必ず
そこからすべてが、音を立てて動き出したと言っても過言ではなかった。王家に忠誠を誓うと宣言した兵が百五十名選び抜かれ、王子を迎えるための輿を含めたヒッタイトへの贈る品々が広間いっぱいに並べられた。宰相にティティとシトレの保護を頼み込んで、彼女たちを東の宮殿の空いた部屋に匿ってもらいたいと申し出ると、ナルメルはすぐに了承し行動に出てくれた。こちらの行動に気づいたアイがどう動き出すか気が気ではなかったが、二人が無事に西の宮殿から連れ出されたという知らせに、どれだけ安堵したか分からない。
これで俺は、本格的にアイを敵に回したことになる。あの男はどう出るのか。
ヒッタイトのシュッピルリウマが弘子の申し出に諾の返事を寄越してから、アイがまるっきり口を出さなくなったのがまた気がかりでもあった。
使者を決定した弘子に至っては、その日の夜にヒッタイト王へ書状を書き送り、その後二日を寝台の上で政務をこなしてから、ようやく公に出られるくらいにまで回復したと言う。俺はそれでまでに知恵者カネフェルからヒッタイトの情勢や今回の役目を学び、頭に叩き込んだ後、宰相を介して将軍カーメス、隊長ラムセスなどの弘子の周りを預かる重役たちと挨拶を済ませた。あれからというもの、弘子は政務に追われているという話で、宰相がすべてを伝言するという形式を取り、直接会わない日が続いた。
西の宮殿を出て5日が経った日の夜、やっとのことでティティの所に戻る時間を作ることが出来た。
ヒッタイトから承知の返事が到着次第、俺はここを発つことになるだろう。このままではいけない。色々と話さねばならないこともある。説得しなければならないこともある。決して嬉しさばかりではなかった。
一人の兵に案内されながら初めて行く廊下を抜け、宮殿から離れた一角、ナイルの池が広がる廊下を行くと、それなりの大きさを持った扉が現れる。本来なら、王子や王女など王家の者たちが過ごす空間なのだろうが、正統な王家は最早弘子一人、空いている部屋が腐るほどあろうが使う者はいない。入口を守る東の兵に礼をされながら、中に足を踏み入れた。
入るとすぐに、見知った侍女が荷物を未だに整理しており、俺を認めるなり頭を下げてティティたちが奥にいることを教えてくれた。
部屋は繋がれて二つ並び、奥の部屋の横にまた部屋が一つ繋がっている。探していた相手は奥の部屋の寝台に腰を下ろし、腕にシトレを抱いて、シトレが隣でくつろぐ猫にちょっかいを出すのを眺めては、時折声を掛けていた。
数日ぶりに耳にするきゃっきゃっと響く愛らしい声に、ティティの柔らかい愛情のこもった声が緩やかに絡み合う。最初に俺に気づいたシトレが「あっ」と声を上げて、ティティの膝の上で身を捩り、自分で寝台から慎重に降りて俺の方へ駆けてきた。いつもなら寝ているこの時間にこれだけ興奮気味なのは、新しく移った場所が物珍しいからだろう。興奮するとシトレは疲れるまで眠らない。
「よーき!」
俺の足にまとわりついたシトレはただただ喜色を帯びている。
「そろそろ寝ないと駄目だろう」
「いやっ!」
こちらの服をひっぱって足にじゃれついてくるものだから、その子の頭を撫で、幼い目線に合わせてしゃがみ込む。
「こら。嫌じゃない」
そのまま抱き上げようとしたら俺の手をすり抜けて、部屋を駆け回り始めてしまった。まだ危なっかしい足取りで追いかけて来いと言わんばかりに何度もこちらを振り向き振り向き駆けていく。追いつけないことは決してないのだが、生憎そこまでの元気はどうしても湧いてこない。どうしたものかと困り果てていると、寝台に座っていたティティの声がした。
「シトレ、おいで」
声に反応し、シトレはきょとんとした様子で動きを止め、俺から目を離す。シトレの視線の先に浮かない顔の彼女がいた。寝台から降りて、シトレに手を軽く広げている。
「おいでなさい」
