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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
26章 時の果て
167/177

あの場所へ

 自分の部屋に戻った頃は、すでに辺りが暗くなりつつあった。

 疲れに伸し掛かられて寝台の上に腰を埋め、両手で顔を覆う。夫と娘の遺品が詰まった箱を前に引き寄せ、膝に抱きかかえるように身体を丸めた。

 これから、私はどうするべきなのか。箱を抱き締め同じ問いを繰り返しても、度重なる出来事で塞がれて何の道も見出せずにいる。進もうとすれば阻まれる。八方ふさがりだ。分からない。逃げられない。どこにも。


「……申し訳ありません」


 視線を箱から上げると、ネチェルが項垂れて私の前に膝をついていた。


「あからさまな敵意を向け、アイにこちらを責める口実を与えてしまいました」


「いいえ、ネチェル」


 自分の非を嘆く彼女の肩に触れて首を横に振った。


「私は感謝しているのよ、ありがとう」


 敵意に囲まれた中で自分を顧みずあれだけのことを言ってくれた。私に味方してくれる、共に涙してくれて怒ってくれる大事な人。掛け替えのない人だ。


「言い返してくれて嬉しかった。私もあの男の子供を産むなんてまっぴらごめんだもの」


 笑って見せても、彼女の顔はますます歪み、両手に顔を埋めて咽び泣き始める。


「ファラオが生きていらっしゃったなら、あのようなこと口にさせませんでしたのに……悔しゅうございます、悔しゅうございます!」


 さめざめと涙を流す彼女の肩を擦りながら目を伏せた。彼女の啜り泣きに呼応するようにメジットや他の侍女が声を抑えて泣き始め、こちらに味方してくれる数少ない兵たちも俯いた。


「……私も悔しい」


――彼が生きてくれていたなら。


 そう思わなかった日はない。彼なら、もっとうまくこなしていただろうか。こうならないようにしていただろうか。自分が正しいと思った道を突き進んできたはずだというのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 彼の懐かしい横顔の次に、先ほど見たあの憎い老人の顔が脳裏に現れる。ぐっと箱を抱いた拳を握りしめた。あの男を貶めてやりたい。何か仕返しをしてやりたい。だが、そんな力は私にはもうない。


「王妃……!」


 急に扉が開き、顔を真っ青にしたセテムが入ってきた。私を見るなり、こちらに駆け寄って膝をつき、安堵したように胸を撫で下ろしてネチェルの隣で暗い顔を上げる。深刻さを表すような深い皺を刻んだナルメルが杖を突きながらセテムの後ろに立った。事態を聞きつけたのか、怪我が治り切らないラムセスやカーメス、イパもいる。


「ご無事でしたか」


 聞き慣れた宰相の静かな声だ。


「民のことは……もう知っているのね」


 ナルメルは今までにもなかったような険しい顔で髭を撫で、私を瞳に映している。


「宮殿内にも、アイを王に据えることを望む声が上がっております。今にもこの部屋に押し入ろうとする勢いです。おそらく先程のことが追い打ちをかけたのでしょう」


 悔しげなセテムの声は、どこか物哀しさを湛えている。


「どうにかこちら側の兵で抑えてはいますが、これもいつまで持つか」


 まだ押し入ってこないのは味方の兵が守ってくれていることや、王家が神聖なものという認識がぬぐい切れていないからだろう。しかし、彼らの先頭にアイが立ったならばこの部屋にこもっていられるのも時間の問題となる。

