さらば、アテン
目の前のナイルが高く昇ったラーの光を反射させて、黄金に輝いているように見える。それらが放つ眩しさに目を細め、大きく息を吸い込んだ。
全身に陽の光を浴びながら、流れるナイルのせせらぎに耳を傾ける。ナイルの冷たさを含んだ風が私の頬の熱を冷まして、後ろにあるアケトアテンの王宮の中へと過ぎていった。
「姫様、大事な御身です。お気をつけください」
背後からネチェルが声をかけてくる。
「大丈夫よ、心配しないで」
彼女があまりに心配するものだから笑ってしまう。ナイルに飛び込みでもしない限り溺れることも無いのに。
彼に何も言わないで来たのが、彼女にとっては心配で仕方ないようだった。こんなにも冷や冷やさせてしまうくらいなら私一人で来た方が良かったかも知れない。
「ああっ!裾に水が!」
ネチェルは悲鳴のような声を上げると、慌てて屈みこみ、私の衣を持ち上げ、ナイルから離れるよう促す。並々と揺れる水面に長いスカートの裾が掠るだけでこの有様だ。
「裾くらい濡れても平気よ。万が一溺れても泳げるもの。そこまで軟じゃないわ」
「何を仰います!このような人も少ないところへ、王妃となられた御身でいらっしゃることだけでも問題なのです。ナイルは時に恐ろしいこともあるのですよ、細心の注意を払わねば」
そう言いながら今度は陽を浴びすぎないようにと上着の帽子部分を被せようと手を伸ばしてくる。ついでに風で乱れた髪も直され、心配で堪らぬと言った顔で私を見つめてきた。
「どうしたの?いつも以上に心配性ね」
正式に王妃になったとは言え、その前も王家の姫君としていたのだからそれほど扱いに変化が出るものでも無い気がする。
「どうしたも何も、身籠っていらっしゃったらどうするおつもりです。お身体に障ります」
「みごも……?」
彼女の想像もしていなかった言い分にきょとんとしてしまう。
「ファラオの御子を宿していらっしゃる可能性も無い訳では御座いませんでしょう。もしそうであったら…」
彼女の言っている意味が分かった途端、驚いて慌てて首を振る。頬に熱が走って咄嗟に頬を片手で抑えた。妊娠していたら大変だと彼女は心配しているのだ。
「ネ、ネチェルったら気が早いわ。やめてちょうだい」
「早いも遅いも御座いません!」
彼女は至って真剣な面持ちで私に詰め寄ってきた。
「御身、もっと大事になさってください。このようなナイルに近い場所を歩かれてはいつ転ばれることか!」
「分かった、分かったから落ち着いて」
このままでは勢いで王宮に引き戻されてしまう。どうにか納得してもらおうと辺りをざっと見渡してからその場に腰を下ろした。
「ならここに座ります。これならつっかえてナイルに転ぶこともないでしょう?ね?だからもう少しだけここにいさせて」
水辺に座って見せると、ネチェルはようやく納得して、私の後ろに控えるように膝をついた。それでも決して離れまいと息巻いている。
「それにしても姫様、何故突然このような所に?都を遷すと決まった今、ここには何も御座いませんよ」
不思議そうにするネチェルからナイルの方に視線を移す。
殺風景になってしまった中庭を見渡し、それから膝上に置いた荷物に視線を落とした。撫でいる内に、昨夜振り切ったはずの寂しさがじんわりと甦ってくるのを感じた。
「……別れをね、告げに来たのよ」
それだけ答え、雲一つない空を仰ぐ。
この地から太陽を見上げるのはこれでおそらく最後になる。最後にこの国から見える風景を目に焼き付けておきたかったのがここへ来た一つの理由。
アマルナと呼ばれるこの地が都だった期間はたった十数年。きっと、彼がこの大地の都の名を消す人間なのだろう。これを最後に、アマルナは都としての栄華を忘れ去られ、砂漠の茶色と化す。
今見ている風景と、記憶にあるアマルナの風景を交互に思い浮かべて時代が変えてしまう物悲しさを想った。
私を包む、柔らかな麻の上着から覗く腕には、細い金の腕輪が相も変わらず太陽の光を反射させている。そんな古代の衣装には不似合のショルダーを膝に置き、風を感じた。
「ヒロコ」
振り返れば、セテムたちを引き連れた彼が、心地悪そうに首を何度か傾げながら王宮からこちらへ向かってきていた。
