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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
26章 時の果て
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王墓

 いつか、彼と共に走った砂漠は混沌と沈んでいる。テーベの町をこんなに小さかったかと疑うほどに早く過ぎ、今は海のような砂漠の上までやってきた。静かに降り注ぐ月光は銀色で、近くの砂を白く、遠くの砂の山を黒く映し出していた。

 馬にしがみつくようにしながら蹄の音を聞き、それから少し離れた場所を駆けるカーメスとメアリーの馬の影を見る。涙に濡れた目頭を上着の袖で拭い、前屈みだった身体を起こした。


「落ち着かれましたか」


 後ろからかかったセテムの声に、頷くだけの返事をした。飛んできた砂に咽って小さく咳き込む。

 夜の静けさが悲しい。

 今頃、私のいた部屋はどうなっているのか。置いてきたナルメルたちのことを思いながら、馬の動きを感じている。


『──あなたがお呼びになれば、あなたのお声にファラオは必ずやお答えになられるだろう』


 ナルメルの言葉が脳裏を過った。西の谷の王墓まで行って、彼を呼び、未来への道を開く。それができるという確証などどこにもないと分かっていながら、私はこの道を進んでいる。絶望的な、ありもしない理想に縋っているようでもあった。

 しかし、皆が示してくれたこの道しか、私には残されていない。せめて、セテムとカーメス、メアリーだけでも助けなければ。


「……王妃」


 拳を握りしめた時、セテムの声が背後から投げかけられた。蹄の音と、傍を過ぎる風の音。それに絡むように、セテムの声が柔らかに響く。


「王墓に着く前に、お聞き頂きたいことが御座います」


 振り返って見えた側近の表情はいつもより緩やかなもので、砂漠の地平線を見据えていた。


「私がファラオの側近となった経緯です。あなたに知って頂きたいと思いました」


「……経緯?」


 ええ、と頷いたセテムは、少しの間を置いてから静かに話し始めた。


「私は、亡きファラオに命を拾われたも同然だったのです」


 馬上で上下に揺られながら、私はセテムの声に耳を傾けた。


「亡きファラオの父君の働きにより、古来よりの神アメン神が消され、アテン崇拝が始まり、それへの民の反乱から、私たち貴族の家は次々と放火の被害に遭うようになりました」


 アテン崇拝が始まってからの民の怒りは、彼からもナルメルからもよく聞かせてもらった。反アテン派の反乱のために、都の所々が火の海になることも少なくは無く、王子であった彼の命もよく狙われていたと言う。彼が毒物に敏感だったのも、武術に長けていたのも暗殺から身を守るためだった。


「そのような時、夜に私の屋敷も例外なく放火され、まだ生まれたばかりであった幼い弟を母から託され、家を飛び出しました。その日を境に、私たち兄弟は孤児となったのです」


 王家に尽くす貴族も、民の反乱の標的だったのだろう。この国の内乱の内に、セテムの家も焼かれたのか。そんな悲しいはずの事実を、セテムは淡々と回顧する懐かしさを交えながら続けた。


「私共は火事で両親を失い、家も失い、身を寄せる場所を悉く無くしました。泣き止まない弟を背負って孤児院への道を行く際に、まだ王子であられたあの方が颯爽と現れたのです」


 民の服を身にまとい、馬で都を駆け巡る彼の姿は、まるで見たことがあるかのように私の頭の中で鮮やかに描かれた。

 あの人らしい。幼い頃から本当に変らないのだと思う。


「宮殿から逃げ出していたのか、ぼろをまといながら立派な馬を引くお姿は、目を引くものがありました。あの方から王家の気品を拭うことは例えぼろをまとったとてできませぬ。一度宮殿の宴にお招きいただいた時にお姿を拝見していたこともあった私はすぐに平民を装うその方が王子であると気付いたのです」


「……あなたは、どうしたの?」


 ぼんやりと地平線を視界に映しながら問う。その時のセテムにとっては、家族を失う原因を作った王家の人間が目の前に現れたことになる。普通なら黙っていられない。


「怒りをぶつけました。何故、王家は神を変えたのかと。何故、テーベからこんな住みにくい場所に都を変えたのかと。父と母を殺したのはお前だと、掴みかかって揺さぶることもしました」


 今でも恥ずべき事です、とセテムは苦笑する。


「そうしている内に、王子でしかない目の前の人物に訴えても何も解決しないことに気づき、私は急にどこへ自分の怒りと憎しみを投げたらいいか分からなくなって地面に蹲りました。王族に対して無礼を働いてしまったので、死罪は免れぬことにもようやく気付きました。それに対する絶望はなかった。縛り首でも何でも、どうにでもなれという思いがあったのです。私はあの時、むしろ死んでしまいたかった」


 国の行く末は、王の決断によるものだ。まだ少年であった、それも事実権力の無い王子である彼に、宗教改革の文句を言い放っても何の解決もしない。


「しかし、泣き叫ぶ私の言い分をあの御方はただ黙って聞いて下さりました。無礼だ、などとは決して言わなかった。私と同じ目線に座り込んで、大丈夫かと声を掛けてくださったのです」


 セテムの言葉の中に、紡がれる鮮やかな光景の中に、彼を感じた。

 こうして彼は、皆の記憶に生きている。彼の、あの人の、胸を打っていた確かな鼓動が耳に甦ってくる。


「それから少し考えるように深刻な顔で沈黙し、顔を上げてこう仰せになられた。『いずれ私が王になる。そうしたら、また神を戻そうかと思っている』と。衝撃でした」


 セテムが言う様に、神を戻すなどと、大それたことをけろりと言ってしまうところは、あの人の凄いところだった。神を変えると決断した時の、セテムたちの表情が頭に流れ込んでくる。何とも例えがたい興奮をみなぎらせ、目を瞬き、まことですかと尋ね返していたあの時。あれは皆の念願でもあったのだ。