強く呼ばれたシトレはティティのもとへと迷わず駆けていき、その腕の中に納まった。抱き上げたシトレを侍女に渡し、隣で先に寝かしつけてほしいと命じると、寝に行くのだと悟ったシトレはむずかって「いや」と繰り返したが、それも虚しく扉の向こうへ連れ行かれてしまった。
二人だけになった部屋に沈黙が降る。目の前にいる相手を振り切って弘子のもとへ走った記憶が甦り、申し訳なさを感じながらも意を決し、彼女に声を掛けた。
「ティティ」
俯いた顔は髪に陰っている。
「ヒッタイトへ、行くことにした」
ようやく俺を見上げた彼女は肩を竦め、視線を反らした。分かっていたというようにじっと目を伏せ、再び俺を瞳に映す。
「……そんな気がしてたわ」
溜息と共に出た声だった。
「あなたの中にはいつだってあの王妃がいるのは、分かってたことだもの」
音無く立ち上がり、俺を見つめる。
「この暮らしを壊したくはない。あなたを、強く引き止めてしまいたい。だって、あなたが王妃のためになりたいのは、それはあなただけの問題で、私やシトレの問題ではないもの……」
言葉に悩んでいるようだった。苦渋の中から選び抜き、それでもどこか違うと思いながら並べているような。
「でも、そう言ってあなたを止めても、今までと同じ暮らしのままではいられない」
「ティティ、」
「分かってるの。今までだってそうやって変わってきたんだから。私は黙って見ているしかないの、いつだってそう」
ちぐはぐに声を乱しながら訴える彼女は、俺に話す隙を与えようとしないかのようだった。こちらを見つめる瞳が、今にも泣き出しそうなほどに潤みを湛えていて、出かけた反論を見失う。
「あなたは私を愛していると言ったわ。その気持ちが嘘だなんて思わない。あなたを信じられる。今でも信じてるわ。私もあなたを愛してる。でもあなたの奥にはいつも王妃がいる。私を抱いている時でさえ。私もそれを承知でここまで来た……けれど、それが私にとってどれだけ辛いことか、あなたに分かる?」
「ティティ、俺は」
「やめて!聞きたくない!」
声を荒げつつあった彼女の手を咄嗟に掴んだが、彼女は勢いよく振り払い、あとから我に返ったように顔を上げて唖然とした表情を作った。それから長く波打つ髪を握るようにして頭を抱え、震える声で「ごめんなさい」と呟いた。
「今日は……今日は、もう何も話さないで。私、耐えられないと思うから」
彼女はそれ以上何も言わずに、俺の横を通り過ぎてシトレのいる部屋に駆けるようにして入って行った。追いかけて扉を開けようとしたところを、入れ違いに出てきた侍女が扉を閉め、俺の行く場を防ぐ。守るように扉の前に立たれ、俺の手は行き場を失った。
「今夜はなりません。どうかお引き取りを」
頑としてこちらの頼みを侍女は受け入れない。侍女に懇願され、たった今の彼女の顔を浮かべると、侍女を押しやって部屋に入ることがひどく躊躇われた。
閉ざされた扉の向こうから、彼女の啜り泣く声が聞こえてくる気がした。
翌日も忙しかった。まだ陽も昇らぬ内に侍女らに手伝ってもらいながら支度をし、朝議に参加した。西の宮殿で情報を遮断され続けていた俺にとって、短い内に学ぶべきことは目が回るほどに積み重なっている。寝る間も削って打ち込むことを告げられ、これから数日はティティとシトレのもとに帰れない日が続くことを覚った。
狭い部屋に閉じ込められ、ようやく一人になり、ヒッタイトに関する書物を片っ端から読み込んでいる最中に、一人の男がパピルスを右手に入ってきた。この前形式的な挨拶だけを交わした、赤毛の隊長ラムセスだ。
「これが今回の経路となる」
開かれたパピルスの内容は地図だった。
「我々は下エジプトを越えて砂漠を渡り、ここを通じてヒッタイトへ入る」
パピルスに記された地図を用いてヒッタイトまでの経路を説明されたが、この時代の地図というのは頼りの無い物だ。アフリカ大陸があまりに小さく、ヒッタイトもエジプトも、他のどこの国も歪な、見たこともない形をしていて、こんな地図は見ずに現代で見た地図を思い浮かべていた方がいいのではと思ってしまう。