初めて町へ連れて行ってもらった時と同じように、傍から見れば盗賊のような風貌の黒い上着を羽織っている。
「どこにいったのかと思えば、こんなところにいたのか」
「あら、話し合いは終わったの?」
立ち上がって相手を迎えた。
朝起きてからというもの、彼はナルメルたちと共に打ち合わせに向かっていた。とにかく忙しそうにあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。
「問題はない。何もかも予定通りだ」
彼が私の隣に歩むと、ネチェルは他の侍女たちのいる後ろへいそいそと下がって行った。
「強いて言うなれば、これがごわごわして着心地が悪いことくらいだ。これを羽織るのはあまり好きではない」
何度も襟元を整え直している彼の表情はいかにもその上着が嫌いで仕方ないと言う風に歪んでいる。
「それよりもだ。探したぞ。何故このようなところにいる」
問われて、ショルダーとは別にワインカラーの布に包んで持ってきた、決して大きいとは言えない荷物を手に取った。中にあるのは現代での衣服、携帯、財布、大事な写真たちだ。
「これを捨てに来たの」
軽くも重くもない荷物は、一番下に置いたポリエチレン製の服のせいでその柔らかさを深い赤の中から腕へと伝えてくる。
今でも大事に思えるこれらを捨てるのならば、ナイルにしようと考えていた。私の生まれる3300年後でもずっと流れ続けるこの大河へ。両親に届くとは思えないけれど、遥か、遥か遠くに、時を越えて持って行ってくれるのではないかという願いがある。
──さあ、お別れよ。
胸の内で告げて、腰を屈めると両手で荷物を太陽の下に差し出した。真下には並々と青いナイルが待っている。
この手で現代との繋がりを断ち切ろう。
深呼吸をして、胸を澄み切った空気で満たした。
「さようなら」
呟きが風に攫われると同時に、ふっと腕の力を抜いた。時の速さを遅めたかのように荷物がゆっくりと水面に向かっていくのが見えた。風に吹かれて浮くかと思いきや、そんなはずはなく重力に従って落ちていく。やがては水面を破り、思っていたより少ない水しぶきをあげて、赤は青を突き抜けた。
咄嗟に水辺の淵に手をやって身を乗り出し、ナイルを覗き込む。
しばらく屈んだまま眺めていたら、荷物を包んだ赤色は青に埋もれて見えなくなった。
ああ、落ちた。沈んでしまった。
それを知って、中途半端に床に置いていた手をぐっと握りしめた。──これでいい。これで、良かった。
「……捨てたのか」
投げられた声に顔を上げれば、彼が私の傍から下のナイルをその淡褐色で見下ろしていた。
「ええ」
ナイルから吹き上がってくる風を浴びて立ち上がり、彼の方を見ずに答えた。
「良かったのか」
「良かったの」
短く聞かれて、短く返す。淡々とした会話だ。
「大事なものだろう」
「大事でも必要ではなくなってしまった。ここにいると決めた私には、もう持つ資格がないのよ」
彼は黙ってナイルを見下ろしたまま。
「ほら見て、軽そうでしょ?移動しやすくなった。これでいつでもメンネフェルに行ける」
下に置いていたショルダーを拾い、彼に見せてみる。
「随分と萎んだな。何だか哀れになる」
彼もその鞄を大きな手で撫でて小さく笑う。前は服も何もかも詰め込んでいてそれなりにパンパンだったものだから、今の状態を見ると本当に同じものなのか疑うほどだ。
「もうあの魔術のものは使えぬのか……つまらぬ」
「残念でした」
魔術の物とは、彼のお気に入りだった携帯のことだ。持っていたところで、充電しないと動かないし、そもそも私しか持っていないのだからこの時代では何の役にも立たない。
「あれも捨てたのか?」
「あれ?」
首を傾げて問い返した私に、彼はにっと笑う。髪を靡かせる相手の姿に少し見惚れて、その口からどんな言葉を発してくれるのかと思いきや。
「ぶらじゃー」
期待はどこかへと散って行った。私の反応を見て、その人はけらけらと肩を揺らす。
「ぶらじゃーという名のお前の胸当ても捨てたのか」
馬鹿ねと言ってその人の腕を叩くと彼は少しだけ自慢げな顔をして、私の隣でナイル映った自分の姿を眺めた。
「捨ててしまったわ、全部」
ナイルの小波の音に耳を澄ませ、静かに声を添える。
「下着も写真も、携帯も、全部ね」