「続けて『家族を失ったのならば、家族になってやる。自分も家族を失った身だ』とも仰って下さいました」


 遠い昔を回顧するかのようにセテムは夜空を仰ぐ。満天の星がまき散らされたように頭上いっぱいに瞬いていた。


「今思えば、出会った頃のあの方は父君を亡くしたばかり、当時ファラオであられた兄君も病に伏せており、王家や国の大きさやご自分の立場の意味を目の当たりにしていた時期のはずです。兄君も助からないと分かり、おそらく最も苦しんでいた時だったとも言えたでしょう。だというのに、我々に手を差し伸べて下さった。敵意剥き出しだった私たち兄弟を救って下さった。私はこのご恩を一生、死ぬまで忘れぬ、あの御方のためのこの命だと誓いました」


 私にも、彼は手を伸ばしてくれた。居場所を与え、愛してくれた。だから見捨てられなかった、傍で彼のために生きようと誓った。彼の手は本当に多くの人々に伸ばされていた、私も彼らも、皆同じだった。


「あの人は、本当に大きな人ね。私にはとても真似できない……私はとても小さいわ」


 いいえ、とセテムは首を振る。


「あなた様はご立派にその御方の支えになられた。一途さと、別の信念を持って。我々には真似できぬことでした」


 彼と出逢ってから共に歩んできた日々を想い、後ろへ流れていく地面を映していた目を伏せた。


「あなた様には心より感謝しております。我々の前にあなた様が現れ、王家として生まれてから絶え間なく国のため、民のため、としか考えて来られなかったあの御方が初めてご自分のためにあなた様をお求めになられたのです。我々が望んでいたのは、ファラオの生が幸にあることの他に御座いません。そしてあなた様はあの御方の想いに応えられました……我々にとって、寄り添うお二人を目にするのは何よりの喜びだった。あなた様を見つめるあの御方の幸せに満ちた眼差しは、忘れることができないものです」


 私にとっても幸せな日々だった。たとえ短い時間であったとしても、彼がいて、娘がいた時、その一瞬一瞬が何にも代え難いものであったことを私は確かに感じていたのだ。


「カーメスも私と同じような身の上です。だからこそ、我々はあの御方のために、そしてあの御方が遺されたあなた様のために、こうして生きてここを駆けている」


 カーメスも笑って、大きく首を縦に振る。その明るい笑顔が何とも懐かしい。久しく目にしていなかったカーメスの表情だった。


「宮殿に残った皆も同じ。決して哀れむようなことはない。自らこうと決めていた意思を最期まで貫けることほど、幸せなことは無いのです。そして我々が同じ道を歩もうとも、それもまた、同じことなのです」


 相手の言わんとすることに気づき、はっとして振り返ってセテムを見た。この人の言葉から、表情から、自分は死んでも構わないのだという意思が強く伝わってくる。私はどうにかしてここまで一緒に来た彼らだけでも救いたいと私は願っているのに。それを分かっているだろうに。


「セテム、」


「そう悲しい顔をなさいますな。死んでも魂は悠久なるもの。完全になくなるということは無い。身体を失おうとも魂だけで待つことも出来ましょう」


 危ないから前を向いてください、とその人に冗談気味に言われ、呆然としながら向き直る。それでもぎこちない動きになって、胸が嫌な予感に騒ぎ出すのを感じていた。


「……必ずや、ここへお帰り下さい」


 セテムが後ろで柔らかく告げた。心なしか馬の速度が増す。


「我らはあなた様のお帰りを、いつまでもこの国でお待ちしております。たとえ、この身体が朽ちたとしても、魂だけになろうとも待ち続けます」


 一分先、一秒先もどうなるか分からない今、そう言ってのけられる彼らの強さが身に沁みた。震える手を反対の手で抑え込み、顔を上げて向かう先を見据える。ここまで来て怯むことなど許されない。私に出来るのは、彼らの決意に答えることだけなのだ。


「必ず、帰ってくるわ」


 祈りのような願いを乗せて告げる。

 どうして、これほどに現実味のない約束をしようとするのだろう。信じたいと願うのだろう。

 強く信じていたい。すべてのことを。両手の指を絡めて力を込める。指が手の甲に食い込むほどに。


「皆のところに、彼を連れて帰ってくる」


 地平線に現れた谷の緩やかな凹凸を見据えて、私はセテムに言葉を返していた。


「約束を違えて下さいますな」


 私の返答を聞いたセテムが悲しげに笑った時、西と東を隔てるナイルが目の前に忽然と姿を現した。



 ナイルの畔には、すでに小舟を準備する二人の兵がいた。彼らはカーメスに従う兵たちで、向こう岸にも馬を用意した兵と、王墓を司る神官が待っていることを教えてくれた。舟に揺られ、ナイルの氾濫を前に水かさが増したナイルを横断し、向こう岸に着くと、私たちは再び馬に乗って王墓のある方向へと駆け出す。何度も後ろを振り向いては、アイの追手がこないかを確認しながら、追われる恐怖を感じながら私たちは夜の谷に行きついた。


「馬はここに置いて行きましょう」


 そう言って谷より少し離れた場所で、セテムとカーメスは馬を止めた。


「王墓の場所は限られた者にしか知られておりませぬ。馬がここに残されているとなれば、我々の行先を少し暗ますことができます」


「これくらい風が吹いているのならば、我々の足跡は風に消える。時間を稼ぐことが可能です」


 彼らの意見に頷く。砂漠の砂は確かに風に舞いやすく、跡を残しづらい。初めて砂の利点に気づかされた気がした。


 馬から降り、黒に包まれた茶色の地を踏みしめて立った。そこらを大きく抱くようにそびえる山のような谷は影となって、私たちを見下ろしている。太陽を失って冷え切った風と、風に踊らされる砂の音。渇き切り、水の音が一切しない。ナイルの音が、香りがない。

