メンフィス
* * * * *
午前9時12分。
博物館から一歩踏み出したところで、腕時計に目をやったらこの時間だった。
比較的早めの時間帯のためか、見渡しても観光客はぱらぱらとしかいない。ヤシの木のような植物がそこらに数本空高くそびえ、ミト・ラヒーナと呼ばれる集落の所々にある土産屋が、いそいそと開店の準備を始めていた。
ここが混み始めるのは1時間ほど経ってからだろう。
10月のものとは思えない太陽が、午前中にも関わらず俺の肌を焼く。目頭に手をやって影を作り、日差しを防いだ。エジプトの太陽と俺では相性が最悪らしいということが、この1年でようやく分かってきた。
息をつき、ズボンのポケットに押し込んでいた冊子を取り出して、徐に開いた。この地域の基礎知識を確認しておかなければ。
『Memphis──メンフィス』
ずらりと並ぶアルファベットの列を、目で追っていく。冊子の中に綴られているのは、今俺がいる都市の説明だ。
古代名、メンネフェル。
カイロの南方27キロ、ナイル川西岸にある約4600年前、古代エジプト古王国時代に首都として栄えた場所。
1979年、「メンフィスとその墓地遺跡ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯」として世界遺産に登録されたことでも有名だ。
確かに、さっき行ったメンフィス博物館の中庭には、アラバスターと呼ばれる大理石の一種で作られたスフィンクスが威を湛えていたし、1階に展示されていた脚が欠けたラムセス2世の巨像には圧倒された。
だが、このパンフレットの年表によれば、第18王朝で今のルクソール、古代名テーベに都が遷されたと同時に衰退し始め、7世紀のイスラーム流入以降、町は廃墟となり、歴史的には重要な役割を果たしてきた都であったにも関わらず、現在では先ほど見たスフィンクスや一部の遺跡を残すのみの寂しい場所となったと言う。
なるほど、廃墟の都市か。相応しい名かもしれない。
4000年前は巨大で誰もが崇めていたであろうプラハ神殿は、聖牛アピスのミイラを作るために使用されていた解剖台を残すだけで、あとは悲しいほどに崩れ、ほとんどが瓦礫と化してしまっている。示す看板や柵が無ければ、遺跡だとは誰も思えないくらいだ。
今は色褪せ、形を失くしてしまっている歴史を刻んだ石の壁。その間を風がさらりと吹き抜け、変わり果てた石畳には砂埃だけが遊んでいた。
ここに生きていた人々は、一体どこへ行ったのだろう。栄光に輝いていたはずの遺跡たちを残し、どこへ消えたのだろう。
理由もなく、そんなことを考える。
妙な感傷に浸っていると、図ったかのようにポケットに入れていた携帯がバイブレータを響かせた。震える黒い表面を見やり、サブディスプレイに表示された名前を確認してから耳に当てた。
『ヨシキ?』
メアリーだった。このメンフィスに一緒に来る予定だった彼女は、実習が重なり仕方なく断念していた。おそらく、学校からかけているのだろう。
『メンフィスについた?』
「一時間前についてメンフィス博物館を回ってみた」
俺の言葉に彼女はくすくすと喉を震わせている。
『暑さで倒れてないか心配だったけど、無事らしくて何よりです』
「……あのなあ、俺だってそんな軟じゃない」
『で、どう?何か見つかった?』
こちらの言い分なんて完全無視だ。ため息をつき、手元の冊子に視線を落としながら、いいやと答える。
「何も見つからない。あったのは、ツタンカーメンの名前だけだな」
メンフィス博物館に一つだけ、彼のカルトゥーシュが刻まれた石板があった。今にも崩れそうなもので、よくもまあ残っていたものだと感心した。
『……そうだね、彼は一時的にしかメンフィスに都を置いてないから少ないかも。でも、彼がそこにいたのは確かだよ。理由は正確に分かっていないけれど、メンフィスで統治を行っていたって、この前の学会で正式に発表されたらしいし。彼に関係ある土地を回ってみるなら、行かなくちゃいけない場所の一つだって言える』
弘子が消えたのがKV62・ツタンカーメン王墓だったことから、最近は主にツタンカーメンの所縁の場所を回っている。
3300年も前に若くして死んだだけあって明確な情報が無い中、近年、このメンフィスの遺跡にも彼の名が刻まれているのが見つかったと知って、一応足を運んでみたというのが事の成り行きだった。