 世が望んでいるのは王の存在だ。でも私は。


「アイの言い様は酷い!王家を罵倒しているようなもの!!決して許されぬことです!!」


 ネチェルが助けを乞うようにナルメルに訴えた。宰相は歪めた表情のまま唸る。


「指輪を継がない限り、王にはなれぬ。アイは王妃を閉じ込めてでも、自分の妃にするつもりなのだろう」


「しかしそうなれば王妃様はどんな目にあわされるか!アイは王となれば次に望むのは御子のはず」


 ネチェルに並び、メジットもまたナルメルの前に出た。


「閉じ込めて御子を産めなどと……あの悍ましい男は、王妃を自分の情婦にするつもりなのです!何か、何か策はありませぬか!」


 ナルメルは思い悩むように宙を見つめる。セテムもラムセスもカーメスもナルメルに視線を送り、出るかもわからない形勢を覆すための指示を求めた。


 箱を撫で、それから視界を閉じる。アイの問題の前に、ヒッタイトとの問題もある。ヒッタイトが戦う姿勢を見せたのなら、エジプトも戦わなければならない。まずは民を守らなければ。兵も武器も集めなければ。それ以前に、この国の歪んだ軍勢で戦うなど、可能なのか。

 これから起こり得ることを思うだけで、恐怖が背筋を走る。戦えないと白旗を上げれば民と国はどうなるか、分からない訳ではない。降服すれば否応なしにエジプトの民に安堵のある暮らしはなくなるだろう。奴隷にされるかもしれない。王子を殺した国の民として。彼が愛したこの国の美しさは恐ろしい光景に変貌してしまう。


 どうすればいい。誰かを王に据え、国の安定を第一に図ってヒッタイトとの戦争に向かい合うか。王として選ぶべきなのは、民が一番納得する人間――現在絶大的な権力を誇るあの老人しかいない。

 嫌だ。あの男のもとに下ることだけは。屈することだけは。良樹とヒッタイト王子を殺した男だ。

 箱を握り締める。閉じ込められて一生を終えるなど。あんな男の子供を産むなど死んだ方がましだ。


 最善の策はどこにある。少しでも被害を小さくするためには。アイに下らないままでいられるには──。そうして辿り着くのは、可能な限り考えないようにしていた自分の結末。何の手もなくなった時はこの手しかないだろうと何とはなしに思い描いていた最後。

 急に現実味を帯び始め、考えるだけで身体が震え出した。どうにかならないかと案を出し合う、共に歩んできた仲間を眺め、これまでのことを想う。

 大事な、掛け替えのない記憶が流れ込んでくる。温かくて、泣きたいほどに懐かしい。愛おしい。なんて素敵な日々を私は送ってきたのだろう。王妃として持ち上げられ、支えられ、ここで王家として生きて。

 私はここにいる皆の沢山の手に引かれ、ここまで来た。本来ならここの人間ではない私が、彼の妻としてあることが出来たのだ。

 共に歩むといってくれた人がいた。それだけで、十分ではないか。


 このままアイが来るのを待っているだけでは、私と共にアイを非難する皆は命を危険にさらすことになる。私も否応なしにアイの妻にされることは間違いない。

 どこにも行き場は無いことは分かっている。いくらナルメルでももう他の道は見つけられまい。


 一度閉じた目蓋を開けて視界を改め、それから顔を上げた。

 生きたいと思っても叶わないことが、この世にどれほどあるだろう。彼もそうだった。良樹もそうだった。生きることを渇望して、死んでいった。

 私も王家。ただ一人の王家。

 何のための私かと考えて出てくるのは、彼や、ここで私のために考えを巡らせてくれる人々だ。

 守るもののための、自分。皆を助けるための私だ。


 深い呼吸を数回繰り返し、遺品を詰めた箱を膝から下ろして傍に置く。寝台から立ち上がると、木材が軋んだ音を鳴らした。

 皆を見た。ナルメルを始めに、私の動きに気づいて多くの目をこちらに向け、王妃からの言葉を待っている。

 静かな空気は肌に刺さるように固い。覚悟を固め、ゆっくりと口を開く。


「アイのもとに、下りなさい」


 突然の私の発言に、彼らは目を見開いた。


「王妃!何を」


「ラムセス」


 セテムの声を断ち切って、愕然とした顔をしている赤毛の隊長を呼んだ。


「未来、あなたの名前は、この国を世界で最も強大国家にする王の名となります。世界を轟かすエジプトの大王。それがラムセスの名……あなたの血縁です」


 ずっと気に掛かっていた。ラムセスは彼が唯一後継を認めた人物。生き抜かなければならない。


「アイの元に下り生き残って、夫の最期の命に従い、王となりなさい」


 未来、と呟き、唖然とするラムセスの返事を待たず、一番背の小さい少年に目を向けた。一気に言ってしまわなければ、自分の中で懸命に張っている糸が切れてしまいそうだった。


