謁見
案内された部屋は、後ろ三分の一が山積みにされたエジプトの品で埋め尽くされていた。これだけの荷物をエジプトから運んできたのかと、思わず立ち止まって見上げてしまうほどだ。
荷物から視線を外して部屋の奥へと目を向ければ、階段で繋がる壇上に玉座があり、その下からこちらまでを道を作るように兵と女官と大臣たちが並んでいる。ラムセスとナクトミンはそれぞれ左右に分かれ、俺より随分離れたところに膝をつき、跪く体勢を取った。
何度も頭に叩き込まれた形式を思い出し、俺も中心の方へ出向いて彼らと同じような体勢で床に膝を付き、王の登場を待つ。
そうしていると何かに気付いたヒッタイト宰相らしき老人が頭を下げ、それに倣うようにして周りの人々も頭を下げ始めた。まるで波のような、しなやかな揃った動作に習って額を床に向けた。
静まり返った空間に裾が床に擦れる音が響き出す。
一人二人ではない、五人以上だ。
威圧的な目でこちらを確認してから、玉座にゆっくりと腰を下ろす様子は、視線を床に向けている間にもありありと感じることが出来る。
「顔を上げよ」
響き渡った有無を言わせぬ低い声に電流のようなものが身体を走り抜け、痺れを感じながら身体を起こし、視線を上げた。
目の前の玉座に座る、長い衣服の裾を床に垂らした、長身で体格の良い男。蓄えた髭には、白が混じりつつある。
「エジプトより、よくぞ遥々参った」
これが、ヒッタイトのシュッピルリウマ。たった一代でこの国をエジプト同等の地位につけた男。
年齢的には六十に近い。この時代にしては長生きなのではないだろうか。
横に並ぶのはおそらく王妃3人。胸を張り、最も年かさが増している王妃が正妃タワナアンナの称号を持つ権力者。他の二人の女性は身を引くように、一歩後ろでこちらを見ている。タワナアンナよりも年若く、最も若い王妃で三十ほどに思われた。
玉座の横に連なる3人の王妃と反対側にいるのが若い男たちだ。あれが王子たちだろう。王女の姿は見えなかった。それであっても王家がほぼ全員、俺たちの前に揃ったことになる。
ヒッタイトにとってもこの謁見は大きな意味を持つという証だった。
「貴国の若き王の崩御は、まことに残念であった」
感嘆や同情を含んだ声で大王は言った。
「私のように長く生きておれば、名の馳せる王になったであろうに」
「ヒッタイト王にそうおっしゃっていただけるならば、我らエジプトの民の心も休まりましょう」
答えると王は頷く。
「あれは勇猛な少年王であった。失ったのは実に惜しい。それでなくとも王がおらぬ国は弱い。さぞや今のエジプトは心細いであろう」
「我ら、その亡きエジプト王の王妃より命を賜り、ザナンザ王子のお迎えに参上仕りました次第で御座います」
王は再び首を縦に振った。
「エジプト王妃の書簡は今回の取引が一刻をも争うことであることをこれでもかと伝えてきた。大変なのだろう、今のエジプトは。以前の我が国のことを思い出す」
こちらの言いたいことが分かっていると言った様子で、王は声を高めて王子たちの方に視線を投げた。今回のことが急用であることを王は承知の上なのだ。
「紹介しよう。あれが我が子らだ」
王を挟み、王妃と反対側に立ち並ぶ若い男たち。身に着ける衣服はどの女官や兵や大臣より豪華かつ優美であること、そして何より誇りと威厳に満ちた、前をつと見据える表情がヒッタイト帝国の王子であることを物語っている。
王子たちは一歩前に揃って歩み出て、父王に紹介されると目だけで頷くだけの挨拶をした。
第一王子アルヌワンダ。長男は俺より年上だ。髭を蓄えているが、まとまったきりとした髭は上品さとその若さを訴えており、つんとした顔は正妃アルヌワンダによく似ている。母が誰であるかを教えてくれる面持ちだ。