 口元を覆っていた布を下ろして、辺りを見回した。馬がいななき、誰が答える間もなく谷間にその鳴き声も消えてしまう。

 死の谷だ。精気というものが感じられない、生まれたものをどこかに吸い込んでしまう、無の世界。

 私にとって、すべての始まりとなった場所。


 以前彼と来た時でさえ、胸が痛むほどに悲しい場所だとは思っていたが、今はそれ以上に苦しいものが込み上げていた。夜という時間のせいもあるのだろうか。愛しい人が眠っているからだろうか。怖いくらいの悪寒が背筋を滑って、それでも闇に吸い込まれてしまいそうな感覚があった。


「こちらです」


 セテムに促されるまま、砂の上に足を踏み出した。唖然と谷を見上げていたメアリーもカーメスに付き添われ、小走りになって私の一歩後ろに追いつき、速足で進み出した。


 必ずアイは私を追ってくる。追いつめられた私が向かう場所など限られており、たとえナルメルたちが私の行方について言及しなくとも、アイはこの谷に私たちが向かっていることをすぐに嗅ぎ付ける。一刻も早く王墓に辿り着く必要があった。

 谷に降り立ち歩いて驚いたのは、知っている場所であるはずの谷だというのに、夜と言うだけで随分と違う場所のような感じがしてならないところだった。どこまで行っても変わらない地面、その中で隠された王墓を手探りで探しているようで見つけられるだろうかという恐れがどこからともなく這い上がってくる。

 セテムとカーメスは時折言葉を交わし、立ち止まっては空を見て星の位置で方向を確認し、それから少しだけ方向を変えて進んでいく。砂に覆われた道とも言えない地を進み、永遠にこれが続くのではと錯覚させ、焦りを生んだ。急いでいるだけにこの状況が不安だった。谷の傾斜もよく見えず、知っているはずの目印が悉く失われているのが原因だということは容易に予想はつく。前に訪れたことがあるはずなのに、まるで知らない場所だ。

 しばらく歩いて向かう先に、一つの炎が闇に灯っていた。ぼうっと光るその色は、暗い世界の中で唯一暖かさを感じさせ、やがて誰かがその光の傍に佇む一つの影が浮き上がった。ほっとしたのも束の間、追手が先回りでもしていたのかと身を固くしたが、その光が一つであり、傍らにある影も一人であることに気いて、再び肩の力を抜いた。


「よくいらっしゃった」


 相手の表情がよく見て取れる距離まで近づいた時、廃れた神官の衣を身にまとう老人が、長い間誰とも話してなかったのではないかと思わせるほどに嗄れた声で言った。


「ネブケペルウラーの正妃よ」


 老人はセテムを越えて私の前で一礼し、私も礼を返した。白髪に覆われ、伸び放題の髭にだらしなさはあるものの、威張った風が無い分親しみが持てる。宮殿に仕えていた多くの神官たちとは違い、俗世を捨て切った仙人のようでもあった。


「こちらは谷を守る神官マヤ殿。宮殿にいる者たちの介入を受けない唯一の御方です」


 セテムの紹介を受けて、改めて老人を見た。この人が、西の谷にいる神官。王族とはほとんど相見えることの無い、死の世界を司る人物。存在は知っていたものの、こうして面と向かって対面するのは初めてだった。本来ならば、私はこの人に会うことは一生なかったのだろう。


「宰相よりご伝言は預かっております。さぞや、お辛かったことだろう」


 私の返答を待つことなく、ゆったりとした仕草でその人は持っていた火で行くべき道を示した。


「求められる王の墓はあちらに」


 導かれながら共に歩いて、数分経った頃、神官が突然下を示した。暗闇で見えていなかったが、数メートル先にぽっかりと四角い穴が開いている。傍に、神官の弟子とも思える壮年の男が一人、灯りも持たずに穴を守るように立っていた。用心棒を思わせる体格の立派なその男性は、私たちを認めると神官に一礼して暗闇に音無く消えて行った。


「王は、この先にお眠りになられている」


 穴の中には砂で埋められていたはずの階段が下に向かって続いている。現代で私が降りた階段だった。

 そう。この先には彼がいる。数千年超えた先でも彼の遺体はここにあった。

 息を呑んで階段を見つめてから、以前彼と共に行ったKV57のある方向に視線を投げた。谷の方へ向かうあの道に、本来の彼のものになるはずであった王墓があったのだ。彼の墓はこの場所に、歴史通りに埋められたのだと、私たちにはどうすることもできない力が働いていることを思い知らされる。私がこれから歩んでいく道も、否応なしに歴史のままを歩んでいくのかもしれない。


「ここまで準備してくださっていたことに感謝申し上げます」


 カーメスの言葉に、神官は悩ましげな顔を見せた。


「宰相から知らせを受けてから早急に準備させた。私が手を加えられるのは階段まで。先の封印からは神なる王の聖域である。妻であった王妃を同伴させて王の怒りに触れぬよう執り行え」


 セテムが諾と返事をすると、神官は深く息を吐いた。


「ここへ来るのが王の正妃でなかったのなら、一度封じた王墓を開けることなど許しはせなんだ。このようなことは前代未聞」


 王妃が王の妻であり、この谷に骨を埋める権利がある人間であるからこそ認められるのだと神官はゆっくりと付け加え、沈黙の中で階段の下の闇を見つめてから私に視線を移した。


「私が務めは死の谷にて世を見守ることのみ。したがって私はこれにて」


 これ以上干渉するつもりはない、ということなのだろう。私も一歩前に出て礼を返した。


「ここまでありがとうございました。あなたも見つからないよう隠れて……どうかご無事で」


 あくまでこの世離れした神官の役目は、神なる王の墓が荒らされないように見張り、ここで王たちの安らかな眠りを祈り続けることだけだ。それ以外であるのならば、口出しはせず見守るだけ。彼の王墓が移動させられたのを黙っていたのもそれが理由なのだ。


