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幸せの黒猫喫茶へようこそ  作者: 尾多 悠
四章 少女達の戦い
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少女達の戦い(10)

 明莉が浅い眠りを繰り返しているうちに、気付けば空は朝焼けに染まっていた。

 どれだけ長く感じていても、時間の流れが止まっているわけではない。

 これまでも、明莉はそのことを嫌と言うほど痛感していた。


 頭は鉛を詰め込んだみたいに重かったが、もう眠る気にはなれなかった。

 母に見られる前に顔を洗おうとベッドから這い出す。

 前髪を切るまでは自分の顔なんて意識しなかったが、洗面台の鏡に映る顔は寝癖もあいまって酷く陰気だった。


 冷水で気合いをいれてから制服に着替え、エプロンをつけてキッチンに立つ。

 朝食と弁当を同時進行。昨夜は下ごしらえをする時間がとれなかったので、早過ぎるくらいで丁度よかった。


「…………梢」


 明莉は自分用の小さな弁当箱を手に取り、ふと動きを止めて空っぽの中身を見つめた。

 あの誕生日以降、見るとえづくような感覚に襲われることもあったが、いまは大分楽になっている。


 何気ない日常の一部に、梢の影を感じる。

 彼女のために何ができるのか。

 それとも、できることなど何もないのか。


 昨夜から明莉が考えているのはそればかりだった。


「明莉? どうしたの、こんなに早くに」

「あ……お母さん」


 ぼんやりしていると、母の陽和の声が聞こえて振り返る。寝起きの頭は親子で似ていて、明莉はちょっとだけおかしくて笑った。


「ごめん、起こしちゃった? 昨日も遅かったんだから、もう少し寝ててよ」

「……ううん、いいわ。今日はお母さんも手伝うわよ。ちょっと待ってなさい」

「え? そんな、いいのに……」


 言うや寝室にとって返す母を止めきれず、明莉はしおれた花みたいに項垂れた。

 しばらくして、ワイシャツとパンツスーツに着替えた母がキッチンに戻ってくる。


「あら、エプロンがないわね?」

「もうー、だからいいって言ったのに。シャツが汚れたらだめでしょ」

「ごめんごめん。なんだか昔を思い出しちゃってね。覚えてる? 明莉が台所に立ちたいって言い始めたとき、小さいエプロン買ってあげたでしょ。あれ、どこにしまってたかなぁ……」