第二王子シャリクシュ。次男は髭が無い分兄より年若く俺と同い年ほどだが、表情は固く、針のような視線を俺たちに向けており、こちらをあまりよく思っていないのが嫌でも伝わってくる。
第三王子テリピヌ。三男は兄と比べれば穏やかさのある顔だが、作り笑いであることは見て取れた。
この上の王子三人はエジプトに疑いの目を向けているのだろう。今回の決定にも乗り気でないに違いない。
「そしてあれがムルシリ。4番目の王子だ」
王が示した第三王子の隣に立つ王子は、俺を質問攻めにしたあの清々しいくらいの少年だった。澄んだ瞳で俺たちを見つめながらにこりと微笑んでいる。それでも決して王子ということは忘れておらず、胸を張って隣の兄たちに劣らない、近寄りがたい威厳を湛えているのだ。
「そして次が今回の……」
王が口を止めた。ムルシリ王子の隣にいたはずの人間が一人消え、5人であるはずの王子が4人になっているのだ。いないのは、今回重要な位置にいる幼い王子、ザナンザ。
「あの末の王子はどこへいった?」
母親だろうか、最も若い栗色の髪の王妃の一人が前に歩み出て王子の方を覗いて息子を探している。いないのを確認すると、顔を青くしてあたりを大きく見回した。
広間の柱の陰にいた一人の老人が飛び出て、口元に手を当てた王妃に命ぜられて慌ただしく王子の行方を探し始める。その様子につられるように大臣たちも次第に騒ぎ始め、空間が人の声で満ちた頃。
「陛下、弟はこちらに」
ムルシリ王子がくるりと後ろを振り向くと、きゃっと子供の声が上がった。兄の後ろに隠れるようにへばりついていた幼い少年が、皆の目の前に晒された。見つかってしまったと悪戯小僧とも言える表情でその子は笑っている。
「兄さま、何をするの」
「遊んでいる場合ではないのだぞ、ザナンザ。エジプトから使者が見えているのだから」
兄弟が仲睦まじく笑い合っていると、王の声がした。
「……ザナンザ。全く、そなたという奴は」
呆れ笑いをしながら、仕方がないと肩を竦める王に対し、他の3人の兄たちは頭を抱えている。悪戯顔を含ませてムルシリ王子は意気揚揚とした微笑を向け、さあ、と弟を前に出るよう促した。
兄の腰あたりまでしか身長がない幼い少年は、素直に前へ出ると、王と王妃の前を通り過ぎ、檀上から階段を駆け下りて、俺たちの前に素早く仁王立ちになると腰に手を当てて胸を張った。一つに束ねたムルシリ王子と同じ明るい栗色の髪と愛想の良い面持ちは、二人が母を同じとした兄弟であることが一目で分かる。
「ヒッタイト王家第五王子ザナンザは私である!エジプトの者たちよ、その眼にこの姿しかと焼き付けよ!」
まだ声変わりもしていない声だった。王は笑い、母と思える王妃は心配そうに胸の前に手を組んで息子の一挙一動を見守っている。
「ザナンザ王子、御目に叶い嬉しく存じ上げます」
「うん。それで、そなたらの後ろにあるものは何だ?さっきから気になって仕方がないのだ」
こちらの挨拶など見向きもせずに、末の王子はくりくりとした目を輝かせて俺の隣までやってきて後ろの荷物を指差した。
「あちらに御座います品々は、すべてヒッタイト王家に我がエジプトがご用意させていただいた物に御座います。王子への贈り物も含まれておりますので、どうぞお受け取りください。お気に召せば幸いです」
「やった!」
側近と思われる老人の手を振り払い、少年は荷物の方へ駆けて行った。
「父さま!先に開けていてもよろしいですか?」
仕方がない、と王が頷くと、王子は嬉々とした声を上げて傍の兵や女官を使い、荷物を漁り始めた。