「イパ」


 兄の傍に立っていた少年は呼ばれると緊張に身を小さく震わせた。出逢った頃と比べれば成長したが、年の割に小さな背はその子自身を幼く見せる。


「あなたの知恵と才能はエジプトには掛け替えのないものです。今までよく私の力になってくれました。あなたにはこれからもこのエジプトを支えて欲しい」


 小さく首を縦に振るイパの隣に、黙ったまま私を見据えているナルメルとセテム、カーメスがいた。


「ザナンザ王子がエジプトに向かう途中で殺され、その責任はこのエジプトにあります。これからヒッタイトとの全面戦争が起きるでしょう。けれど、私の身ひとつでそれが抑えられるかもしれない……本当にわずかな可能性だけれど、ヒッタイト王の気持ちが変わるかもしれない」


 一息ついて、震える右手を左手で抑え込む。


「もしそれでも戦争が起きてしまったなら、カーメス、あなたの力でラムセスと共に民を守りなさい。ナルメルとセテム、あなたたちには戦争で傾いていく国を保つようその知恵を役立ててほしい……二人なら必ず出来る。こんな私を支えてくれたのだから……全部任せてしまう形になってごめんなさい」


「何をなさるおつもりです」


 ナルメルが低い声で私の言葉を絶った。睨むような鋭い視線に向き直り、自分の決意を告げるために胸を張る。


「アイの前でこの命を絶ちます」


 侍女たちが小さな悲鳴を上げる中、言葉を続けた。


「皆はアイに従えば助かります。けれど私はアイの妻になるつもりはありません。だから私はここに残り、アイの目の前で命を絶ちます。これから王子の殺害事件を私の裏切りと取って激怒しているヒッタイト王は私の身柄を要求するはず……私の遺体をヒッタイト王に送りなさい。私は王家。責任は、少しでも私が背負って行く」


 ヒッタイトに書簡を送り続けたとしても、おそらくシュッピルリウマは代償を求める。つまりは私の身柄だ。命だ。戦争を勃発させ、王家を抹殺し、エジプトをヒッタイト領域に取り込むことが最終目的になる。交渉を持ち掛けた張本人である私を生かすことはしない。それならば、自らこの手で。


「皆が生き残れば彼の名を守ることができる。彼がこの国を愛したことを、この国で生きていた証を、どうか守って」


 ヒッタイトに対するせめてもの許しを請うため。アイに王位を渡さないため。そして彼の理想を、彼の名を繋いでいくため。自分が叶えられなかった理想は、後に生きる人々に託してこそのものだ。そうして人は自分の願いを伝えてきた。


「行きなさい」


 右手で奥にある扉を示す。茫然とした顔がいくつも目の前に並んでいた。


「あなたたちは、扉の前に来るアイの兵たちに私を引き渡すと述べ、アイにここに来るよう伝えなさい」


 この手で自ら命を絶つことを思ったら、怖さに身体の奥が震えた。一度死ぬことを考えた時よりも、ずっと怖かった。生きたい。生きていきたい。そう願った後だからこその恐怖なのかもしれない。

 だが、その前に私は王妃だ。ここまで来たことの原因は私で、私は最後まで責任を負わなければならない。終わらせるのも、私だ。

 最期の瞬間まで私は王妃でいよう。誇り高く、彼の妻であり続けよう。

 アイの手には決して渡らない。王位は渡さない。


 皆から背を向け、寝台に置いたままの遺品の中から彼の短剣を取り出した。黄金に装飾された柄は、息を呑むほどの威厳と美しさに満ちている。全身が凍りつくような感覚を覚えながら、深い呼吸をする。