ショルダーの中は専門書と、結局文字を変えてやると意気込んで残すことにしたパンフレットの二つだけ。写真も服も、思い出が詰まったものはすべて捨ててしまった。もう何もない。
私の気持ちを汲んでくれてか分からない。彼は私を腕に抱き寄せ髪をくしゃりと撫でた。その仕草に不意に胸が苦しくなって私も身を寄せて瞼を伏せた。
──母なるナイルよ。
どうか、遠くに。私の思い出を、掛け替えのない物を、どうか、どうか私の目の届かぬところへ。運んで。その色を消して。
肩にあった褐色の手に、つと力が篭ったのを感じてナイルから目を離し、彼を見やった。降り注ぐ陽が彼の焦げ茶の髪を金色に染め、所々黒の細い帯で固定された黒い上着が揺れ、その腕に巻き付いた太い金の腕輪が顔を見せる。
悲しそうな。何か思い悩んでいるような。そんな哀愁に似た雰囲気がその人を取り巻いていた。
幼い頃から慣れ親しんできた地を離れるのは、この人にとって辛いことなのかもしれない。
何か声をかけようとしていたら、彼の方が不意に「そうだ」と声を上げてこちらに目を向けた。
「朝に聞きそびれたことがあったのだ」
唐突に何であろうと思ったら。
「身体は大丈夫か」
意味が分からず一度思考が停止する。
「昨夜は随分と無理をさせた気がする。歯止めがきかなかった」
彼が少し苦笑しながら私の髪を撫でると、ぶわっと熱が身体中に走った。意味が分かるや否や彼の口元に手を伸ばしてその先の言葉を遮ろうと必死になる。
「い、今、そんな話しないで…!ネチェルたちもいるのに!」
距離があるとは言え、後ろに控える侍女たちにもし聞かれでもしたら恥ずかしくて死んでしまいそうだ。
私の様子に喉を鳴らすように笑うと、自分の口元に当てられた私の手を掴んでそこに口づけた。
「慌てる必要などない。ネチェルはそのようなこと百も承知だ。お前の第一の侍女なのだからな」
取り乱す私に対して彼はけろりと言ってのける。
心から気遣ってくれているのは分かるけれど、それでもここでそれを改めて言われるのはとてつもなく恥ずかしい。
「眠くなったら、寝心地は悪いだろうが馬上で寝ていても構わぬ」
私の髪を撫でてそう言うと、彼はまたナイルに目を向けた。
彼を見て、またその眼差しが悲しげに揺れるのを見た気がした。
「ファラオ、王妃」
響いた背後からの声に、彼がすっと私から身体を離して振り返った。誰が何を言いに来たか、もうすでに分かっているようだ。
振り向けば、ナルメルがこちらを眺めて微笑んでいた。髭を撫で、宰相は私たちに頭を下げる。
「ご出発の準備が整いまして御座います」
時が来たのだと悟る。この地が都の名を失う、その時が。
「行こう」
頷いた私を再び抱き寄せ、彼は黄金のサンダルの音を一つ、高らかにナイルの水辺に落とした。
外に出た私の視界に広がるのは、荷物をつけられた馬がずらり成す列と、ざっと見積もって700ほどの平伏す兵士たちだった。
毛並の良い真っ黒の馬たちがこれでもかと並んでいると圧巻だ。おそらく兵も馬も王族を守るために最上級のものを集めているのだというのが、一目で分かるくらいだった。
「……すごい」
一体誰に頭を下げているのかしらときょろきょろと見回すけれど、どう考えてもそれは彼と私に向けられた敬意であり、今自分がそれだけの身分にいるのだと、また自覚が胸に重く降り積もるのを感じた。
一方、私にとっては異様なその光景の中を、彼は悠然と歩んで階段を降りていき、その先にすらりと佇む白馬まで行ってしまう。
さすがは生まれつきの王族だと納得する中、彼は私に対して溜息をついた。
「何をしている、ぐずぐずするな」
「い、今行きます」
さっきの悲しそうな顔は思い過ごしだったのだろうかと思いながら、上着の裾を捲りつつ長い階段を駆け降りて彼の隣に並んだ。
「あのような間抜け丸出しの顔をするな。お前は王妃なのだぞ」
私の頭に後ろに流していた帽子部分を被せ、彼は顔を顰めた。間抜けと言われて納得する部分もあるから、被せられた帽子部分の布を両手で掴んで頷く。
「そうね、気を付けるわ」
感情を一々表情に出さないように。凛として、背筋を伸ばして、威厳を持って。
彼はそのあたりの区別が上手い。王としての自分と個人としての自分をそれぞれしっかり分けている。