「兄さまも!」
呼ばれた兄のムルシリは父の方に目配せをし、父からの許可を受けて自分の側近と共に弟の方へ悠々とした歩調で向かっていった。
まだ10にも満たない末の王子は好奇心に満ちた眼差しをらんらんとさせて異国の品に視線を躍らせ、ひとつ手に取る度に大きな感嘆の声を上げている。その姿になんと幼いのだろうと思わずにはいられなかった。
想像していたよりずっと子供だ。あの子が弘子のもとに行き、エジプト王となるのか。今まで国を守り支えてきたあの男の後継ぎとして。
後見人としてこの父王がいるにしても、礼儀も知らぬ、本当に何も知らぬ子供が、国のことに巻き込まれる。痛々しく、頼りなく、あまりに哀れな気がしてならなかった。
ちらと見えたラムセスも同じことを思っているか、眉を密かに寄せ、じっと王子を見つめていたが、王子に手伝えと声を掛けられ、ぎこちない笑顔で作業を手伝い始めた。
「すまぬな。まだ幼い故、礼儀というものを分かっておらんのだ」
ヒッタイト王は自らの髭を撫でて苦笑している。
「いえ、あれほど喜んでいただけるならば、私共も運んできた甲斐があるというもの」
まだ8歳ならば、目の前で起きている意味が捉えにくい謁見など退屈なもので、その背後に山積みとなった荷物に好奇心が向くのはごく普通のことだ。
「話を進めよう」
荷物に興奮する王子を背に大まかに話が進んでいき、一通り挨拶が終わると大部分の者たちが命ぜられて去って行った。
第一、第二王妃も去り、その場はエジプトの使者である俺とナクトミン、ラムセス、そしてシュッピルリウマと第三王妃、ヒッタイト王子は長男と後ろにムルシリとザナンザを残して3人だけとなった。代わりに出てきたのは書記官と思わしき人物だ。
「今一度確認したい」
圧迫が少なくなった部屋に王はそう零した。零すと言うよりかは、威圧的であり、念を押しているようでもある。
「我が子を質にするわけにはいかぬ。そちらはそのように考えてはおらぬのだな?」
来るだろうと構えていた質問だった。
「我らには勿論、王妃にもご子息を質にするつもりなど毛頭御座いません。王子を我が国の王とし、新たな王家を築くことが王妃と我ら一同の所存でございます。もしあなた様が王子を返せと仰せになることが御座いますれば、我らはあなた方に王子をお返し致しましょう。王子がどうしてもお帰りになりたいとおっしゃられた場合も同様です。ただし、エジプト王位に関しては返上していただく、という条件が付いてまいりますが」
確かに息子を一人寄越せというのだから、預けられた子は人質と同じ意味を持つ。しかし、こちらはその代わりにエジプトの王位を与えるという提案を持ってきた。人と権利という比べようの無いものも、政治的な視点からしてみればどちらも同じ価値を持つと言えてしまうのだ。
「王妃はエジプトにおける政で、我が意見も聞き入れてご考慮いただけると?」
「いかにも。しかし、それはあくまで我がエジプト王家とあなた方ヒッタイト王家は対等の地位に御座いますことが前提となっております。エジプト側に明らかに不利、もしくはヒッタイトからの侵略の兆しと我らが判断した場合に限り、こちらに拒否権が御座いますこともお忘れになりまするな」
「相分かった。その意向は幾度と交わした書簡の内に了承済みである。確認しておきたかっただけだ。我がヒッタイトはエジプト王妃に信頼を置き、我が子ザナンザをエジプト王妃の婿として送ろう。側近と侍女、それから兵たちも同行させることは構わぬな。エジプトでの我が息子の様子はすべてその側近を通してやり取りをする」
