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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
24章 北への使者
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神官の拝命

 侍医が、いつか王の脚の怪我を治療したのはこの男なのだと興奮気味に進言してくれたおかげで、宰相は俺を取り押さえる兵たちを止め、俺の話に耳を傾けた。

 もしかしたら王妃は王と同じ病なのかもしれない。それを判断できるのはこの男だけなのだと、王妃を診察させることを渋っていた宰相に、侍医が自分の面子を顧みずにそう繰り返し訴えてくれた。

 話を聞いた後の宰相は、しばらく何も口にせず心の内を読もうとするかのように俺を冷たく見据えていたが、それからようやく頷き、こちらへ、と扉へ促した。

 おそらく、俺のすべてを承知の上で通しているのだ。何も問わず、何も責めず。それが逆に緊張と息苦しさを上乗せした。

 歩を進めるほどに足枷でもつけたかのように重くなる。もしかすればこの老人は、こちらの苦しさを察してわざと何も言わずに通しているのかもしれない。面と向かって彼女の怒りを一身に浴びて死ね、と長い背中に言われている気がしてならなかった。


 扉の先はただ広い部屋だった。腕を組み、悩んだ様子の側近や、見たことのあるくせ毛男や赤毛の男が座り込むようにして控えている。まだ少年とも思える姿も、柱の傍に身体を埋めうつらうつらとしていた。明かりの近くに彼らがいたこともあり、その疲労と沈痛を蓄積させた表情が見える。彼らは俺の姿を捉えるなり怪訝そうに目を細めたが、こちらが暗がりで見えないことや、宰相と侍医が連れている男だったということもあって医師と判断されたか、こちらを見る視線はすぐに解かれた。

 その部屋を越えると二つ部屋が続く。どちらも広いが、奥に進むにしたがって扉は頑丈なものになった。侍女たちが行き来し、宰相を見ると王妃の容態を報告してから再び礼をして、他の擦れ違った侍女に持ってきてほしい物を小声で要求する。


 通された部屋の、ほぼ中心に置かれた寝台に弘子は眠っていた。大きめの寝台に埋まる彼女の身体はとても小さく頼りなさ気だ。

 やつれたのではないか。それほど顔色は真っ白で、嫌な汗をかいている。表情と言えば苦しそうで、悲しみに歪んでいるようにも見えた。夫も子供もほとんど同時期に亡くしたのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。

 ナルメルと侍医、それから侍女たちが見守る中、弘子の診察を行った。容態を聞き、目で見て状態を把握する。内出血があるわけでもなく、発熱が繰り返すことはない。マラリアの特徴とも呼べる症状は見当たらない。熱は倒れた時と比べると随分下がったとのことで、俺が診た時はすでに微熱程度までになっていた。

 結果的には疲労だろう。疲労で、そこに運悪く風邪を拗らせたのだと判断すると、座り込んでしまいたいくらいに安堵した。長い歴史を持つエジプト医学で言う、効く薬草を数種類煎じた物を弘子に与えるよう指示し、その様子を眺めていた。

 眠りについている弘子は時折小さく呻き、何か言葉に成りきれないうわ言を漏らす。一人の初老の侍女が弘子を自分の娘のように見つめ、汗をぬぐい、手を握っては祈る姿は印象的だった。


 朝が近くなってからだ。ナルメルが何かに気づいて動き出し、弘子の傍らに立って彼女を覗き込んだ。


「……王妃」


 宰相が呼びかけてから数秒後、手が僅かに動き、瞼が震えながらゆっくりと開くのを離れた所から見守った。


「気が付かれましたか」


 最初は自分の状態が把握できていないようで、虚ろな瞳はゆるゆると動き、それから感覚を確かめるように手が動き、足が動き、弘子は日光を遮るかのような仕草で額に手の甲を乗せる。そして己を覗く宰相の名を、掠れた、聞き取りにくい声で呼んだ。

 侍女たちが駆け寄り、侍医も駆け寄って腰を低くして王妃を覗き込む。「良かった」、「お倒れになられたのでございますよ」、「命が縮む思いで御座いました」、「ああ良かった」、と侍女たちの喜びと安堵の声がもの静かな部屋にぱらぱらと上がる。