「有り難き御言葉」


 老人は再び一礼すると、持っていた炎をセテムに渡し、私たちに背を向けるとそこから墓守をしていた男と同じように闇へ去って消えた。

 老神官を見送ってから、私たちはゆっくりと階段を囲んで見えない先に黙って視線を落としていた。緊張と悲しさに囲われて、声を失ったかのようでもあった。


「……進みましょう。時が惜しい」


 気を取り直すかのように深く呼吸をしたセテムは私やカーメスに目配せをし、階段の一段目に右脚を下ろした。

 風が砂を運ぶ。髪を巻き上げる。風に谷が呼応して鳴いていた。意外にもその声は大きく、身震いさせる。

 皆が上着を深く羽織り直し、地下に向かって歩を進めた。セテムに続き、私、メアリー、カーメスの順で16段の階段を、足場を確かめながら慎重に降りていく。砂で埋められていた名残で、サンダルを通して足裏にざらざらとした細かい砂の感触があった。16段の階段の先に、行き止まりとも思える壁に辿り着く。通路を絶つ一面の壁──これが神官の言っていた封印だろう。灯りを照らすと壁には彼のカルトゥーシュと文章が並んでヒエログリフで刻まれていた。


「ここに立ち入る者は王の不興を買わん……王の処刑台の上に置かれん……来世で永遠の命を得られぬであろう……封印の文章ね」


 刻まれた言葉は、墓荒らしへの呪いの文句だった。墓の入口に刻まれる一般的な文章。それよりも、その隣に刻まれる彼の名があまりに懐かしく、思わず指で触れた。


「ファラオ」


 セテムとカーメスは封印の壁の前に跪く。


「封印を壊すこと、どうかお許しください。あなたの愛した王妃をお守りするためです」


 私も祈るような思いで封印にある彼の名を見つめた。

 皆が命を懸けて導いてくれたからこそ、私は今ここにいる。あなたは応えてくれるだろうか。私がいつか、あなたの声に応えたように。私の声に、あなたは──。


「封印を破ります。お下がりください」


 立ち上がり、私とメアリーを下がらせると、セテムとカーメスが用意した太い木の棒を振り上げた。大きな音を立てて封印を破壊していく。封印と呼ばれる理由が分かるくらいに壁は厚く、四回振り上げて、どうにか壁に人一人が屈みながら通れるほどの穴が開いた。先には暗い通路が広がり、壁画も何もない。王家の谷のどの墓よりも寂しい墓だと後に言われる場所が開いていくほどに、私の胸は早鐘を打ち始める。

 現代で一度家族と通った、彼の眠る場所に繋がる下降通路。この時代と未来において、ほとんど変わらない道が下に向かって続いていた。


「急ぎましょう」


 穴を跨ぎ、落ちた瓦礫に足を取られないよう注意しながらその中に入る。誰も言葉を交わさない。セテムの持つ一点の炎だけが頼りの世界だった。逆に炎が異界のもののようであり、ここにあってはならないもののようでもあった。

 二番目の封印が下降通路の先にも王の遺体を守っており、それも同じようにカーメスによって穴を開けられ、私たちは封印を越えた。

 セテムが最初に前室に入り、一切の暗闇だった世界に灯りが入った。黄金の番人像、黄金の寝台、黄金の戦車。葬儀前、私が宮殿で見た彼への埋葬品が見渡す限り所せましと並べられ、セテムの持つ火に呼応して、それらが本来持つ神々しい輝きを私たちに返してきた。埋葬品はこれだけではない、北側の部屋にも膨大な黄金が眠っている。彼に相応しい色。彼に似合う何よりの色。そして背後には萎れた花束が壁に立てかけられている。私が彼に贈った青い花を、ここに置いてくれたのだ。


「王妃、」


 呼ばれて頷いた。感傷に浸っている時間は無い。私たちが求めるものは、入って右の、二体の黄金の番人像が守る向こう側にある。番人像が守る通路には3枚目の封印の壁が経ち憚っていた。

 これが最後の壁。この先に彼がいる。彼の遺体が。


「破ります。お下がりください」


 最後の封印の扉を壊そうとセテムとカーメスが棒を手に並んだ時だった。今まで何の音もなかった頭上に異様な音が響いて、部屋を振動させていることに気付き、私たちは顔を跳ね上げた。前にいた二人は作業の手を止めて天井を見上げる。私もメアリーも心臓が止まる思いで天井を仰いだ。

 明らかに馬が数十頭、頭上に来ていることが私にでも分かった。恐れていたものが来た。それ以外に考えられなかった。

 反射的にカーメスとセテムが顔を見合わせて来た道を駆け戻ろうとした。


「セテム!カーメス!」


呼ぶとカーメスが振り返り様に口を開いた。


「ここでお待ちを!」


 地上へと続く階段を駆け上る彼らを追いかけた。胸騒ぎが止まらなかった。メアリーが私を呼び、後を追ってくるのを感じながら、セテムとカーメスが飛び出したあとを追って入り口から顔を出した。その先のあまりの周りの眩しさに思わず目を手で覆った。


「なに……」


 メアリーが自分たちが置かれた状況に目を見開いて声を零す。照らされる明るさの正体は私たちを取り囲むいくつもの炎だった。数十どころではない。私たちをあぶり出すかのようにそれらは向けられ、夜であることを忘れさせるくらいだった。

 前に構えるセテムたちを越えた光の先に目を凝らす。炎の点々とした灯りの間に黒い影は兵だ。セテムとカーメスは私が顔を出す王墓への入口を守るようにして立ち、周りを取り囲む彼らを睨みつけた。

 緊迫した息苦しさの中、取り囲む円が二つに割れて道を作り、その道をゆっくりと歩いてくる背の低い人影が現れる。炎のせいで影が濃くなっていても分かる。アイだった。アイが、自ら兵たちを引きつれて私を追って来たのだ。


