覚えていないようなのでその線は薄いだろう。
「兄貴もジジイも、そういうところいい加減すぎだろ。必要な事情の説明を後回しにすんなっていつも――」
「ローズはお前を地下牢に監禁したあと、ユークレースに乗り込んでいった」
「唐突に始めすぎだろ! ……って、マジで行ったのかあのババア!」
「お前が娘に会わせないと言うから、なおさら興味を持ったんだ。……放っておくと騒ぎを起こしかねないと判断して、ローズにはユークレース相手に、愚息を置かせてもらうことについての打ち合わせを任せた」
「いや、人選ミスだろ!」
「だからエリオを同行させた。少なくとも死人は出ていないし、ユークレースとの間に問題も起きていない。報告上は」
「報告上って何だよ……。そもそも打ち合わせで死人の心配しなきゃなんねーのが人選ミスの確固たる証拠だろ……」
全てを武力と暴力で解決しようとするローズは、どう足掻いても話し合いに向く人間ではない。
次男のエリオがいれば会話は成立するだろうが、ローズの存在が及ぼすマイナス効果のほうが大きすぎて、うまく進んでいた話し合いも破談になる未来しか見えない。
ツッコミどころが多過ぎて、レビンにはもはや頭を抱えることしかできない。
「それとは別に、ユークレースにヨルダ王女殿下が単身で向かったという情報も入っていた。そういう事態に備える必要もあったんだ」
「はあ? 単身? ……王女がお供も連れず?」
「そのようだ。ただ、ユークレースまでの移動は単独ではなく、ダイアスのところの娘が協力したようだがな」
「ダイアスの娘が? ユークレースに?……いや、どんな展開だよそれ。俺がババアに監禁されてる間に状況が変わりすぎだろ」
「ダイアスの娘の意図は不明だが、王女殿下に関して言えば、単身動くことを決する程度に事態が差し迫っていた、ということだろう」
ヨルダ王女はその聡明さで名をはせている人物だ。当然、考え無しにそんな危険な行動は取らないだろう。
彼女の想定を越えた、相当な事情があったのだろうというのは考えずともわかる。
しかし、今さらポンコツ王子二人が彼女にとって『想定外』なことをしでかすとも思えない。ということは――。
「……バカ兄弟じゃなくて王弟妃がなんかやったってことか?」
「ああ。クレイス公子とダイアスの孫娘との婚約が内々に決まった。それが王女の動いた理由だろうな」
表情を変えずにうなずいたフェルグに、レビンはぽかんと口を開けた。
旧家のダイアスがクレイスにつけば、パワーバランスは目に見えて崩れてしまう。
「……なんだよそれ、あの王弟妃も、ダイアスのジジイもなりふり構わずだな」
「それだけなら、放っておいても良かったんだがな」
「いや、良くないだろ」
レビンは思わず突っ込んだが、フェルグはおもしろくなさそうにフンと鼻を鳴らした。
「ダイアスと揉めるのはユークレースの仕事だろう。王弟妃にしても、なんだかんだと言ったところで、ユークレースの意思を無視して国を動かすことなどできない」
「まあ、うん……そりゃそうだが」
今のこのティレーという国は、内政の観点でも国防の観点でも、ユークレースを抜きにして語ることはできない。
彼らは表立って政治に口出しはしていないが、やろうと思えば国を乗っ取るくらいの実力があるのは明白だ。
だからこそ、その抑止力として精霊を寄せ付けないクリノクロアの力が求められるのだ。――ユークレースに対抗する立場として。
「うちがしゃしゃり出ることで、なんだかんだと手回しされてユークレースと敵対させられるのは困るだろうが」
クリノクロアの人間には精霊術が効かない、というところだけはそれなりに知れ渡っているので、世間は色々と期待しているようだが――。
国内の精霊術士をまとめているユークレースとの対立など、零細一族のクリノクロアにとって恐怖でしかない。こちらは精霊術が効かないだけであって、物理攻撃は普通に効く。夜陰に乗じて刺されでもすればお終いなのだ。
「まあな……それなら、ジジイがわざわざ出張してきた理由は何なんだ」
「ああ。王弟妃殿下が呪術に手を出し始めた。他国から人を買ってきて使っている形跡もあるようだ」
「……それ、確定した情報なのか」
立場ある人間が、呪術に手を出した?
しかも、外国から人を買って?