「砂漠にあるいくつかのオアシスを休息地点として、なるべくそこで夜を明かす。水がない場所での長居は危険だからだ。我々は一刻をも争う重大な役目を負っているため、王子のいない行きでは可能な限り動く。長くとも3日以内。帰りは王子の御体調を考慮し、5日とする予定だ」
地図が曖昧であっても迷わないのは、行くべき方向が星で判断されるからだ。その知恵を持っているのが軍事を担う身分の高い者たちであり、この男もそうであるという。凄い知恵だ。
俺に淡々と話していた男は、いつのまにか言葉を止め、気に食わなそうにこちらを凝視していた。年齢は俺より下、弘子と同じくらい、おそらく20代中間。ナクトミンよりは上だろうか。赤毛と緑眼からして北方との混血の家系に生まれているのだろう。この時代と現代のエジプト人では、人種そのものが違っているのだと実感せずにはいられない。
「あなたは、王妃の何であるのか」
訝しみながらも気になって仕方がないという顔をしている。
「弘子は何と言っていた?」
「故郷を同じくする者、と」
「もっともな答えだ」
「ならば、未来の民であるのか」
宰相だけでなく、この男を含め、弘子の周囲を囲う者たちは弘子が誰であるかを知っているらしい。
「そうだな。弘子とは昔馴染みだ」
それ以上答えない俺に、相手は眉を吊り上げる。
「あなたの力になるよう、仰せつかっている」
「頼りにしている」
更に眉を上げ、青年は苛立ちを露わにした。
「俺は数年前、亡きファラオにお前を探すように申し付けられた」
「……そうか、あの時の」
言われてみれば、一度面と向かってツタンカーメンと対面した時、医療施設で働いていた俺を探し出したのは、この鮮やかな赤毛を持つ男だった。
俺の正体を知りたいという、挑む顔がそこにある。
「俺はあの時、ファラオと王妃をひどく怒らせる大罪を犯した。一生背負い続けていくような重いものだ」
眉が上がり、隠れていたはずの敵意が剥き出しになったのを、青年の顔に見た。
「その償いにはならないだろうが、弘子の役に立ちたいと思ってここにいる。今回この使命を受けたのもそれが理由だ」
訝しげな表情が少し緩み、深く考え始めるものへと移り変わった。宰相からヒッタイトまで兵を率いる隊長として紹介されたのが、このラムセスという聞き覚えのある名の男だった。ラムセスと言えば、エジプトでツタンカーメンと同等の知名度を持つ大王の名だ。今のシュッピルリウマの名が霞むほどの、エジプトの覇者。
思い出せる記憶ということは、自分がいるこの時代に直接関わることない史実なのだろうが、後にこの男の血筋がエジプトを束ねていくのは明らかだった。
間があって、男が俺を睨んでいることに気付いた。どうしたのかと尋ねると、男は迷いの無い目で俺を見つめて口を開く。
「王妃や宰相殿があなたをお選びになった。俺にはその決定に意見する権利も理由もない……ただ、亡きファラオのご遺言より、俺は王妃を命に代えてでもお守りする覚悟だ。落胆させることや、裏切るような真似は決して許さぬ。苦しめるようなことなど論外だ」
死ぬ前にあの男が色んな人々に残される弘子を頼んでいたという事実は、こちらに来て思い知った。だから弘子に敬意を示すのかと問われれば、それもまた違う。敬意はそれだけで生まれるものではない。作られた身分のために生じるものでもない。弘子の死んだ夫のためにと動く真っ直ぐな決意の下に敬意が生まれ、彼らはその下に集結しているのだ。亡き王の意志を繋いでいきたいと。亡き主君の足跡を守り継いで行こうと。それが彼らの共通の望みであり、それがあの王の名を守り続けていくことに繋がっていく。
「もし、そのような不穏な兆しがあなたの行動に垣間見えたなら、俺はあなたをその場で切り捨てる。それで良いか」