「そんなの探してる時間なんてないよ。とにかく火のまわりはわたしがやるから、手伝うならそれ以外のところね」

「了解。ふふ、娘がしっかりもので助かるわ」


 食器棚から皿を出しながら、陽和はほんのりと口端に皺を寄せていた。


「それに、最近明るくなったわね」

「そうかな?」

「ええ。髪を切ったときは驚いちゃったけど、可愛いし似合ってるわよ。これも木野内さんのお陰かしらね?」

「…………うん。そうだと、嬉しいな」


 優しさがじわりと胸に滲み、明莉は静かに唇を綻ばせた。

 自分に何ができるかはわからない。それでも、この受けたものは返したいと心から思った。


「ねえ、お母さん」

「ん?」

「わたしのこと、好き?」

「え!? どうしたの急に!?」


 陽和は明莉が冗談でも言い始めたのかと、中途半端な笑みを浮かべる。

 しかし振り向いて見た娘の目は真剣で、期待と怯えがない交ぜになったような色に震えていた。


「……何かあったの?」


 手に持った皿をテーブルに置いて、陽和は娘のそばに近付く。

 娘の瞳には困惑した自分の顔が映し出されている。そしてまさにそのとき、後悔に揺れる娘の瞳に陽和ははっと目が覚めた。


「明莉、あなたのことは好きよ。誰よりも愛してる」


 瞬間――迷わずに言葉を紡ぎ、胸に手繰り寄せるように娘の背中を抱き締める。大切なものを取りこぼすまいと、必死に両腕に力を込めていた。


「ごめんね。娘に甘えてばかりのダメな母親で」

「ううん。わたしのほうこそ、いきなりごめんなさい……」


 明莉も頬をすり寄せて、母の匂いを胸いっぱいに吸っていた。


「いいのよ。反抗期にしては可愛らしいけれど、我が儘くらい言ってもいいんだからね?」

「ありがとう。でも、もう大丈夫。わたしも、お母さんのこと好きだよ。愛してる」

「わお。嬉しいわね。今日は人生最高の一日かもしれないわ」


 陽和は満面の笑みで、腕に抱いた娘の髪を撫でる。明莉もその愛に応えるように、力強い微笑みを浮かべた。


「お母さん……いまね、実を言うと、少し大変なんだ」

「……大変? もしかして学校のこと?」

「ごめんね。何言ってるのって思うよね。詳しくは言えなくて……でも、聞いて欲しくて」


 これは明莉にとって決意表明だった。

 園花千香の言う通りだった。母はちゃんと自分を愛してくれている。

 それがわかっただけで、無限に力が湧いてくる気がした。


「ある人には頑張らなくていいって言われたけど、やっぱりわたし、友達のために頑張りたくて……もし、もしもどうしようもなくて、本当に困ったときは……ちゃんと言うから」

「そう……うん、ちゃんと聞いているわよ」


 懸命に羽を広げようとしている雛鳥を見守るように、陽和は娘の言葉を聞き入れる。


「困ったらいつでも言いなさい。絶対に力になるって約束する」

「ありがとう。頑張ってくるね。さ、続きをしなくちゃね」


 名残惜しそうに母から離れた明莉が、照れ隠しのように言ってエプロンを締め直す。

 陽和はそんな娘の姿に、ほのかな巣立ちの気配を感じていた。




「行ってきます」


 登校するには、いつもより大分早い時間に明莉は家を出た。母よりも先になるのも、随分と久しぶりに思える。


 明莉は胸を張って通学路を歩いた。

 自分は幸福だ。その実感が胸を満たしている。


 どれだけ非情で、残酷で、目を背けたくなる現実が世の中に溢れかえっていたとしても、受け入れる。

 自分はいま幸福で、それでいい。


 まだ朝の冷気に支配されている校舎前で、明莉は梢を待った。

 いつも彼女が早くに学校に来ていることは知っていた。

 そしてその予想通り、間もなく待ち人の姿が遠くに見える。


「……おはよう」


 向こうもこちらの姿が見えていたはずだが、目を合わさずに通り過ぎようとする。

 その進路を塞ぐように割り込んで、明莉は梢と正面から向き合った。


「どけよ」


 世の中の全てを敵と見るような目で、梢が明莉を鋭く睨む。

 だが、明莉は梢の視線を跳ね返すように笑って見せた。


「いや。わたしは梢に話があるの」

「……どこで誰が、あたしのことを見てるかわからねえんだ。余計な真似はするな」

「誰が見てようが、わたしと梢の間に関係ある話じゃないよ」

「あるに決まってんだろ。昨日は山岸の奴とつるんでたみたいだな。何考えてんだか知らねえがやめろ。邪魔なんだよ」


 梢は無理矢理前に進み、肩をぶつけて明莉を押し退けた。その背中を振り返り、明莉は大声で宣言する。


「梢! わたしは梢の友達をやめたつもりはないからね!」

「うるせえ!」


 怒鳴り返す梢の声がぐわんと冷たい空気を揺るがす。明莉は毅然とした態度のまま、校舎に入っていく彼女の背を見つめ続けた。


 もし本当に誰かが梢の動向を見張っているというのなら、このやりとりも聞かれていることだろう。

 梢の味方をすると決めた自分を見せつけた。きっと、見ている相手も放ってはおかないはずだ。

 それを解った上でのこの行為は、その相手へ対する明莉からのわかりやすい挑発でもあった。


 さあ、餌は撒いてやった。食らいつけと。

 明莉は堂々と、去った梢の後を追うように校舎へと歩いて行った。

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