何でもアメンホテプ4世というファラオが、アマルナ改革と呼ばれる宗教改革を半ば強制的に行い、エル・アマルナに首都を遷したという事件が第18王朝にはあり、アメンホテプ4世の死後、またテーベに都を戻したのがその息子であるツタンカーメンだと言う。
そして彼はテーベに遷す前、このメンフィスに首都を一時的に置いた。彼が即位し、改革を行った年齢は僅か9歳であることから、この大きな宗教改革と遷都は、後見人であった大神官の成しえた治績ではないかとされている。
このパンフレットによれば、だが。
何せ、3300年前のことだ。断言して書いてあったとしても、どこまでが本当でどこまでが間違いなのか、今を生きている俺たちには分かりやしない。
そのアメンホテプ4世とツタンカーメンが親子であることも、2010年のDNA鑑定でようやく分かったことで、今までどういう血縁関係であったかも定かではなかったという。
何でもかんでも分からないことばかりだ。無理もないが、あやふやだ。
『……弘子、いそう?』
緊張が走る、顰められた声が電話から聞こえ我に返った。彼女の周りにいるだろう他の学生たちの声の方が、さっきよりも少しばかり大きく入ってきた。
『いたら、いいな』
「何か手がかりがあることを願ってはいるけど、どうだろうな」
辺りを細めた目で見渡しながら、電話にぼんやりと返す。
今まで何度か足を運んできたものの、あまりちゃんと回っていなかった土地だ。探せば何か見つかるかもしれない。
『ヨシキ』
「ん?」
しばらくの沈黙があってから、彼女は擦れた声で言った。
『弘子に、会いたい』
押し殺された小さな言葉が、電話を越え、耳に零れる。それに自分の胸が締め付けられるのを感じた。
『弘子に会いたい』
おばさんの前では健気に振舞っている彼女も、実は寂しさに埋もれている。俺と同じだ。弱気になるまいとしていた彼女の仮面が、外れたのだ。
「メアリー、それは俺も同じなの。弱音吐くな。吐くくらいなら勉強してろ、勉強に埋もれてろ」
乱暴に遮ってしまったが、これは俺にも言えることなのだ。
電話の向こうで彼女が「うん」と小さく頷いた。
「弘子は見つかる、必ず会える。絶対諦めるな」
また、「うん」と聞こえた。噛みしめるようで、彼女が泣くまいとしているのがありありと感じた。
「諦めるなよ」
弘子がいなくなって、もう1年と2カ月だ。何度このエジプトの隅から隅まで足を運んだか分からない。
今回のメンフィス。彼女を感じたエル・アマルナ。アレキサンドリア、ルクソール、アスワン、王家の谷。そして勿論、KV62。なのに、依然として手がかり一つ見つからない。
俺の片脚は、絶望に突っ込んでいるようなものだ。毎回毎回弱気になって、途方に暮れてしまう。このまま見つからないのではと大きな不安に苛まれる。でもこれではいけないとかぶりを振って自分を奮い立たせるのが常だ。ここで諦めたら終わりだと、何度もその足を絶望から引き抜いてきた。
終わらせてはいけないのだと。必ず、弘子を探し当てるのだと。
『……あ、ごめん。実習始まっちゃうから、切るね』
「ああ、頑張れ」
出来るだけ優しく静かに答える。
『ありがとう。終わったらすぐにそっちに向かう。多分バス出てるから早く行けると思うし』
ルクソールとは違ってカイロに近いメンフィスは、俺たちにとっても移動しやすい場所だった。観光地として、カイロからたくさんバスも出ているから尚更だ。
「バス乗ったら電話して。待ち合わせしよう」
『わかった。…あとでね、ヨシキ』
「ああ」
電話が切れ、画面が待ち受けに戻ったのを見届けてから、閉じる前に何気なく電話帳を開いて弘子の名を探した。
何度もかけてみたこの電話番号。なのに、繋がらないこの番号の羅列。
途端に弘子の声が聞きたくなって、その番号を選択しようと思ったものの、思い直して携帯を閉じた。
何百回かけても繋がらなかった。かけて繋がらなくて落ち込むのが目に見えているのだからかけるべきではない。気持が下がっては、見つかる物も見つからなくなってしまう。
まずはこのメンフィスの隅から隅まで探すのが先だと気持ちを改め、ズボンのポケットに携帯を無造作に突っ込んだ。
空を仰ぐ。今日も雲一つない。蒼空とは、こういう空のことを言うのだろう。