「このような所にいらっしゃったとは」


 姿を見た途端、恐怖と怒りが腹の底から湧き上がって、拳を握りしめた。


「セテム、カーメス。何故王妃を部屋からお連れした」


 問われた二人は身構える姿勢を崩さず、相手を見据えて無言を貫いている。彼らの緊張が背後に守られていても伝わってきた。


「お前たちは優秀な王家の僕だ。殺したくはない。ラムセスと共に私のもとへ下り、王妃を差し出すのだ」


 二人は唇を引き結び、瞬きのない瞳をアイに向けたまま答えない。


「さすれば、お前たちの名は残してやろう。さあ、王妃をここへ。あの娘は私に王位継承を渡し、妻にならなければならぬ」


「断る!」


 アイに対して発したセテムの第一声は、砂の谷に余韻を残すほどに響いた。老人は大きくため息を吐き、言葉を続ける。


「その言葉通りならば、私はお前たちを殺め、その名を消さねばならぬ。存在さえも抹消されるのだぞ。それでも良いのか?」


 アイの脅しにセテムは吐息をつくように嗤い、腰の剣柄に手を掛けた。


「この名は我らの王に捧げたもの。お前にとやかくされるものではない」


 アイが眉を顰める。


「王はこの私だ」


「我らの王ではない。我らの王は、この世にただ一人であった」


 カーメスもセテムと同様柄に手を掛けて言うと、二人は身構えて剣を鞘から引き抜いた。アイが二人を冷ややかな目で見やり、音無く片手を上げる。


「偽の王になど仕えぬ!」


 セテムの叫びが合図だった。アイが片手を振り下ろし、周りの兵たちがセテムとカーメスに向かって走り出したのだ。


「セテム!カーメス!」


 反射的に叫んだ。こんな大勢が相手ではいくら二人が強くとも勝ち目などない。このまま彼らを見捨てて王墓の中に隠れるなど出来なかった。私がこのまま飛び出して二人の命乞いをすれば。私が自分の身を差し出せば彼らは間違いなく助かるのだ。助けなければ。私だけなのだ、助けられるのは。


「弘子!!」


 飛び出そうとする私の上着をメアリーに掴まれ、引き留められた。


「セテム!カーメス!」


「行け!!」


 応戦するカーメスが叫んだ。

 ここで失うのか。私はまた。


「王妃!行け!」


「出来ない!駄目、駄目よ!」


 かぶりを振り、私は地上に這い上がろうとした。我儘だとも分かっている。だがここで彼らを犠牲にすると分かって、どうして身を引けるだろう。彼らが死ぬことを考えたら恐怖が先に咳き込むように上がって、先のことが何も見いだせなくなった。


「弘子!」


 我を忘れ始めた私をメアリーは後ろから掴みかかって止めていた。セテムの左腕を切りつけられたのを見て私の喉が悲鳴を上げる。自分の悲鳴だというのに気が狂いそうな音だった。


「やめて!!やめて!!お願い!」


 私が行かないことを見兼ねたのか、セテムが応戦していた一人から刺した剣を引き抜くと、私に駆け寄ってきた。


「セテム……!!一緒に!」


 私はセテムに手を伸ばす。見えた側近の腕には生々しい傷があった。その傷では十分に戦えない。


「行け!王妃!」


 セテムは私の言葉を聞くことなく、伸ばした手を掴むと、私を引き上げるのではなく、墓の中へ突き放した。足場を踏み外した私の身体は、宙に浮く。


──落ちる。


「未来へ!帰れ!!」


 階段下に落ちる途中、最後に見た遠ざかるセテムの顔は、笑っていた。


 直後、身体を階段の下に打ち付け、転がって、一枚目の封印の扉の前で地上の騒がしい応戦の音に私の呻きが重なった。


「弘子……!」


 階段を駆け下りたメアリーが私に駆け寄ってくる。夜空があった頭上は、石の壁になっていた。肘を立て地面から痛む身体を起こし、落ちた衝撃で噛み切った口内の血を感じながら、慌ててセテムの顔があった出口の方を見やったが、もうそこには誰もいなかった。

 決意なのだ。分かっている。決意だ。

 叩きつけた地面の砂を握りしめ、唇を噛みしめる。私がしなければならないのはこの先だ。

 痛む身体を起こし、足を奮い立たせ、玄室へと走り出した。セテムとカーメスを助ける術はもう、一つしか残っていない。彼らの力が尽きる前に、彼を呼んで、彼に応えてもらうこと。未来への道を開くこと。


「アンク!!」


 玄室への土壁を叩いて叫んだ。開けたらまた違ったのかもしれないが、セテムもカーメスもいないのではこの封印を壊すことは不可能に近かった。


「アンク!!私を呼んで!!」


 彼の声を聞いて、現代へ皆を連れて行ければ皆を救える。このままでは、皆が殺されてしまう。


「あなた!!」


 皆が。皆が、死んでしまう。殺されてしまう。私は誰も助けられない。


「答えて!お願い!あなた……」


 その時、背後から荒々しい足音が押し入ってきた。メアリーの悲鳴が聞こえたかと思うと、突然自分の髪が後ろへ乱暴に引かれ、玄室への封印の扉から引き剥がされそのまま床に叩きつけられる。視界がぐるりと反転した。