 もし皆の存在が無かったのなら、泣き喚いていたかもしれない。

 ──守るためだ。

 座り込んでそっと鞘を撫でる。持つ手が震えた。右手を左手で柄ごと包み込み、目を閉じ、もういない愛しい人を思い浮かべた。大丈夫だと、自分に言い聞かせる。

 今から、あの人のもとへ行くだけだ。終われば、夫も娘たちもいる。

 自分の導き出した答えと、この結論に自ら至ったことに、さほど驚きと絶望はなかった。分かっていた最期なのかもしれない。私は最初から自分の歩んでいく先が悲劇だと分かっていたではないか。ただ、諦め悪く、何かできないかと足掻いていただけで。


「なりませぬ!」


 悲痛な叫び声と同時に、誰かの手が私の腕を掴んだ。気づけば握っていた短剣が床に落ち、別の手が素早くそれを拾い上げて私から離した。


「ネチェル」


 私から短剣を取り上げたのは女官長だった。青い顔に涙をためて、首を横に弱々しく振って短剣を胸に抱いている。


「そのようなこと、私が許しませぬ!」


「駄目よ、返して」


 振り返り、まだ立ち尽くしている私が守るべき彼らを見やった。


「あなたたちはアイのもとへ向かうの。お願い、言う通りにして」


 私の声にイパや侍女たちが縋る表情で首を横に振ってしまう。

 彼の短剣で自分の頸動脈を切り裂くことは、今ならあの人とあの子たちのもとへ行けると思えば、自然と受け入れられる。今ならば。

 一度は捨てようとした命だ。そして彼らに救われた命だ。彼らのために使うのが正しい選択だろう。娘と夫の形見を抱いて私は指輪を壊し、アイの目の前で自ら命を絶つ。そうすれば、アイは王位を得られない。私が死ぬ前に自分の配下についたナルメルたちをアイが罰することはない。これでいい。これしかない。

 目の前にして王になる機会を消し去ってやること――私がアイにできる唯一の復讐だ。


「行きなさい」


 扉を指差して言い放つ。


「行きなさい!!!命令です!!」


 私の声が微かにこだまを残すだけで、誰もそこから頑として動かない。

 時間がないというのに。これでは皆が皆、終わってしまう。


「――皆、聞け」


 私の声の余韻が消えた頃、静かな、それでもよく響く声を放ったのは、今まで固く口を噤んでいたナルメルだった。神聖な鐘の音を思わせる声は、あたりの視線を一瞬にして集めた。宰相は杖を自分の前に持ってくると、両手を杖の頭に乗せて真っ直ぐと周囲の人々を眺める。


「王妃を、もとの世界へ帰す時がきたようだ」


 思わず言葉を失った。もとの世界――私が生まれ育った、未来のこと。まさか、この場でそれが出るとは思わなかった。


「忘れたか。我らがファラオ、最期のご命令である」


 皆がはっと息を呑んで、暗い顔から確信めいた表情へと面持ちを変え、ナルメルに向けて大きく頷いた。彼は最期の命令として、危険が及ぶようならば私をもとの世界に帰せと彼らに命じたのだ。そのことをナルメルは皆に告げているのだ。


「無理よ」


 しんとした空気に私の声が落ちた。


「帰れない。私がここへ来る時はいつも彼の声があった。彼が死んでしまった今、私が帰る術はもうどこにもない。覚悟は、彼の妻となった時に決めています。今のエジプトを捨てることは出来ない。だから、」


「王墓が御座います」


 落ち着いた言葉が私の口を止める。ナルメルは少し柔らかく微笑んだ。


「あの御方が眠っていらっしゃる、死の谷の王墓が」


 頬を叩かれたような気がした。彼の眠る寂しいあの場所。私が最初に時代を越えた場所のことを、ナルメルは言っている。


「あなたがお呼びになれば、あなたのお声にファラオは必ずやお答えになられるだろう。いつかのように」


 彼が。彼が、私の声に、答えて。


「……いいえ」


 考えを断ち切って否定した。


「いいえ、無理だわ」


 強く言って、首を振った。そんなこと、ある訳がない。有りもしない理想に縋り付く暇など私にはないのだ。


「彼は死んでしまった。いくら呼んでも死んだ人間の声を聴くことはできない。彼は死んだの。彼はもうこの世のどこにもいない!」


 そこまで叫んで、自分の息が荒れていることに気付いて無意識のうちに胸元を抑える。分かっていることを言葉にして口から放つと、悲しさが押し寄せてどうしようもなくなってしまう。