「分かった」
緑の瞳は、いつか見たあの淡褐色の瞳にどこか似ていた。思えば、この宮殿で出会う人々と向かい合った時、不意に淡く死んだ王が浮かび上がってくることがある。あの男は弘子の中だけではなく、これだけ多くの人々の中で今でも生き続けている。だから、こんな俺にもあの存在が仄かに僅かに、でも確かに感じられる。感じるたび、少年王の偉大さを悲しいほどに思い知らされるのだ。
それからラムセスは、大神官が星も読めないでは示しがつかないと言い、星の動きに関して、俺が理解するまで熱心に教えてくれた。
夕方になりかけの頃、カネフェルによって色々と教え込まれているとそこへ、一人の兵がやってきた。何でも、ヒッタイトへ行く兵が俺にしつこく謁見を求めていると言うのだ。それも俺を大神官ではなく、ヨシキと呼んでいるという話だった。
そもそも大神官に一介の兵士が簡単に謁見できるはずがないだろうと唖然としていると、事情を知っているようだったカネフェルに、決して不審な者ではないから会ってはどうだろうかと勧められ、戸惑いながらも了承した。
良樹という珍しい名を知る人間ははっきりいって少ない。宰相やラムセスですら、俺の名をあまり呼んだことがなかった。兵など尚更、身近に侍る者以外一人として俺は知らない。ならば一体誰なのか。
気になって少し待たせてから指定された部屋に行ってみると、そこには兵の服を身に着けた青年が跪く姿勢のまま待っていた。脇に差した剣が重たそうに備わっている。どこからどう見ても兵だ。前に立ち、頭を上げるように命じると、その面持ちに昔の記憶が堰を切ったように溢れた。
「ムト!」
相手も俺を見て、にかっと顔を輝かせた。
「やっぱり、ヨシキだった!」
「お前、本当にムトか!」
見間違うはずがない。顔は若干大人びたが、面影は隠すことができないくらいだ。この時代に落ちて、ナイルの畔に倒れていたところを助けてくれた少年。いつも俺のことを気にかけ、書記官になるのだと夢見ていた、4兄弟の長男。
わっと互いに駆け寄り手を取り合い、肩を叩き合って再会を喜んだ。背は俺より少し低いくらい、あの時で年が13になろうとしていた頃だったから今は15、16だろう。
不審な表情をする警護の兵を下がらせ、部屋に二人だけになった。開けた場所で、中庭の夜風がこちらに流れ込んできている。
「何でムトがここにいるんだ。それもこんな恰好で」
ムトの身なりは明らかにエジプト兵のものだった。書記官になりたいとあれほど熱望していなかったか。
「兵になったんだ。書記官は俺にはちょっと難関過ぎて無理だったからさ」
一緒に建設の仕事に出ていた時のように、ムトは鼻の下をこすって笑っている。
ムトは賢く、勤勉な少年だった。あれだけ必死に勉強していたのに無理だったというのだから、書記官というのはどれほどの難関なのか。
「残念だったな」
「よせよ。そんな顔は母さんだけで十分だ。今は満足してるんだよ、俺。精一杯やったからね。兵の中じゃ頭も切れる方だし、文武両道な兵なんてそういないだろ?」
俺が口を開き欠けると、ムトはもういい、と手を振って言葉を切った。彼にはもう振り返ることが不要な過去でしかないらしい。
「それよりヨシキだ。何で最高神官様になんてなってるの。俺たちがどれだけ心配してたか知らないだろ?あれだけ世話してやったのに、手紙でお別れってどういうことだよ」
宮殿に入った頃、一通だけ送ったあの手紙が、ちゃんと届いていたのだと安心した。
「ごめんな。色々ありすぎてさ」
色々なんてものじゃなかったと一人で苦笑する。言葉にはできないくらい、様々なことがあった。過去を思い返している俺に、ムトは明るく肩を揺らしてそれ以上問うことはしなかった。相変わらず気配りが上手い奴だと思う。
「おばさんもおじさんも元気か?兄弟たちは?」
「みんな元気だよ。ユラも、弟らも」