 ナルメルは主要な侍女を一人だけ残し、他は退出し扉近くの部屋にいる者らにこれを知らせ、良いと言うまで入らぬように、と命じた。


「何か欲しいものは御座いますか」


 労わるように尋ねるナルメルに、弘子は横に首を振った。まだ目覚めたばかりというのもあってだろう、血の気が無い顔は雪のように白く、眼差しはどこか儚げだった。


「……私、ごめんなさい、今、いつ」


 起き上がろうとした彼女を、宰相と侍女とで制した。


「ご無理をなされてはいけない。お疲れが溜まっていらっしゃったのです」


 弘子も起き上がるほどの力はないようで、促されるまま元の位置に身を横たえ、大きくひとつ息をつく。その隣で侍医が、「疲労で御座いました」と付け足した。


「大切な御身、無下になさってはなりませんよ」


 苦笑とも取れる侍医の言葉に、弘子は同じように苦味を乗せて弱く笑い、ごめんなさいと謝罪した。ナルメルと侍医がいくつか言葉を交わし、それから侍医が俺を案ずるように見やってから弘子に一礼して部屋を出ていく。

 ナルメルは近くの椅子に腰を下ろし、弘子の状態が整うのを待っていた。倒れた時の事、倒れてからの事をゆっくりと間を開けながら話し、弘子からの質問にも丁寧に答えていく。


 薄氷の上に立っているような表情だった。弱々しく、細い一本の糸のような精気を何とか取り持っているような、掴んで引っ張るなどすればすぐにでも壊れてしまいそうなものが今の弘子にはあった。

 離れた所にいるのと、目覚めたばかりで気が回らないということがあってか、広い部屋の壁に沿って突っ立っている俺の姿は弘子の目に入っていない。このままどうしようかとも思ったが、連れ立ってきた宰相が何も言わないのだから、彼に従った方が間違いはないのだろう。ただ、弘子を目の前にして、彼女の声を聞いて、狂おしいほどの何かが胸の内に迫り、じっとしていることが辛かった。


「お話し申し上げなければならぬ由が御座います。今、よろしいですか」


 彼女も宰相の言い方に何かを感じ取ったようだった。じっと老人の顔を見てから唇を引き結んで頷く。


「……大丈夫。話して」


 そこでナルメルは初めて立ち上がり、俺を振り返った。静かで冷たさを感じる眼差しは、尖るものをもつようだ。宰相の眼差しを追った、弘子も視線もゆっくりとこちらを見出した。


「私めの勝手な判断をお許しください。侍医ではなく、あの者に診ることを許しました」


 恐怖に似たものが背筋を舐めていくのを確かに感じながら、俺は足を踏みしめて立っていた。

 意を決し、前へ進む。俺を捉えた弘子の瞳が大きく見開いて揺れた。その眼には俺が大きく映っている。動揺して身体を起こそうとしたが、力が入らなかったらしくそのまま侍女に支えられてまた身を横たえた。口元に手を当て、傍の宰相を見上げ、宰相は彼女の耳元に何かを囁き、彼女は再び俺を視界に入れる。

 弘子の目には薄い憎悪が張り付いているように感じた。怯えと、怒りと憎しみ、そして戸惑いが取り巻いている。その眼に映る自分は、目を背けたくなるほどの自分――あの頃、迷いもせずに弘子の子供を殺めた時の醜い自分の姿なのだ。拳を握りしめ、その瞳の中の自分を見つめる。ここで目を背けてしまったら、もう二度と醜い自分と向かい合うことのできぬまま、終わってしまう気がする。俺は俺を、真正面から受け入れなくてはならない。

 彼女は俺を見て、口を一文字に閉じると、宰相に頷いた。


「……いいわ、私も話さなければいけないと思っていたから」


 でも、と躊躇う侍女に、弘子は大丈夫だと告げる。弘子は手伝ってもらいながら身を起こし、侍女が作った寝具を重ねたものに寄り掛かった。あまり高くもなく、それでも周りが十分見回せるほどの高さになった。


「私めを部屋の隅に置いてください」


 そう進言する宰相に弘子は頷き、案ずる侍女を下がらせた。さっきまで眠っていたとは思えないほどに凛々しい表情で、弘子は寝台に横たわっている。宰相が身を引き、俺と弘子の間にあるものは、灯りによる熱をほんのりと帯びた空気だけになった。


「……座って、良樹」


 さきほどまで宰相が腰かけていた、寝台の横に供えた椅子を示した。軋むような脚を動かし、俺は何も言うことができないまま腰を下ろす。俺に視線を向けた弘子からは、老人に向けていた笑みがすでに消えていた。何の感情も示さないような表情は、こちらを見透かすかのようにある。