 嫌と言うほど思い知った事実だ。私が呼んでも、彼が私を呼び返してくれることは無い。死ぬとはそういうことだ。過去の記憶に生きているだけで、新しい何かをもたらしてはくれない。


「……彼は、もう」


 ナルメルの提案にどれだけ惹かれても、それが現実として起こるとは到底思えない。絶対的なものが無い以上、動くことはできない。


「ご心配なさりますな」


 俯く私に、ナルメルは慰めるように柔らかな言葉をかける。顔を持ち上げたすぐ先にとても優しい、穏やかな宰相の顔があった。


「あなたがお呼びになってもお答えにならなかったのは、まだその時ではなかった故。万物にはしかるべき時というものがあるのです。今がその時と言えましょう。ファラオに最も近い場所で、その御名をお呼びになられると良い」


 私が返答する前に、ナルメルは険しい顔をしてセテムに向き直った。


「セテム、お前は隠し通路を用い、王妃を王墓まで送り届けよ」


 息を呑んだセテムが一拍置いて強く短い返事をした。


「カーメス、お前も王妃と生まれを同じくする侍女を連れ、セテムと共に王墓を目指せ」


 カーメスが同じように返事をし、深く礼をすると、部屋を出て行く。


「いいえ!私はここに残ります!」


 途端に動き出したナルメルを止めようと私は叫んだ。


「そんな起こるかどうかも分からない可能性に懸けて、この場を逃げ出すなんて無責任なことはできない!私がここに残れば、落ち着くものはたくさんある。私はエジプトを守ると決めた!私がいなくなれば、どれだけの人が血を流すか、想像できない訳じゃない!私はその責任の上にいるのよ!」


「ラムセスとイパは王妃の命じられた通り、アイに下れ」


「ナルメル!」


 宰相は私の声が耳に入らないかのように次々と命じていく。


「宰相殿…!俺も…!」


 セテムたちと共に向かいたい意志を露わにしたラムセスに、宰相は宥めるような口調で言った。


「その腕では十分に剣を振るえまい。剣とは両手があってこそのものだ。足手まといになることの方が、そなたにとって屈辱の他の何物でもないはず」


 ラムセスは怪我が治っていない腕をぐっと抑えて口を噤んだ。


「お前はファラオより次期王として認められた身であることを忘れてはならぬ。決してここで命を絶つことだけは許さぬ。アイのもとへ行き、自らが王となる好機を待て。それがお前の使命であることを胸に刻め。お前がファラオの御名とご意志を伝えていくのだ」


 大きく見開いた緑の目にナルメルを映し、唇を噛みしめる。しばらく黙って俯いた後、ラムセスは私の前に立って膝をついた。


「我らが王妃よ」


 噛み殺した声だ。私に向けられた緑の瞳は、真摯さと悔しさと決意を燃え滾る火のように光らせ、口を挟むことを私に許さなかった。


「必ずや、ファラオの御名を、ご決意をお守り申し上げます」


 私に深々と頭を下げると、こちらの返答を待たずにラムセスはナルメルに向き直る。熱のこもった瞳に哀愁が帯び、束の間流れた沈黙にさえ想いが流れているようだった。


「俺はあなた方の助命をアイに願い出ます」


 ナルメルは弱く微笑んだ。それを見届けると、ラムセスは私を見、次にイパを見る。


「行くぞ」


「嫌だ!」


 イパはラムセスに大きな声を上げた。


「何勝手なこと言ってるんだよ!僕もここにいる!」


「お前は駄目だ」


 私の隣に立っていたセテムが低い声音で弟を突き離すと、弟は泣きそうな目で兄をきっと睨んだ。


「兄さんが思ってるほど、俺は子供じゃない!こういう時まで子供扱いだなんてうんざりだ!アイの下に下る!?そんなの、絶対に嫌だ!!」


「お前は子供だ。何も分かっていない」


「もう13だ!王家のために死ぬことなど厭わない!!本望だ!俺たち兄弟は王家に尽くすためにここにいるんだろう!兄さんの口癖だ!皆ここで王妃様をお守りするためにアイに殺される!……ラムセスさんがアイにつかなければならないのは分かる。この人は王になる人だ、生き残らなくちゃいけない……でも!俺は嫌だ!」