ちょこまかと逃げ回っては悪戯をしていたあの小さな弟たち。恥ずかしがり屋で挨拶を返してくれるまで時間が掛かったユラ。見違えるくらい、大きくなっているだろう。料理の上手だった母親と、気難しいながらも俺を気遣ってくれた父親。あの人たちもちゃんとお礼を言わなければならなかった。
「それにしてもお前、ヒッタイトに行くつもりなのか」
「自分から志願したんだ。王家の一大事っていうからさ」
「怖くないのか?」
そりゃあ、と言いながらも相手は不安無さ気に答える。
「ヒッタイトは敵国だって教えられてきたからね。少し不安だけど、王家の役に立てる。これほど誉れ高いことは無いよ。現に会えたらいいって思ってたヨシキにこうやって会えたし。大神官だったのは予想外だったけれど」
屈託のない顔で、俺を肘でつついた。
「本当に俺、嬉しいんだ」
立ち話も何だからと、庭に面する方を向いて、二人並んで腰を下ろした。話は予想以上に弾んだ。面白いくらいに互いの口からぽんぽんと話が飛び出す。ムトに至っては楽しく面白く、まるで武勇伝のように語ってくれた。兵として功名を立て、いつかは隊長、いずれは将軍を目指すのだということ。ヒッタイトの王子の護衛が終わったら、嫁を貰うということ。早いんじゃないかと口を挟んだが、これくらいが普通なのだとムトは言う。
「天におわす神々が俺にそう行けと導いてるんだよ。書記官になるより俺にはこっちの方が合ってるって。兵として国の手足になれってね。俺たちは神の思召すままに動いてるだけなんだ」
「……ムトは、神を信じてるんだな」
ぽつりとした声に、ムトはいくらか驚いた様子だったが、やがてけらけらと声をあげて笑い出した。笑われて、神の概念が俺たちでは違いがあるのだと思い出す。
「信じないなんて考えたこともないな」
一通り笑ってから俺を見て、彼は懐かしそうに目を細めた。
「まあ、言われてみればヨシキは俺らといた頃からラーの神像に祈ってなかったっけな。それが異国の習慣なんだろうとは思ってたけど」
聞いてやる、と言われているような眼差しだったので、ぼんやりと考えていたことを尋ねてみることにした。
「ムトは一生懸命に、血も滲む思いで勉強していただろう?それでも兵士にならざるを得なかった。神がいたら、それを叶えてくれたっていいじゃないか。そんな神を信じるのか?」
「馬鹿だなあ。勉学なんてものは神に頼ってどうにかなるものじゃない。頼れるのは自分だけ。そんな都合の良い神様なんている訳ない」
思わず納得していまい、俺も苦笑した。勉強を助けてくれるよう願掛けするのはせいぜい日本くらいだ。
「ヨシキ」
相手は柔らかな声で俺に呼びかける。
「俺たちはナイルの氾濫であったり、天気であったり、どう努力したって叶わないことを神々に祈るんだ。ナイルの水も光をもたらす青い空も、俺たちの命の源だ。なかったら生きて行けない。でも勉強は違う。学舎に通って、それから一生懸命になればいい」
この時代に生きる人々は皆がそうだ。自分の努力でどうにもならないことだけを神に祈る。例えを変えようと、言葉を探した。
「……辛いことも、非情なことも世の中には沢山ある。例えばいくら祈っても小麦の収穫がない時とか。貧しい家は貧しいままだとか。数えきれないくらい、それでこそ星の数くらいだ。それでも神がいて守ってくれると信じられるか。神がいるなら救ってくれるんじゃないのか。存在していて助けてくれないのならば、それなら神とは一体何だ」
少年は困ったように笑んで首を傾げる。
「まあ正直、その時はどうして神は、って思うことはある。ヨシキが言いたいのはそういうことだね」
空を見上げた彼は、しばらく考えるようにしてから口を開いた。
「……何かがあって嬉しいと思うこと、何かを失って悲しいと思うこと、何かに大きく感動すること、幸せだと思えること……それから相手へ感謝すること。誰かを好きだと思えること」