公の場にいる時はもっと王の妃としての自覚を高めたいと思っても、どうしたらいいか分からないというのも事実だった。王妃とは、どうしていれば王妃らしいと言えるのだろう。
「いよいよで御座いますな」
ナルメルが静かに、何か強い眼差しを浮かべて彼に告げた。
「お前とは後から合流だな。その年だ、無理だけはするな。まだお前に死なれては困る」
「ありがたきお言葉。3日ほど遅れて向かいまする。お二人ともくれぐれもお気をつけて」
高齢のナルメルには今回の長距離の移動は身体に悪いという理由から、私たちの後にゆっくり来ることになっていた。
「ナルメルも気を付けて。合流したら、また文字を教えてね」
「ありがたきお言葉です、王妃。喜んでお受けいたしましょう」
宰相は私に優しく微笑んでくれた。
「セテム」
次にその隣に立つ、セテムとカーメスに向かって彼が呼びかけた。
「あとはお前に頼んだ。カーメスと共に私の留守の間上エジプトを治めよ」
「御心のままに」
二人の会話に、私は首を傾げた。
「ここに残るの?セテムが?」
まさか第一の側近が彼から離れて残るなんて想像もしてなかった。驚く私にセテムは「おっしゃる通りです」といつもの無表情で頷き、彼は「言ってなかったか」と首を傾げたけれど、全く以て聞いた覚えが無い。
「セテムは上エジプトでの私の側近だ。下エジプトにはまた別の側近がいる。セテムと張り合うことが出来るほどの側近がな」
彼が意味ありげに口端を上げてセテムを見やると、セテムは不快感を露わにした。
「お言葉ですが、あの者に側近と言える質はまだありませぬ」
忠犬が彼に口出しするなんて珍しい。
それにしても将軍も上下で分かれていて、ホルエムヘブというエロ将軍がいたけれど、側近も分かれていたとは知らなかった。女官長であるネチェルも同様で、下エジプトには自分より素晴らしい人が女官長としているから、と上エジプトに残ることを知ったのは今朝だった。
「新たな側近や侍女たちが首を長くして今か今かと我らの到着を待っているはずだ」
上エジプトと同じように下エジプトにもそれぞれ役割を持つ、私の知らない人々が待っている。下エジプトの将軍、側近、女官長。一体どんな人たちがそこにいるのかと興味が湧いてくると同時に、ここで親しんできた人たちと別れることになると思ったら、急に悲しさがこみ上げてきた。
「姫!」
ぱっと弾けた声に俯きかけた顔を上げると、くせ毛を揺らすカーメスがひょっこりと顔を出して見せていた。語尾を弾ませ、上エジプトの将軍は笑う。
「そのようなお顔をなさいますな。テーベが都として甦る時が来ましたらまた我々も合流いたします。もしその前に私にお会いしたくなりましたら私がハヤブサのごとく飛んで姫の前に参上いたしましょう」
にっこりと頬を緩ませるものだから、私の頬も自然と持ち上がった。
「ありがとう、カーメス。楽しみにしてます」
将軍の返事を聞き届けると、彼は私を抱えて馬に乗せると、自分も素早く飛び乗った。
「行くぞ」
久々の馬上の感覚に素っ頓狂な悲鳴を上げて咄嗟に彼にしがみつくと、それを待っていたかと言わんばかりに彼は私を深く抱き込んだ。すっぽりと腕にはまったまま相手を見上げると、彼は子供のような晴れやかな笑みを浮かべている。先程私に王妃らしくしろと言ったのはどこの誰だっただろう。
「何かあればすぐに知らせよ。使いを出せ」
あたりに響きた渡る主の声に、一瞬緊張が走った表情でセテムもカーメスも深く頷き、腕を斜めに胸元に置いて深々と頭を下げる。
その光景を見届けた彼は、これで別れになるだろうアケトアテンの宮殿を見上げた。目を徐々に細め、何かに思いを馳せるように何も口にすることなく静かに。このずっと先の未来で、北の宮殿と呼ばれ、瓦礫となる立派な建物を。
「テーベで」
やがて手綱を握り、彼は告げた。
「相見えようぞ」
馬が足を動かし、地面の砂を舞わせたのを合図に、周りの兵士たちも馬に飛び乗った。多くの馬たちが地を蹄で鳴らすものだから、地震のような揺れを感じた。ここで一時的に別れるセテムたちを砂煙で包んでいく。
「いざ、我らが古の都へ!!」
片腕を上げ、その黄金の腕輪を煌めかせ、王は叫んだ。