――使っている、ということは、現在は世界的に禁止されている『他人に呪術を使わせる』という行為にも手を染めている、ということになる。
フェルグが「残念ながら」と頷くのを見て、レビンは自分の口元が引きつっていくのがわかった。
「マジか……」
「クレイス公子が玉座に座ったとして、結局のところ最大の障害になるのはユークレースだ。対抗するすべがあるとすれば呪術、と考えたのかもしれんな」
「いや、呪術、しかも禁忌に触れるんだぞ? そこまでバカじゃないだろう、さすがに」
「王弟妃殿下が呪術に興味を持っているという情報は大分前からあったんだ。呪術に使うために、あの精霊のなれの果てたちを身の回りに置いていた、ということであれば――王弟妃殿下はすでに正常な思考ではない可能性が高い」
精霊のなれの果て――フェルグがそう呼ぶのは、魔術で自由を奪われて、使役される、精霊だったものたちのことだ。
普通の人間はその存在を感じ取ることができない。精霊を見ることができるユークレースの人間でも見えないというのだから、あれらは呪術に利用された時点で完全に『精霊』というものの枠組みから外れてしまうのだろう。
飢えと共にゆっくりと死に向かう彼らは、負のエネルギーの塊のようなものだ。呪術のために長期間使役していれば、術者自身も知らず知らずのうちに精神をむしばまれていく。――そういう類いの存在なのである。
「これ以上、なれの果てを量産されては敵わん。王弟妃殿下には早めに釘を刺しておく必要がある。……早速先日、王宮へ戻った王女殿下が標的になったようだしな」
「王女が? ……王子じゃなくて?」
「ああ、話していなかったな。ヨルダ王女殿下はユークレースの公子と婚約して、ユークレースの威光を盾にかざし、王位継承争いに参加すると名乗りを挙げた」
「はあああ!?」
「うるさい」
「説明の順序がおかしいだろうが!……あっ、それで王女が一人でユークレースに行ったのか!」
ヨルダは王弟妃とダイアスの結びつきに対抗するすべとしてユークレースを選び、そして、ユークレースも彼女の提案に応じた。
その結果がユークレースの公子との婚約、ということらしい。
「……ってかユークレースの公子って誰だ? わざわざ『公子』って言うからには、ユークレースの中枢に近い家の奴だよな」
「シルバー・ユークレース。お前の娘に執心している少年だ。事情があれど、当主の血をひいているんだからケチの付けようがないな」
「しるばー……?」
聞き間違いかな、と、レビンは復唱した。
だが、当主の血をひいていて、ステラに執心している少年など、どう考えても一人しか存在しない。
「な――」
「騒ぐな。どうせ偽装だろうが」
「う……ぐ……」
公子――口汚く言ってしまえば当主の隠し子との『婚約』。
戸籍上シルバーは正式にリヒターの息子だが、それでも彼のあの髪は当主と同じ色をしている。正妻の子ではなくても、世間の目からしてみれば、シルバーはどう見てもユークレース家の『中枢』に近い少年なのだ。
年の頃もヨルダ王女とそこまで離れていないし、手っとり早くわかりやすい、最適な人選である。
「王女殿下が継承争いに参戦した結果、他の候補者の陣営からの妨害が始まった。――特に王弟妃殿下は相当焦ったようだな」
「ああ、それで呪術か……王女は無事なのか?」
「無事だ。まだはっきりと情報が上がってきていないが、おそらく、お前の天使がなれの果てを再生させたからな」
「……今、なんて言った?」
フェルグの厳つい顔の、口の辺りから『お前の天使が』という音がしたような気がする。
レビンは、気のせいであってくれと願いながら尋ねた。
「今、お前の天使は王宮内にいて、王女殿下の護衛をしている。それで王女殿下が呪術をかけられたときにも、そばにいたんだ」
「え、なんで?」
ステラが、王宮に?
返ってきた返事の内容があまりにも衝撃的すぎて、なにを言われたのかよく分からなかった。
だってステラは、まだ存在が公になっていないとは言え、今この国内で最も王族に狙われる可能性が高い娘だ。――ユークレースに守られているから安心していたというのに、なぜ渦中にいるのか。
それに護衛と言った気がするが、ステラは、あの粗野で戦いのことしか考えていないローズとは違い、普通の女の子のはず――。
「ああそういえば何日か前に、王女殿下のそばを歩いてるのを見かけたぞ。言ってなかったか」
「……」
はて、と首を傾げたフェルグをまっすぐに見ながら、レビンは大きく息を吸い込んだ。
「……必要な説明を後回しにすんなっていつも言ってんだろうがーーっ!!」