喜び、悲しみ、怒りや憎しみ。感謝、愛情、友情。俺たちの中で複雑に交差する多くの感情。
「ヨシキは、こんな素晴らしい能力を僕らに与えたのは誰だと思う?」
こちらに向けられた顔は清々しい笑みを乗せていた。彼の短い黒髪を、夜風が攫って行く。
「それにさ、この腕や手、足、目、爪……俺たちを作る身体に、自分で作ったものなんて何一つない。誰が作ったのかなって考えたら、ほら」
ムトが自分の手を開いたり閉じたりするのを見て、俺も手を開いてそれを見た。
手を作るもの――皮膚、爪、骨、血管、筋肉。
確かに無から生み出すことは人間の誰一人としてできない。ムトに言われたことが胸にしんみりと落ちてきた。
「父さんはこれを神だと言った。母さんは俺らを神から賜ったのだと言った。俺もそうだと思う。決して人には作れないものが思えばこんなにある。これって凄いことなんだよ」
生まれ来て、こうして今を生きている。
果てしない大宇宙のような時代の流れの、ほんの一瞬、夜空を横切った流星のような、俺たちはきっとそういう存在なのだ。瞬くくらいの短い時間だが、確かにここにこうして息をしている。拳を握って感じた自分の力が、とても不思議な気がした。
二人の間を風が吹き抜けた。気持ちの良い、涼しい夜風だった。
「神はいるよ」
青年は幼い面影を月影に揺らして静かな瞳に俺を映した。
「そうでなければ俺らはここにいない。俺たちが善人か悪人か、神々は見てる。いつでも、どこでもね。それでいて思いのまま俺たちを動かすんだ。神々はこういうものなんだよ。それだけなんだ」
空を仰いだ。果てなく見える夜の空。
神がどういうものなのか、ちっぽけな存在の俺に分かり切るなんてことは、どれだけ努力したとて無理だろう。
ただ、それでいいのかもしれない。生まれ来てここにいる俺やムトにとって、生きていること、それ以外のものはないのだから。
「そうか……そうだな」
頷くと、ムトは立ち上がり、そろそろ帰ると言い出した。ならば見送ろうと立ち上がった俺に、ムトは振り返り様に尋ねてきた。
「ヨシキは幸せ?」
目を閉じて、風を感じながら頷く。
「ああ、幸せだ」
答えると、彼は嬉しそうに笑った。
「なら、良かった」
それからは夜空を見上げて二人で溜息をついた。落胆やら疲労やら、そんなものから出てきたものではなく、自ずと空の美しさに心を打たれて出たものだった。
幾ばくもせず侍女が俺を呼びに来て、名残惜しさを感じながらもムトと別れると、ついさっき到着したヒッタイトからの書簡について知らされた。諾、と記された短いもので、善は急げと言わんばかりに日付は明日の出発でないと間に合わないものが記されていたそうだ。準備はすでに万端整っている。やがて、ラムセスから出発は明日だと、王妃からの言葉が伝えられた。
兵を連れて廊下を歩む。もう一度、ティティと会わなければと思っていた。このまま、未練たらたらのままヒッタイトへ行きたくはない。この決心を、すべてを伝えよう。
彼女は奥の部屋にいた。寝台に座り込み、悩んでいると言うような背中をこちらに向けている。シトレはもういない。今は深夜だ、隣の閉まり切った部屋で眠りについているのだろう。
「ティティ、話したいことがある」
覚悟して発した声が消え入る前に、彼女はゆっくりとした物腰で立ち上がり俺を見た。はにかんだ彼女は眉を下げ、私も、と答えた。彼女らしくない弱々しい表情に胸が痛んだ。
「この前はごめんなさい。あなたのことは承知の上だったのに……王妃に嫉妬して……どこかで私たちを選んでくれると思って、引かない私がいて……ああ、みっともない」
互いに歩み寄り、ティティは近づいた俺の手を取る。口にしようとした言葉が、声になる前にそれで途切れた。
「あなたが言いたいことは分かってる。私は分かってるのよ、誰よりも。だってずっとあなたといたんだから。これは違うなんて言わせない」