続いて歓声が響き、視界が動いてセテムやカーメスの姿が消え、私たちは遥か北、エジプト国家創立の都市へ向かって進み出した。
行列を成して私たちはそのほぼ先頭、馬に乗った少し身分の高い兵に周りを囲まれながら砂漠を馬で駆けていた。
ほぼ先頭、というのは、私と彼をを槍を持った兵が綺麗に囲みながら進み、その周りを更に馬に跨った兵が守る、という徹底状態であるからだ。本来の王族の移動は輿などで姿が外から見えないようにするものだと言うが、輿にしてしまうと徒歩の兵が出てくるということもあり、時間短縮のために全員馬での移動になっている。
その様子を思い浮かべればまるで日本にある参勤交代の絵図であるようなのに、皆が馬であるものだからとてつもなく速い参勤交代だ。
風がいつもより強いのか、砂漠が列の足に舞い上がり、あたりに砂埃を浮かべ景色を曇らせていた。
それなりの速度で進んでいるものの、現代に帰った時、アマルナへ行こうとタクシーに頼んでもカイロから300キロで3時間であったことを考えると今日中に着くことは難しいだろう。私たちが行こうとしている古の都はカイロとは30キロほど離れているだけだから、道のりは同じくらいだ。
車ならともかく、今は馬だ。出発してから3時間なんて当の昔に過ぎていたし、砂漠だけしか見ることが出来ず、今自分がどこにいるのか、どこまで来ているのかなんてこれっぽっちも把握できない。
「アンク、」
無言で馬を進めていた彼に呼びかけると、砂が入らないようにと口を覆っていた布が自分の声を振動させて、いつもよりくぐもった音を生んだ。そんな声にでも、目元しか見えない顔を彼は私に向けてくれる。
「メンネフェルにはいつ着く予定なの?」
そうだな、と唸ってからもう一度私をその眼に映した。
「明日の朝、もしくはラーが空の真上の時刻だ」
彼の声も独特なくぐもったものになっていて、私に触れる手には黄金かと見紛うほどの色を持った砂の粒がいくつかこびり付いている。ふと見れば腰に下げてある私のショルダーもいくつかの黄金が落ちていた。
「今夜はもう少し行った先のオアシスで過ごす」
オアシス──昔から砂漠の国の商人たちが旅の疲れを癒したと言われる砂上に浮かぶ楽園。そんなものがこの水一滴もないこの地にあるのだから自然は未知の塊だと実感する。
とにかくこの景色のどこかに木が見えたら今日は終わりなのだと納得した時、急に彼が馬を止めた。それに続き、長い列も止まる。
「どうしたの?」
彼が視線の先を追って、そこに現れたものに私は目を見張った。
顔の高さまで湧き上がっていた砂塵で見えなかった太陽が今、西の砂漠の線に近づき、色を変えて赤い矢を放っていた。
ああ、と。後ろの列の人々が感嘆を漏らし、誰かが「神よ」と唱えたのを聞いた。
私も目の前に広がる光景に畏怖の念を抱かずにはいられなかった。これほど綺麗な空と地の接線を、今までに見たことがあっただろうか。地平線の上に僅かに残る陽は赤く、接線は金色に一本貫いている。海から出る太陽のように、金波が砂漠の地に私たちに向かって伸びていた。
神が現れたと思ってしまうくらいの壮大さと、声を上げてしまいそうになるくらいの美しさ。それらを織り成し、私たちの顔を赤に染め上げる。
言葉になんて出来るようなものではない。もともと、言葉にしていいものではないのかもしれない。そう思わせるほどの神々しさと神秘に満ちて、光の矢で私たちを射抜き、言葉を奪っていった。
「──アケトアテン」
彼の呟いた名に、思い出す。アマルナの古代名アケトアテンの意は、「アテンの地平線」。その名の意味を、離れる今になって噛み締める。
彼の父アクエンアテンはこの地平線を美しいと思ったからこそ、その名をつけた。これこそが、先々王の見たアテンの地平線であったのだろう。名前の真の意味。神の都とされた地の名前だった。なんて、素敵な素晴らしい名を付けられた地に私はいたのだろう。
「さらば」
焼け付けるかのようにその赤に向けていた淡褐色を逸らし、彼は再び馬の蹴る。また北へと進み出す。
──さようなら。
彼の腕の流れに小さく抗って、私もその名に別れを告げる。
彼と出会った思い出の地。そして思い出を捨てた地。その赤と金が視界から消えるまで、私はその一線を見つめていた。