「この売国奴が!」


 悲鳴を上げる間もなく掴まれた髪を上に引かれ、無理矢理膝立ちになる。誰かと痛む目蓋を開けた時、アイに仕えるエジプト兵が私を見下していた。

 彼らがここまで来たと言うことはどういうことか。セテムとカーメスはどうしたのか。


「国を売って、戦前の国を捨てるつもりだったのか!売国奴め!」


 罵声と共に頬を強く打たれ、封印の扉の前に倒れた時、また髪を引っ張られた。


「待て」


 メアリーの悲鳴が響く中で、聞き覚えのある声が兵の動きを止めた。虫唾の走る、誰よりも憎い男の声。怨みに引きずられるようにして、目を剥いて視線を上げる。


「売国奴であろうと王位継承権をお持ちになる身だ。手荒なまねはするな」


 アイに止められ、兵の一人が舌打ちをして私の髪を乱雑に放した。


「随分と手を焼かせる王妃だ。宮殿に連れ帰ったら二度と外には出してはやらぬぞ」


 目の前に現れた老人をねめつける。口内の血の味を噛みしめた時、後ろから兵の一人に取り押さえられた。


「どうしたの……」


 喉奥から掠れた声が出た。どこを見回してもあの二人の姿はない。入ってくる人々は皆、アイに下った者たちだ。私をここへ導いてくれた者はどこにもいない。


「セテムとカーメスはどうしたのよ!!!」


 私の悲鳴とも取れる叫びに、アイは冷笑する。


「ナクトミン」


 ゆっくりと放たれたアイの声に、一人の青年が他の兵たちを分けて奥から出てきた。兵の手にある炎の灯りを浴びても血の気が無い、死人のような顔をしたその人が、アイが差し出した手に、己の手にあった剣を手渡した。こびり付いた鮮血が未だに茶色の地面に滴り落ちている。むっと血の匂いが押し寄せてくるそれをアイは私に突き付けてきた。咽るくらいの匂いに咳き込み、肌が震えた。


「お前を守ろうとしたあの憎き王の小賢しく愚かな僕たちの血よ。ナルメルと言い、女官長と言い、先王の犬どもと言い、私にたてつく者共だった」


 茫然として剣の血からアイに視線を移した。

 皆、殺されたのか。殺したのか。ナルメルも、ネチェルも、セテムもカーメスも。この男が。


「ああ……」


 息と共に声が出た。喉奥が震え出す。身体が震え出す。剣に塗りたくられた生々しい赤は、彼らの血なのだ。彼らを貫いたのはその剣、剣に繋がっていたのはあの憐れな顔をした青年、この青年を動かしたのは、この男。


「ああああああああ──っ!!」


 言葉にならないうちに怒りが悲鳴になって口から飛び出した。飛びかかろうと身体を捻っても、後ろからの束縛がほどけない。


「化け物!!」


 掴まれた腕で抗い、一瞬で声が枯れてしまいそうな声で叫んだ。腕が千切れるほどに引っ張られる。千切れても良かった。そうしてでも、アイに飛びかかって殺してやりたいほどに恨みが募った。これだけ相手を殺したいと憎んだことは無い。首に噛みついてでも殺してやりたい。


「人殺し!!!」


 動けない代わりに罵声を吐き並べる他なかった。


「惨い!!人間じゃない!人間じゃない!」


 叫ぶ私の顎先を掴んで老人は言った。


「さあ、王妃。私に指輪を」


「返して!セテムを!カーメスを!!皆を返して!!」


 アイは最初私の左腕を掴もうとしたが、私の罵声に気を悪くしたのか、顎で私を捉える兵に出口の方へ行くように示した。後からでも取れると言わんばかりに。


「連れて行け」


「放して!放せ!!!」


 すでにメアリーは気を失っているかのようにぐったりと他の兵に抱え上げられていた。このままでは連れ込まれて終わりだ。私はもう一生外を見ることはなくなる。それどころか指輪も奪われ、あの男の妾同然にされてしまう。


「荒らせ!」


 嫌だと屈みこみ、それでも兵に連れて行かれそうになっていると、アイのそんな声が聞こえてきた。


「もう二度とこの地に戻ることは無いよう!!」


 その声で、数人の兵たちが動き出す。周りに並べられた埋葬品に手を掛け始めたのだ。


「何を……」


 何を、しているのか。彼の墓で。私の夫の墓で。


「消すのだ!その名を!その存在を!!」


 私を捕えるためだけにここに来たのではなかったのか。


「何をするの!」


 周りの埋葬品に手を出している。北の部屋に繋がる、寝台の先の封印を破り、雪崩れ込むように兵たちが入って行く。ついには、玄室の封印までこじ開けようと動いていた。


「やめて!!やめなさい!!」


 私の突然の大声に兵が一瞬怯んだ隙に、力いっぱいに腕を引き抜いて、今にも壊されようとしている最後の封印の前に滑り込んだ。痛みに膝が曲がり、膝を地面につきながらも封印の壁を庇うようにして、破壊しようとした兵たちを見上げた。

 他が荒らされても、玄室だけは手出しはさせない。ここだけは。


「退け」


 アイの声がした。兵たちを退かせ、厄介なものを見るような目で私を見下す。


「彼に、何をする気なの」


「ご遺体もこの手で捨てさせて頂くのだ。私とて、あの王には二度とこの地を踏んでほしくないのでな」


 悍ましさに背筋が震えた。アイはそれほどに彼を疎み、妬んでいる。アイがわざわざここまで来たのは、私を捕えるため、そして彼の墓を壊すためだった。そう分かった私は、背を壁に付けて身構えた。

 ここは彼の墓場だ。皆が守ろうとした場所。誰かに手出しなどさせない。私の命に代えてでも。


「ここは……王が眠りし場所。あなたたちが踏み入れて良い場所ではない」


 上がる息を抑えて地べたを這うような低い声で告げた。そして辺りを見回した。


「その汚れた手を控えなさい!!!」


 私の声に驚き、皆が急に真っ青になって手を止めた。


「なんと愚かな。ご乱心あそばしたか。女一人の身で何が出来ると言うのか」


 罵られるほどに威厳を持たねばと思った。威厳を失えば、私は王妃ではなく、ただの女でしかなくなる。兵でさえ私を侮るだろう。そうさせることが、この男の思う壺となると思ったら、意地でもなるものかと思えた。威厳を保つことで、この男と初めて同じ高さで相対することが出来る。