 どちらも口を開かず、俺は弘子を見、弘子も俺を見ていた。


 この時、二人に流れた時の長さを互いに感じていた気がする。ここにこうして辿り着き、こうやって面と向かうまでの長くも短くも感じるこの日々を。長かったようであっという間に過ぎ去った5年の確かな日々を。言葉に出来ないものばかりが互いを見つめるうちに溢れる回想を彩っては消えていく。

 顔はほとんど変わっていない。むしろ互いにそのままだ。ただ唯一、雰囲気が違うのだ。

 俺があの時代で知っていた弘子は、あの男に似た雰囲気で自分の身を取り巻いていた。凛とした目元、きりと結んだ薄い唇。美しい、王家の誇りのようなものが彼女にはある。積分の問題に頭を捻って俺に助けを求め、自分の将来に悩んでいた彼女は、遠い向こうへ影を潜めていた。

 今の弘子を見ていると、そんな時代があったとは夢にも思えないものが残る。昔共に歩み、笑い、冗談を言い合った記憶はこれでもかと明白に甦ると言うのに、色鮮やかに思い出せるものが本人を目の前にすると唐突に淡く歪み、色を失う。それほど弘子を取り巻くものは大きく変わっていた。

 彼女にとっても同じなのだろう。弘子も何も言わない中で、同じようなことを俺に感じているのかもしれない。


「……弘子」


 思い切って呼んだ。その名を呼んでいいものかと、呼んでしまってから思った。同時になんて懐かしい響きかと、泣きたくなった。何度も口にしてきた名だが、彼女の名を、彼女に対して呼びかけるのは、いつ以来だったか。人の名を、その人に向けて呼ぶことが、これほどに心を揺さぶるものだったか。これほどに、柔らかく、尊いことだったか。

 唇を噛み、視線を落とす。


「……なんて謝ったらいいのか、俺には分からない」


 分からないのに来てしまった。

 いや、それよりも。


「お前に合わせられる顔なんてどこにもなかったんだ」


 膝に視線を落とした。


「すまなかった」


 深く頭を下げた。こんなもので消える罪だとは思っていない。それでもこれ以上の言葉を紡ぎ出すには語彙力が無かった。言葉に表現できるかさえ分からなかった。俺は今まで後悔だけをしながらここまで来てしまった。

 弘子はしばらく何も言わなかった。頭を下げている間、注がれていた視線がふっと逸れたのを感じる。


「彼の、手術をしてくれたでしょう……?」


 彼女の掠れた細々とした声が耳に流れ、顔を上げた。自分の目に、弘子の横顔を見る。


「獅子狩りで、左足に怪我をして……それを、あなたが治療してくれたと聞いたの。お礼を言わなければと、ずっと思っていた」


 治療はした。目の前に横たわる男に憎悪を抱きながらも弘子のためだと自分を説き伏せ、精一杯の力を注いで臨んだ。


「でも死んだ。あの男は、死んでしまった」


 マラリアに感染し、あんなにも呆気なく。弘子のためになりたいと願って及んだ行為の末、俺は弘子にとって何よりも大事な存在を救ってやれなかった。思いもしないところであの男の命は絶えた。

 彼女は浅く頷いた。


「……死んでほしくなかった。生きていてほしかった。彼の死を受け入れた今でも、繰り返し何度も思うわ」


 言葉のひとつひとつを探しながら紡ぐ相手の目は、遠いどこかを見ているようだった。


「でも、彼はあなたのおかげで命を延ばした。それがたとえ少しだったとしても、彼は生きた……あなたのおかげで」


 記憶にある一瞬一瞬を噛み締めるように彼女は胸の上の手を固く握りしめてから頭を動かし、俺を見た。


「あの小さな時間は……私にとって、かけがえのないものだった」


 鳩尾が苦しくなり、呼吸がぐっと詰まる。


「……ありがとう、良樹」


 俺を映す彼女の目はとても静かだった。これほど近くにいながらも遠く、すぐにでも手を伸ばさなければとこかへ飛んでしまうのではと思うほどに儚い。彼女を見ていたら前触れも無く視界が歪み、ぼやけ、そうして何かが零れた。手の甲に落ちて弾けたそれを見て、初めて己の涙なのだと気付く。次から次へと、止まらない。膝の上に置いた拳の上にそれが落ち続け、喉の奥が大きく震え出した。