弘子よりも誰よりも、今の俺を分かっているのはこの人だ。
出逢った頃。弘子に会うため交渉していた頃。受け入れて匿ってくれていた頃。シトレが生まれた頃。思い返したら、どうしようもなく目の前にいる女が愛おしくなった。
「行って」
彼女は言った。
「行かなきゃ、絶対に後悔する」
彼女が泣きそうに笑う。無理に笑おうとしているのだとすぐに分かった。
「あなたのしみったれた顔を見るのは、もう沢山」
離れかけたその手を掴んだ。
「──俺も、」
掴んだ滑らかな手をそっと握る。自分を支えてくれていたのは、なんて華奢な手だったのだろう。
「俺も、この暮らしを守りたい。壊したくない。だから行くんだ」
今度は、俺が。
「勿論今回は弘子への償いのために決めた。でも弘子のためだけじゃない。お前やシトレが好きだから行く。守りたいから俺はヒッタイトへ行くんだ」
守りたいものがある。愛する人がいる。その想いが俺を強くして、見えない力となる。
「ヒッタイトの王子がファラオとして即位すれば、アイの権力は間違いなく落ちる。俺もこんな名ばかりの役職は解かれるだろう」
すべてが変わっていく。良い方へと。
「今回のことが成功すれば、お前もシトレも自由になれる。自由だぞ。あの青いナイルの畔まで馬に乗って、風を浴びることだってできるんだ」
ティティの頬に触れた。指先から温もりが伝わり、もっと触れていたい衝動が駆け巡る。
「どうしようもなかった俺をここまで導いてくれたのは、お前だ」
彼女の真珠を思わせる瞳が揺れた。揺れて、涙の膜を張る。
「ティティのことが好きだ。愛おしいと思う。俺にはもったいないくらいの人だ。こんな俺を、よく見捨てないで付き添ってくれた。優しい人だ」
逢えて良かった。この人に出逢えていなかったら、この人が手を差し伸べてくれていなかったら、俺は今頃どうなっていただろう。互いに知り合った当初は、こんな関係になるとは思ってもみなかった。
「感謝してもし切れない、それくらいの恩がある……お前はいつも俺を助けてくれた。どん底にいた俺を救ってくれた。だから今回は俺の番だ。俺が恩を返す番なんだ」
「あなた」
耐えきれなくなったように、彼女は俺の胸に額を押し付けた。いくつか呼吸を感じてから、彼女のくぐもった声が聞こえてきた。
「……絶対に帰ってきて」
顔を伏せた彼女は肩を震わせている。何故、彼女がここまで案ずるのかは分からなかった。俺が弘子の下へ行くのを危惧しているのか。ヒッタイトで危険な目に合うことを心配しているのか。あるいは彼女自身、その理由を分かっていないのかもしれない。
「必ず帰ってくる。約束する」
相手の肩を抱いて告げた。すべては上手くいくのだと自分の中の何かが確信している。
彼女の震えは幾らか治まり、ゆっくりと息をつき、頬をこちらの胸にもう一度寄せる。
「明日、行くのね」
「ああ」
彼女はゆっくり顔を上げた。いくらか見つめ合ってから、その人は俺の手を慈しむようにとった。俺の掌に頬を摺り寄せ、感触を噛みしめるように目を閉じ、それから目を開けて俺の頬に手を伸ばし、髪や額、瞼から唇を順良く優しく指先で撫でた。
「……なら私を、その眼に、この手に、焼き付けて」
いつの間に、こんなに愛おしく感じていたのか分からない。
好きだ。愛している。この人を失った世界など、今の俺には考えることができなかった。彼女に持つ感情は、弘子にさえ抱いたことのないものだった。
「何があっても私のもとに帰りたいと思えるように、私をあなたに焼き付けて」
俺の顔を覗く彼女の潤んだ瞳を目にしたら、刺されたように鋭く愛しさが込み上げた。堪らず彼女の身体に腕を回すと、唇を引き結んだ彼女は俺に手を伸ばし、彼女のぬくもりを逃がすまいと力のままに相手を掻き抱く。近づいた彼女の唇に口づけ、もつれ合うようにして麻に倒れ込み、麻の柔らかさの上でどちらからともなく再び唇を重ね合った。