無論ですと頷き、再び王を見据えた。こちらも口頭での条件の確認が必要だ。視界の隅でヒッタイトの書記官とエジプトの書記官が王と俺の会話をそれぞれに記録している。
どんな話が行われていたかの、重要な記録になる。ここでそうだと頷いたことに、以後違うと言わせないための。
「ヒッタイトとの同盟に謀反する者の討伐につきましては、ヒッタイトから兵をお貸し願えましょうか」
「その件も書簡の返事通り、諾の意向である。エジプト王家に何らかの被害が出るようであれば、我らは惜しまず力を貸そう。ザナンザが向かうことで我ら王家はひとつとなるのだ。エジプトで起きたことは、我がヒッタイトに起きたことと考えよう」
「有り難きことに御座います」
再び頭を下げて礼を言うと、王の隣に一人控えていた王妃が進み出た。
「陛下」
王妃は静かに夫を呼んだ。
「エジプト王妃は私にもお返事を下さました。私はまだお会いしたことの無い身でありますが、エジプト王妃に深く信頼を寄せております」
そこまで言うと、王妃は後ろの王子に視線を送り、次に俺を見据えた。俺とあまり年の変らない一番若い王妃は、悲しそうに微笑んでいる。
「あのお返事にどれだけ心が救われたか。まだ王家としても考えの至らぬ我が子を育ててくださると仰ってくださったのです。これから後もザナンザの成長の様子をご報告してくださるとも」
笑みもあるはずなのに、その哀愁だけが声を聴くほどに浮き彫りになる。国のために、王家であるが故に、我が子を手放さなければならない母親なのだと思うと、その表情に胸が痛んだ。
「使者殿、どうか王妃殿に私の感謝の気持ちをお届けください。お会いできないのが残念でなりませぬ」
「承知仕りました」
俺が答えると、再びヒッタイト王が口を開いた。謁見の終わりが見えて来ていた。
「そなたらが急いでいることは百も承知だが、出発は明日の昼すぎとしてもらおう。エジプトへはヒッタイト兵を五十名、侍女、ザナンザの側近を従わせる。それで良いな」
「御意のままに」
今日という日が、王子にとって祖国で過ごす最後の夜になる。すぐに王子を受け取ってこの国を出られるとは最初から思っていない。むしろ王の言い分は当たり前のことだ。
「これより場所を変えて王子を送り出す宴を催す。一泊と言う短い間であるがヒッタイトを満喫するがよい」
「これは凄い!」
背後から駆ける足音と弾けた声が、俺の王への返事をかき消した。
「船だ!エジプトの船だ!」
両手を広げたより少し小さめの船の模型を腕に抱いたザナンザ王子が、俺の前にやってきた。木製の船の中には乗組員の褐色の肌の人形や小さな舵がいくつも乗っており、麻で作られた小さな帆が開く仕組みのある、精巧な作りの模型だ。
王子は興奮に顔を紅潮させている。俺は慌てて王子に向きを変えて頭を下げ直した。
「そなたが私をエジプトへ連れて行ってくれるのだったな!」
「はい。私がエジプトへお連れ申し上げます」
「名は何と言う?」
「良樹と」
言いづらそうに何度か俺の名前を呟くと、やがて覚えたぞ、と笑顔をこちらに向けた。
「ヨシキ、よろしく頼む!私はお前が気に入った!これを届けてくれたエジプトの者は皆好きだ!良き人々だ!私はエジプトに行くことが楽しみでならぬ!」
「勿体なき御言葉」
兄も側近のことも置いて、少年は船を抱えたまま玉座に繋がる階段を駆け上がった。
「母さま!父さま!」
駆け寄ってくる息子を母親は愛おしげに、それでも悲しげに抱き寄せて、我が子が見せて聞かせるものを頷きながら聞いている。手にした木造の船模型を、はしゃいで母に見せる幼い子供の背が、これでもかと悲しく見えた。