「……俺が」


 情けないくらい、震えた声だ。濡れる目頭を片手で抑え込んだ。


「俺がしたかったのは、あんな歪んだものじゃなかった」


 どうしてあんなことをしてしまったのか。あの時の忌わしい決断でさえ、悩み苦しみ、それでも何もかもを覚悟の内に決めたことだった。何度も自分の胸の内に問い掛け、これで良いのだと唱え続けたことだった。なのに溢れるのは後悔ばかりで、どれだけ後悔しても拭えない。

 今思えば見えることが、何故あの時に見えなかったのだろう。


「もっと真っ直ぐ、お前を愛したかった」


 彼女の目は泣いている俺を、ただ見つめている。

 透明な瞳だった。森の奥にある静かな泉のようだと思った。何も浄化されていくわけではない。してしまったことは、もう変えられない。どれだけ過去に戻り、やり直したいと願ったとしても、自分の中のしてしまったことは決して変わることは無い。

 後悔はもう、抱いていくしかないのだ。抱いて、生きていくしか。


 俺と弘子の間にはほんの少しの空間だけが横たわっている。遮るものなど初めからなかった。唯一邪魔をしていたのは無意味で無利益な忌々しいこの感情。感情が無ければ憎しみ合うことも無かったのだろうが、感情が無ければ愛しいと思うことも無かった。


「……弘子、お前が好きだ」


 膝の上に手を握り締めて言った。


「ずっと、好きだった」


 懺悔のような気持ちで告げていた。分かっていてほしいことがある。聞いてくれるだけでいい、己の胸にずっと守ってきた柔らかなもの。時には醜く形を変えたものが、俺にとってどうしようもなく愛しかった。


「……良樹のことは好きよ」


 反らしていた彼女の視線が上がり、俺を見据える。


「だけど、どうしても、あなたのことは許せない」


 弘子は一度目を閉じてから言った。


「憎く思う……あなたがあの子にしたことを思うと、この手で殺してしまいたくなるくらいに、まだ……殺されたあの子と、死んでしまった彼を思うととても、あなたを許すことは出来ない」


 俺は、子供を殺したのだ。何の罪も無かった、小さな尊い存在を。決して許されることはない。


「それでいい」


 それで。


「十分だ」


 泣きながら、口元が少し緩んで俺は頷いた。そう言ってくれただけで、聞いてくれただけで救われた何かがある。

 俺は愛した。失うことに怯え、自分さえ壊してしまうほど深く。そして今も尚、愛している。


「……ありがとう」


 届いたかさえ分からない俺の声に、彼女は弱く笑んだ。笑む、と言えるほどの綻びではなかったが、確かに彼女の表情は柔らかくなった。

 生きるほどに、俺たちは失くしていたのだろう。少しずつ、少しずつ、当たり前に感じていたものを。失ってこその今の自分だと思いながらも、失ったものを懐かしく思わずにはいられなかった。


「……ヒッタイトが、返事をくれたわ。我が国に王子を送ると」


 彼女は唐突に俺に告げた。


「私は、それを受ける。やってくる幼い王子を私がこの手で育てて、彼の意志を継がせて、立派な王にしてみせる」


 その意を決した表情に、弘子が俺に言わんとしていることを垣間見た気がした。


「あの男が死んでも最後までやりぬくのか?未来に戻るという選択肢は、もうないのか」


 疑問を口にすると、ないわ、と彼女は首を振る。


「彼の声が聞こえた時。それが、私の時代を越える条件だった。いつも時間を越える時は、彼が遠くで私を呼ぶ声がした。けれど、彼がいなくなって、私たちが帰る術は絶たれてしまった」


 確かに、弘子は「()()()()()()」と言った後に、不思議とも言える力に導かれて時を越えたのだ。俺自身もそれは目の当たりにしたから分かる。しかし声の主はもうこの世にいない。彼女の言う通り、もう道はどこにもないのかもしれないと思わざるを得なくなる。帰る方法がなくなったというよりも、弘子は自らここに残ることを決意したようにも聞こえた。


「彼が歴史に従って死んだのなら、アンケセナーメンを名乗る私も、歴史通りの人生を歩むはず。良樹、私はこの時代で、悲劇の王妃として死ぬ。ならば、私は自分が最高だと思う悲劇を作り上げたい。胸を張れるくらいの、立派な悲劇を」


 唖然としたものが自分を取り巻く。

 それが、お前の決意なのか。お前は、あの男の想いを継いで、王妃として歴史の表舞台をたった一人で踏み締めるつもりなのか。

 絞り出すように、彼女は続けた。


「彼を愛して、彼を選んで、悲しいことが多かった。辛いことがたくさんあった。この道を選ばなかったら、良樹の言うことを聞いていたなら、私の人生はきっととても平穏なものだったのだと思う……けれど、こうして後悔を少しも感じないのは、愛することができた幸せが、それを埋めてくれていたから。今までにないくらい大切な、掛け替えのない存在を得られたから……今も、それで良かったと思えるから」