 決して頷かない兄に業を煮やして、イパは縋る目でナルメルを振り返った。


「宰相様!王妃様!」


 そんな少年にも、宰相は表情を崩さない。歩み寄り、数年前よりも確実に成長した少年の前に来ると、ゆったりと口を開く。


「そなたはまだ若い。お前の持つ二つとない長けた才は後のエジプトにとって大きな力となろう。その力をファラオや王妃の愛するこのエジプトのために使ってほしい。今一番権力を持つアイのもとに着けば、才能のあるそなたは必ず重宝してもらえよう」


「嫌だ!」


 少年は宰相の手を払った。これほどに取り乱したこの子を見るのは初めてだ。


「イパ」


 セテムは抗う弟の肩を掴むと、ラムセスに押し付けた。


「嫌だったら!!兄さん!」


「行け、ラムセス。連れて行け」


 セテムは弟の背を無理矢理押して突き離し、ラムセスはイパの腕を掴んでセテムを見てき、周囲の人々を見回して叫んだ。


「ご無事で!!また相見えんことを!」


 言い切って、ラムセスは一目散に部屋の外へ駆け出した。「嫌だ、兄さん」と泣き叫ぶ声が聞こえなくなるまで目を閉じていたセテムが、声が消えた途端に瞼を開き、今度は私の腕を掴んだ。


「行きましょう」


「ナルメル!」


 セテムの腕を振り払い、ナルメルを真っ直ぐ見据え、目の前まで歩んだ。


「私をここに残しなさい!私の言うことに従いなさい!」


 王妃の命令に、宰相は首を横に振る。


「我々はあなたをアイに引き渡す気は毛頭御座いませぬ。お命を絶たれるなど以ての外。もしこの命と引き換えにあなたをアイに渡すなどということがあれば、ましてやお命を危険な目に晒すこととなれば、我々は亡きファラオに合わせる顔が御座いませぬ」


「あなたがいなくなったらこの国はどうなるの。王家はどうなるの。あなたの知恵や指導力は、これから生きる人にとって絶対に必要とされるものだわ。私の存在よりもずっと。私よりもエジプトを立て直す力があなたにはある!」


 一人が犠牲になることで大勢が助かるよりも、大勢が死んで一人が生き残ることを選ぶのか。こんな私のために。

 私は、それほどの人間ではなかった。ここまで国を貶めた。ここまで皆を苦しめることになった。こんな私が生き残って、何の利益が生まれるというのか。


「王妃、」


 迫る危機が感じられない穏やかな面持ちでその人は私に語りかける。


「私は老いぼれの身で御座います。アイが王座につくのならば、あの者は気に入らぬ私を迫害するでしょう。決して政には関わらせることはありませぬ。ならばここで命を尽きさせていただきたい」


「でも……!」


「帰る場所がおありになるというのに、よくぞ、ここまで我らのために残ってくださいました」


 すると、隣にネチェルが泣きながら微笑んで、夫と娘の形見が入った箱を持ってやってきた。


「私どもはあなた様にお仕えして参りました。これ以上の幸せをどうして感じるでしょう。ファラオがいらっしゃって、あなた様がいらっしゃって、姫君がいらっしゃって……あれほど満ち足りた気持ちは先にも後にもありませぬ。ただ、あのお時間がもっと続いていたならと思わずにはいられません」