ナイルとは違う蒼さを見上げ、その高さにつられるようにして自分の声が曲を紡ぎ始めた。俺の口から流れる小さな細い音楽は、吹き抜ける風と共にどこかへと去って行く。
ナイルから生み出される風を頬に感じる。
ここにまで、ナイルは流れてくるのか。さすがは世界に誇る大河だ。
反対に、足元に広がるのは茶色の砂。いや、今日は黄土色。この国の砂は毎日、時間帯によって色を変える。それは小さな粒を撒いて、俺の靴に絵を成しては消えていく。
エジプトのどの遺跡を見ても思うのは、壮大さは当たり前だが、それに必ずと言っていいほど付きまとってくる、言葉にし難い物悲しさだった。
時代に取り残された遺物の悲鳴が、何となく流砂と共に俺の耳に鳴っているような気がした。
遺跡を回って手掛かりを探してみようと、足を動かした。
未だに手に握っていたパンフレットの存在に気付き、携帯とは反対のポケットに突っ込もうとすると、またバイブレータが振動した。
少し驚いて、パンフレットを落しそうになりながらも、青いランプをちかちかさせる携帯を引っこ抜いて、画面に映し出された名前を見た。
「……おじさん?」
弘子の父親だった。嫌な予感が脳裏を過る。
弘子の行方が全く掴めない所為もあり、最初はどうにか持ちこたえていた弘子の母親が近頃になって衰弱し始めていた。
何か、あったのだろうか。おばさんが倒れてしまったのだろうか。
不安に駆られ、急いで携帯を開き、耳を押し当てた。
「もしもし?おじさん?」
電話の向こう側のその人は声を発しない。その代わりに、呼吸困難にでも陥ったかのような乱れた呼吸音が聞こえ、ますます胸がざわめく。
「おじさん?何か…」
『よ……良樹』
やっとのことで出たと思われる声は、とても小さく、弱々しかった。何かに動揺しているのは確かだった。
やはり、何かあったのだ。
異変を感じ、電話を耳に押し当てたまま、駐車場にある自分の車に向かって走り出す。
「おじさん、落ち着いてください。今戻ります。場所は家ですか?」
『……病院…良樹の、病院』
俺が務める病院だなんて、救急だろうか。とにかく一大事だということだけは手に取るように分かった。
「大丈夫ですよ。病院に連絡を取って俺から指示を出しますから」
車に乗って、左手で電話を抑えながら右手でキーを車に挿し、エンジンをかける。低いエンジン音が小さな揺れと共に鳴り、地面の小さな砂粒を飛ばした。
おそらく、おばさんだ。倒れたか、その他に何かあったに違いない。
「診てくれている医師に俺の名前を言ってください。『ナカムラ』で通じるはずです」
『良樹、……良樹、聞いてくれ』
俺が急ぎ始めたのを感じ取ったのか、落ち着かせようとするかのように、おじさんは電話越しに俺の名を繰り返した。
『良樹、違う。違うんだ…』
「おじさん?どういうことです」
ハンドルを握っていた手を緩め、アクセルから右足を離して、そのか細い声に耳を澄ませる。弘子の父親が今にも泣き出しそうになっている状態に立ち合うのは、俺も生まれて初めてのことだった。
『……良樹』
電波が悪いからか、それとも相手の声が引きつっているからか、聞こえが悪い。
どうやら思っていたよりも事態は軽いものだと分かって小さな安堵を覚え、俺は一度車から出て耳を傾けた。足元の黄土色の粒たちを見つめ、汗ばみ始める手で携帯を握り直す。
『……ひろ』
相手は一度そこで止め、自身を落ち着かせるように深呼吸した。固唾を呑み、俺は続きの言葉を待つ。
『……弘子が』
ざわり、と。何かが背筋を駆け抜ける。音に鳴りきれなかった声が、喉で止まった。
『弘子、が』
──弘子。
俺がずっと。ずっと、探して、求めていた名前。
「弘子が……どう」
慌ててはいけないと、自分の声をそこで切る。乱れる呼吸を抑えようと胸元のシャツをぐしゃりと掴み、一言一句逃すまいとする。
手がかりか。それとも。
『見つかったんだ』
俺の手から、あのパンフレットが落ち、砂漠の砂の上に触れたと同時に、ナイルの風に吹かれて茶色の粒と共に小さく舞って、少し離れた地にまた落ちた。
『弘子が、俺の娘が…見つかった』
音が、世界から消える。自分の呼吸音以外のすべてが、消滅する。
『弘子が見つかったんだ…!』
風が吹き、つられて仰いだ空が今までにないほどに青く、目に映った。