 遠くを見る彼女の儚げな瞳には、あの男が見えているのだろうか。腹部あたりに置かれて小さく動いている指も、失った娘たちを撫でようとしているかのように柔らかだった。


「深く愛することは、痛みかもしれない……でもね、彼に触れている時、傍にいる時、何気ない会話をしている時、どんな不安も悲しみも、自然とどこかに遠のいているの。ただただ幸せで、この瞬間が過ぎ去ってほしくないと切に思う。それを感じた時、何事にも代えられない想いがした」


 声は細いながらも、胸に迫るものを孕んでいる。


「生まれて来てくれたあの子も同じ。傍にいるだけで、暖かかった。本当に、本当に、幸せだった」


 弘子の目が潤み、一筋、その白い頬を流れて落ちて行った。


「もう二度と……あんなにも誰かを愛することはないわ」


 分かっていたことだ。ずっと、前から。弘子は生涯、あの男だけを愛し抜く。


「……弘子は、神がいると思うか」


 しばらくの沈黙の後、ふと口にしたものに、彼女の表情は引き締まった。彼女も同じことを感じていたのだと直感する。


「決まったように、偶然としか言えない流れでその通りにすべてが進んでいく……そんなところを目の当たりにしている内に俺は、いると思わないことができなくなった」


 相手は少し悩み、沈黙が流れるのを待ってから口を開いた。


「きっと、いるんだわ。時を越えるなんて、神の成せる業としか思えない。彼は私を呼んで、私はそれに応えた。でも、それだけでは人が時を越えることなんて出来ない。私と彼を繋いだもの──根本的に私たちを動かして繋ぎ止めたのは、神のような存在だったと、今では思ってる。うまく言えないのだけれど」


 俺にとっても、言葉にすることが難しいものだった。歴史を歴史のまま歩ませるため、俺たちはこの時代に送られた。そしてあるべきまま、見えぬ何かが指し示す方向に抗おうとしながらも進められている。互いに声を聞き、互いに呼び合って時代を越えたことでさえ、神のような存在の意志通りに進んだことだったようにも感じてしまう。


「神は、俺たちの運命を知っているのかもしれない。俺たちを動かしているのかもしれない」


 そうなのかもしれない、と彼女はこちらの言葉を受けて呟く。致し方の無いことだと彼女は細い肩を竦め、前を見据えた。


「でも、その神様が私の未来を決めているなら、それでいい。私は私の、その中で最高の決められた未来を歩いてみせる」


 打って変わったような強い眼差しだった。


「生まれ変りや甦りを、人が本当にするかどうかの真実は分からない。でも、私はあると信じてる。私自身が、アンケセナーメンの魂を持つ人間だと思うから」


 弘子がアンケセナーメンの何かを持って生まれてきたということは、こうしている内に直感のようなもので感じ始めていた。数年前までほぼ忘れていた、幼い日の弘子の行動を思い返せば、尚更。ならば、俺自身も誰かの魂を持って、弘子と同じ世に生まれ落ちた人間なのかもしれない。

 人の魂は、何度も何度も巡りに巡り、時代を越え、時間を越え、俺や弘子、メアリーになった。ここに生きるティティもシトレも、死んでしまったあの男も、もしかすれば。

 俺たちだけではない、周りに生きている人々もそれと変わらないのではないか。人は、また誰かの魂を持って別の時代に生れ落ちる。それでもその人間は決して昔の魂の持ち主ではなく、その人間でしかない。アンケセナーメンの魂を持ちながら生まれ、ここに呼び寄せられた弘子が、弘子としてここに生きているように。

 現代では宗教感の間にしか成立しないそれが、とても現実味を帯びて俺たちの前に浮かんでいた。


「……人はきっと、死んだら休んでまた甦るのよ。過去の記憶を失くしてでも、また再び。そうして遠い昔の絆を、無意識に探しているの。これは、神が許した唯一のことなんじゃないかしら」


 記憶を失くしたままに、昔の絆を探し求めて。

 弘子がアンケセナーメンの生まれ変わりならば、3300年の記憶を持った者ということになる。なんと、遥かな、長い年月か。


「あの人は、死ぬ前に私に言ったわ。遠いその先で私を待っていると。どれだけの長い年月だろうが待ち続けていると。だから、それを信じて、あの人に会うために私は生きたい」