「ネチェル、何を……」


 箱からタシェリの産着を取り出し丁寧に小さく折りたたむと、メジットが手にしていた上着の裏側に結びつけた。拒む私に上着を羽織らせ、帯の部分に鞘に納めた彼の短剣を差す。


「ファラオと姫君の大切なお形見です。どうかお持ちくださいませ」


 駄目だ。駄目だ、これでは。


「未来へお帰り下さい」


「一度お帰りになり、いつかまた、ここへお戻りください」


「我らはいつまでもお待ちしております」


 侍女たちが口々に言う。一度戻ってしまったら、もうここに戻ることはないと、彼らも察している。離れてしまったら私はもうここへは戻れない。


「我らは最期まで、ファラオと貴女のお力としてここに残りましょう」


 泣きながら笑うネチェルの手を掴んだ。


「許しません!」


 声が震えた。この手のぬくもりを失うことだけは耐えられない。


「ラムセスとイパと共にアイに屈しなさい!」


 声が枯れ始めていることが腹立たしい。


「命令です!アイのもとに下りなさい!!」


 誰も頷かない。頷いてくれない。


「私が逃げれば、アイはあなたたちを必ず殺すわ!私は嫌です!……お願い!アイに下って!」


 王妃として命令しようとも、懇願しても、もう言葉が続かなかった。

 涙が込み上げた。恐怖に悲しさに、悔しさに、自分の無力さに、どうしたらいいか分からなかった。

 ナルメルたちは死を覚悟している。今死ぬ覚悟だ。私のために。自分の使命のために。


「ナルメル……お願いだから」


 ナルメルは首を振る。なんて穏やかな悲しい笑みを浮かべるのか。


「王妃、それは私たちにとって死を意味するのです」


「ならば!私に彼の王墓に行って未来へ帰れと言うのなら、一緒に王墓へ!もう誰かを失うのは嫌です!!皆で共に彼の王墓へ行って、彼に助けを……」


 ナルメルは静かに目を細めた。遠い日々を懐かしむ面持ちだった。


「若き頃より、我らは真の王家のために仕えて参った。この身体が朽ちるまで王家を守り抜くと、我が魂を懸けて誓ってきた。ここに残り、最後の真の王家でいらっしゃるあなた様の行く手を守り抜く。それが我らに残された最後の使命。もしそれと違えることがあったならば、我らの今までが何の意味も持たなくなる」


「でも、そんな、駄目よ、ナルメル!駄目!」


「行かれよ」


 杖で床を打ち鳴らし、ナルメルは静かな声で私の言葉を断ち切った。びくりと身体が跳ねる。


「未来へ、帰られよ」


 鐘の音が、鳴り響く。

 そうだ。この人の声はいつも鐘のよう。耳の奥まで響いて、拒むことを許さない。少年王であった彼を導いてきたのも、この声だったのだろう。


「帰るべき場所へ!さあ!」


 一端言葉を切ると、抑揚を抑えた柔らかな声で続けた。


「そしていつかお帰りください。我々はいつまでもお待ち続けております故」


「王妃!!」


 腕を引かれた。力を失った私の足はセテムに引かれるままに走り出す。


「我らの親愛なる王妃よ」


 視界の中で小さくなるナルメルが私に右手を上げた。神殿にいるラーの神像に祈る仕草によく似ていた。


「再び相見える日まで、健やかであれ」


 遠ざかる宰相や侍女たちの顔は微笑んでいた。優しい、柔らかな笑顔だった。これから何が起こるか、分かった人とは決して思えない微笑だった。私を逃がせば、これからアイにどんな目に合わされるか分かっているだろうに。


「……待っ」


 部屋の奥に眠っていた小さな扉に吸い込まれるように入る。


「ナルメル!!ネチェル!メジット!!」


 部屋を出て彼らが見えなくなってから火がついたように叫んだ。

 私を支えてくれた人。私の大切な人たち。

 アイは殺すだろう。ナルメルたちがアイにも下らず、アイを邪魔する存在になれば。私を逃がした、敵対する存在を、一人残らず。死なせたくない。失いたくない。私は彼らに命を懸けさせるほどの人間だったか。