「私は王妃です。王の魂の片割れ、王を守護する者。王の眠りを妨げるものは何人たりとも許しません」


 腕を広げた。背筋を伸ばし、両手に、右の指先から左の指先までぴんとした一筋の線が入り込んだように力を込める。


「この先に眠るは神なるお方!!」


 息を大きく吸って、言葉を放った。


「あなた方のような卑しい人間が、触れることなど許されないと知っているはず!」


 誰が守る。彼の名を、彼の記憶を、彼の存在を。

 セテムや、カーメス。そして王宮の残った愛しい人々の想いと決意を。

 私以外の誰が守る。

 彼らが命を懸けたならば、私もこの命を懸けよう。彼らの果てた場所で、私も。


 セテムたちが最期にすがすがしく笑っていたのを思い出した。自分が殺されると、死ぬだろうと察しながらも頬に笑みを湛えた、強い眼差し──。

 身ひとつで胸を張り、自分の命を抱え、ただひとつのものを守らんと、ここに立っているこの瞬間、黄金の風を全身に受け、それと共に蒼穹を貫いているような気分になった。


 ここまで、生きてきた。

 多くの大切なものを失いながら、歯を食いしばって生きてきた。

 

 不意に、良樹の顔が浮かぶ。随分と昔の──あれは、そう。私が良樹にアンケセナーメンのことを尋ねた時。


『──アンケセナーメンは墓も見つかっていない。何故死んだのかさえ、分かっていない、可哀想な王妃だ』


 そうか。私の命を懸けるのは、ここなのだ。私の、最期の場所。

 私の死に場所は、ここだ。


「下がりなさい」


 最期の瞬間まで私は王妃であるべきだ。王を守る存在で有り続ける。それが私の最期の使命。

 矢で壁に磔にされてでもここを守る意志に今の私は満ちていた。


「そこから下がりなさい!!」


 良樹に宣言したように、胸を張れる悲劇を。私にとって最高の悲劇を。

 最期まで私の信念を。


「指輪は渡さない!この国も、何もあなたには渡さない!!決して!」


 アイを睨みつけ、そのまま周囲の男たちを睨みつけた。アイが一歩下がったと同時に、膝に力を入れ、踏ん張り、再び大きく両手を広げる。


「もう一度言う!これ以上踏み入れ、王の眠りを妨げるようなことがあるならば、たとえ死んでも私はお前たちを呪い続けよう!」


 恐れおののく人々が顔を真っ青にして後ずさり始める。ようやく王墓を荒らすことの大罪を思い出したかのようだった。


「王の眠りを妨げようと私に触れるのであれば、その首に噛みついて喉を掻き切ってやる!死後の復活など私が許さない!」


 皆の仇だ。

 大事だった。何よりも。その存在を、すべて、すべて奪ったのはこの男だ。

 彼らの瞳に映った私は、まるで獣のようだ。


 王族の墓を荒らすという、死罪にも値する行為を行っている事実に、彼らは初めて気づかされたかのように身を震わせた。戦意喪失に似た周囲の状態にアイは周りを振り向き、顔を嫌にゆがめ、私と睨み合う。


「アイ様」


 不意に声が掛かってアイが身体を動かし、私の視界が広まった瞬間、小さな爆音が響いた。伸ばした左肩に衝撃が走る。あまりの衝撃に身体が後ろに揺れ、そうして初めて狂おしいほどの痛みが肩を貫いたことを知った。膝が折れ、座り込み、それでも身体が支えきれなくて私は背後の壁にもたれ込んだ。


「ナクトミン、お前は実に役に立つ配下である」


 アイが先程まで奥で状況を見守っているだけだった青年を讃えている。

 何が肩を貫いたのか分からず、痛みと衝撃に驚いた身体は動かない。反射的に右手で血が流れる肩を抑え、想像以上の激痛に見舞われた。この肩に何が起きて出血しているのか分からず、動転して視界が一瞬白黒と点滅した。


「……王妃様、これはヨシキの形見だよ」


 精気を失った顔の青年が静かに語りかけてくる。彼が示しているのは、間違いなく銃だった。この時代に存在しないはずの、この時代では最強とも言える武器。だがどうしてそれをこの青年が手にしているのだろう。

 ナクトミンは、数メートル離れたところからその銃口を身動きの出来ない私に向けた。


「あなたにはアイ様の妃になって王位継承権を渡していただく必要があるんだ。そうでなくちゃ僕が困る。従ってください」


 彼の声には、表情とは正反対に精気を帯び、熱く曲がらないものが存在していた。それが彼を支えているのだと思わずにはいられない。

 出そうとしても声が出なかった。足にもまともに力が入らない。ただ痛みだけが大きくなり、私の感覚全てを蝕んでいく。血が腕を滴り落ちる。次から次へと。手が生暖かい自分の血で濡れていく。

 ナクトミンと自分の銃で撃たれた怪我に気を取られ、隣に迫っていた手に気づくのが遅かった。突然撃たれた肩に激しい痛みが走ったのだ。左腕を掴みあげられ、突き上げてくる激痛に悲鳴を上げた。アイが私の左腕を取って引っ張っていた。その見開かれた眼は私の薬指に注がれている。


「や、やめ……」


 アイが何をしようとしているのか、すぐに分かって血の気が引く。撃たれた場所より先から力が入らず、抗おうとも動かない。


「やめて──っ!!」


 薬指に痛みが走り、無理矢理そこにあったものを抜かれる感覚がした。


「指輪だ……王位継承権の証!!」


 アイが私の薬指から引き抜いた指輪を天井に掲げた。


「王妃の印章だ!!」


 指輪が、取られた。

 アイによって掲げられた王位継承の証を見て、愕然とする。


「さあ、我が妃となれ!」


 アイが怪我した左腕を強く引いた。痛みに悲鳴をあげるばかりで、引きずられるままになる。玄室の壁から引き離される。


「荒らせ!遺体を叩き壊し、炎の中に叩き込むのだ!その男が二度と復活を遂げぬよう!この地を二度と踏み入れることのないよう!」


 死ねない。死ねない。このままでは。

 感情に任せてネチェルが用意してくれていた彼の形見の短剣を右手で引き抜いた。

 この男を王にはさせない。彼の墓を荒らさせることなどさせるものか。この男を殺して、私も死ぬ。

 剣の切っ先を視界の端で確かめ、渾身の想いで自分の左腕を掴み続けて引きずるアイに我武者羅に振り落した。アイが声を上げて反射的に私を突き離すと、自らの腕を掴んで悶えた。

 解かれた身を引きながら見やった、自分が与えたはずのアイの傷は、腕だった。一瞬にして血の気が引く。腕では、命など奪えない。人を殺そうとする恐怖を覚え、振り上げた瞬間に瞼を閉じてしまったのが間違いだった。

 兵たちが騒然として駆け寄る中、アイは巨大な二つの目でぎょろりとこちら捉えた。

 座り込んだまま後ずさった私の背中はやがて玄室の封印の壁へと当たり、逃げ場を失い、アイはそれ以上動けない私に大きな足音を立てて近寄ってくる。私はただただ彼の形見の柄をまだ感覚のある右手に握り締めることしかできなかった。

 次の瞬間、アイの手が私を横に殴り倒し、倒れた私の手から短剣をもぎ取ると怒りに燃え滾った恐ろしい形相で私にそれを振り上げた。


「大人しくしておれば可愛がってやったものを」


 ──殺される。

 指輪を取られてしまった今、私はもう用済みも同然だった。歯向かってくるような従順でもない娘を囲うほど、アイも寛容ではない。


「この小娘が!!!」


 アイの怒声と共に金の煌めきが炎に照らされた時だった。何かが自分の中を駆け抜けていって、それが一瞬、目の前を真っ白にさせた。身体が自分の者ではなくなったかのように力が入らなくなり、時が止まったかのような感覚が襲う。

 王墓内は真っ暗になった。すべての炎が、風もないと言うのに一瞬にして消えたのだ。

 同時に、アイによって振りかざされ、私の鼻先寸前にまで振り落されていた短剣が止まっていた。まるで、アイの身体も同じように何か目に見えないものに止められたかのように。

 暗闇に映る目の前の老人の顔は恐怖と混乱に支配され、引きつっていた。


『──愚かなる者たちよ』


 突然、声が頭上から降ってきた。


『──王墓を荒らす愚かなる者どもよ』


 降って来ているのではないと気づく。

 これは、私が言っている。私の口が。

 自分の意思に反して、唱えている。

 砂にまみれ、傷を負った人間が出せるような声ではない。それでも確かに私の声帯から、私の口から声が出ていた。

 一番最初と、彼に呼ばれて応えたあの時と、同じ。

 一言一言が、これでもかと鼓膜を揺らし、空気を震わせ、風を巻き起こす。


『──神となりし王の名を消し、その存在をも奪わんとするか』


 すべての目が私を捉えていた。恐怖におののく視線の数々。王墓に響く、地べたを這うような怒りに満ちた低い私の声は、皆を震わせた。


『──大いなる神の墓を荒らす者、滅ぼさん』


 風など入ってくる訳がないのに、突如そこに生まれた風は言葉を紡ぐほどに強くなり、床の砂を舞い上がらせ、私の髪までが浮き立たせた。周りにいた兵がざわめき、身を引き始め、数人が「王墓を荒らした祟りだ」と叫び、出口に向かい走り出した。


『──我ら王家守護ネクベトの死の翼に触れるべし』


 アイが悲鳴を上げて持っていた短剣を投げ捨て、私からずるずると下がり、距離を置いた。

 私の背後に何を見ているのか。玄室を塞ぐ壁に視線を投げる彼らの顔が恐怖に歪んでいる。おののき、逃げ惑う人々。私の背後から音を立てて風が生まれている。

 王墓の闇を切り裂く、視界を交差し飛び交う黄金の光が一束になって天井を貫いた。

 悲鳴を聞いた。地響きを聞いた。あたりは真昼のように白くなる。

 アイがナクトミンを呼び寄せ、皆が恐怖に襲われてもみ合いながら出口の方へ吸い込まれていくのを見た。


 風が弱まり支えるものを失った私の身体は、その場に崩れ落ちた。光も淡くなり、徐々に周りが本来の色を取り戻す。

 肩が痛い。身体のあちこちが痛くて動かない。視界に映るのは、地面と崩された埋葬品の金、そしてそれに向かって伸びていくような自分の血の色だった。腕が、肩から先が、焼け落ちてしまったかのように肩の感覚が無い。焼け付いた感覚だけを肩先に残して、自分の腕がどう投げ出されているのか知ることはできなかった。撃たれた場所に心臓が移動したかのように、そこが大きく拍動する。


 動かした視界に、メアリーが出口の方に倒れているのを見つけた。私と彼女が横たわっているだけで、あれほどいた兵たちは一人残らず姿を消している。

 右手を立て、力を込めると、どうにか身体が起き上がった。関節と言う関節が悲鳴を上げるように軋むのが分かったが、それでもやらねばと思うことはあった。一度は放してしまった手を、今度は掴みたい。右肘だけで這い、最後の力とも思えるものを振り絞って、手を伸ばし、近くにいるはずのメアリーの手を探す。固い地面を探る中で、辿りつく暖かさを見つける。ほっと息を吐いて、そして掴んだ。


 私の身体は再びうつ伏せに倒れ込む。力が残っておらず、彼の玄室の方に視線をやることはできなかったが、そこが何か大きく開いているように光を放っているのだけは感じられた。

 光が飲み込もうとするかのように音無く、静かに確実に私の方へ広がっている。アイたちを脅かしたものとは思えないほど、それは暖かく感じた。

 愛おしささえ胸に灯る。

 包み込んでほしい。飲み込んでほしい。

 もう、すべてを。


 僅かに開いていた視界が黒に落ちる。その先に一点の白い光を見た。

 私はそれに吸い込まれた。



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