「セテム!待って!駄目よ、放して!」


「振り向くな!!」


 泣き叫ぶ私の腕を強く引き寄せ、セテムが言った。


「決意を無駄にすることは決して許しませぬぞ!」


 はっとする。


「あなたが生きてこその、彼らの決意だ」


 これは決意によるもの。私の愛した人々の。ここで戻ったりなどしたら、彼らの決意は、一体何だったのかということになる。

 ああ、でも。でも。


「あなたが彼らのために出来るのは、それを踏みにじらないことだ。そして私に出来るのも、あなたに彼らの決意を踏みにじらせないことしかない」


 セテムの顔をその時初めて見た。苦しいくらいに歪み、血が出るのではと思うほどに噛み締める唇は、戻ることを必死に堪えていた。


「行きましょう」


 セテムに言われて、再び進み出す。もともと王が宮殿内での襲撃から逃れるために作られた外へ繋がる隠し通路。一度も使ったことのない通路内は一寸の光も射さず、息苦しさに埋もれている。セテムが私を引っ張り、通路はやがて裏に回る階段に出て、そこを駆け下り、女官しか通らないような細い廊下を走り、そしてようやく外へ飛び出した。

 足が土を踏む。吹いてきた風が、冷たかった。


「弘子!!」


 懐かしい声に視線を向けると、カーメスに連れられたメアリーがいた。メアリーは私の姿を認めると、顔をくしゃくしゃにして飛びつき、私の胸の中でわっと泣き出した。


「死ぬなんて駄目よ!絶対に駄目!私が許さないから!!ヨシキも死んで弘子まで死んだら私……」


 今ここで私に死ぬことは許されない。何も許されない。残してきた彼らを思い出し、茫然としたまま、縋って泣く彼女の背を撫でた。


「泣いている暇などありません。お部屋に兵が攻め入ったと聞いております」


 ナルメルたちのいるあの部屋に。アイの兵が。


「おそらく我らの行動は、すぐにアイの知るところとなりましょう。アイたちが追ってきます」


 カーメスとセテムに導かれ出たのは宮殿の裏側だった。ナイルが離れたところに水面を光らせている。宮殿の影から浮かび上がる水面は、そこだけが神聖に煌めいて美しかった。


「よろしいですか、顔を見られぬよう。闇に紛れてください」


 セテムはそう言うと、ネチェルが着せてくれた黒い上着のフード部分を、私に深く被せた。彼の形見に触れ、内側にあるタシェリの産着を上着の上から触れて、目を閉じる。

 戻れない。戻ることは決してしてはならない。

 私は、彼が愛した人たちさえ、守ることができないのか。


「お待ちしておりました」


 闇の中に二頭の黒い馬を引き連れた兵がいた。すでに準備はされており、待っていたようでもある。その兵の顔が月光で明らかになり、いつもセテムに従っていた人だと気付いた。


「ご苦労」


 手綱を引き寄せ、セテムは迷わず馬に私を乗せ、勢いよく自分も飛び乗り兵を見つめた。兵は心配でたまらないといった顔をしている。


「どうか、ご無事で」


「お前もすぐに逃げよ」


「いえ、私はあなた方の行く手をお守りいたします」


 じっと相手を見つめ、それから「頼む」とだけ小さく頷くと同時にセテムは馬の腹を蹴った。メアリーを載せたカーメスの馬と共に一気に走りだし、さっきまで間近にあった兵の姿が消える。私たちを逃がしたとなれば、あの人も。

 何もかもを振り切ろうとするかのように、セテムは誰もいない無人の門をくぐる際、かみ殺した声で言った。


「あの谷へ……!!」


 あの場所へ。

 王の眠る場所、すべての始まりのあの場所へ。

 多くの人々の想いを胸に抱いて。


 残してきた人々を想った。今までのことが駆け抜けるようにして、脳裏を過ぎて行く。いくつの出会いを、こうした別れで塗り替えるのだろう。

 駆け出した馬の首に額を押し付けてぐっと目蓋を閉じる。


 私は、無力だ。





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