 弘子は、俺に語るというよりも自分に言い聞かせるように語っていた。自分に言い聞かせ、奮い立たせ、そうして転んだ所から這って起き上がろうとしているかのようだった。透明だった瞳は、しっかりとした眼差しに代わり、炎を讃えるくらいの強さが生まれている。


「我武者羅にでも、地べたに這い蹲ってでも、生きていきたい。いつかあの人に巡り会った時、懸命に生きたのだと胸を張れるように」


 遥か彼方に繋がるかもしれない絆を永久に祈り続け、あるかさえ分からない一筋の希望を支えに、弘子は敢然と立ち向かっていく。真っ直ぐと、未来を見据える弘子を目の前に、どうしたらいいか分からないほどの切なさが込み上げた。

 未だに憎いのだ。死んでも尚、弘子を揺り動かすあの男がやはり憎かった。憎いという感情がこうして燃え残った炭のように存在しているのは、弘子の中にあの男が生きているからなのだろう。

 夫を失い、我が子を失った傷がお前を強くして、その過去がお前を守っている。

 死なないよう、前を見据えて生きていくよう、今でも弘子を守り支えているのは紛れもないあの男なのだ。俺にはできないことを、死んだ身でありながら、あの男は成し遂げている。

 羨ましかった。俺が憎み恨んだ男が、俺の助けたいと思う弘子の唯一の力になっているのだから。


 天井を見つめている彼女の横顔を見ていた。その瞳に、もういない夫の残像を見ているのかもしれない。そしていつまでもその残像を追い続けるのだろう。いずれまた巡り逢うことを祈り続け、命尽きるその日まで。

 彼女のために、こんな俺が出来ることは、もう一つしかない。


「……俺が行こう」


「え?」


 聞き直した彼女の目を見て、再び己の決意を告げる。


「俺が行こう。ヒッタイトへ」


 弘子が瞬いた。


「まだヒッタイトの使者が決まっていないことは知っていた。それさえ決まればお前はお前の決めた道を歩める。今の最大の問題はこれだ。これさえ通ることができれば」


「何を言っているの」


「俺は大神官だ」


 弘子は心底驚いた様子で、隅に控えていた宰相に視線を飛ばした。宰相はすでにこちらに歩んできており、俺の隣に立ち、弘子に頷いて肯定する。

 アイが大幅な役職の移動を行ってから、目まぐるしく様々なことが起きた。神職でもない、それも西での出来事を弘子が十分に把握していないのも無理はない。それに宰相からも、最高神官の名が良樹ではない架空の名で埋められていたということを俺自身初めて知らされた。

 こうした場面でもアイは俺の存在を隠していたのだ。心底、アイという人間の抜け目なさを思う。


「良樹が、大神官……」


「アイが俺に名ばかりの職を与えた。名ばかりだが、動くことはできる。今まで形式だけに過ぎなかったのは、俺が恐れてそこまでの行動を起こさなかったからだ」


 弘子は戸惑い、唇に指の関節を当ててしばらく黙り込んで考えていた。


「今の俺ならば行ける。必ず王子をヒッタイトからこの国に送り届けよう。行かせてほしい」


 そう言っている間にも、西に残してきた大切な存在が思い浮かんだ。血の繋がりはないが、それ以上のもので繋がっていると思える二人。これを知ったら、ティティはどんな顔をするだろう。それでも、ヒッタイト王子と弘子の婚儀が上手くいけば、その王子がエジプト王となるのならば、アイからあの二人を守ることができるのだ。


「危ない道よ……大臣たちが、あれほどに行くことを拒否している。それほどのことを、あなたは言っているのよ?」


「分かっている」


「ヒッタイトは、長年エジプトと敵対していた帝国。私は、賭けと同じことをしている。どこで何が起こるか分からない」


「承知の上だ。頼む、行かせてくれ」


 弘子は俺を見つめていた。どうしようかと迷いながらも、これしかないと踏ん切りをつけようとしているような。こちらの心情を推し量っているようにも感じられた。


「大神官なんてこの上ない身分だろう」


 普通なら使者として使わないくらい、王家に近い神に仕える身分。ヒッタイトとしても文句は無いはずだ。


「幼い子供がここに来ることも知ってる。子供のお守は得意だ」


 昔のようにはなれないと知りながら、俺は冗談気に笑ってみせる。


「せっかく威張れるところなんだ、くじかないでくれよ」


 これこそが、自分が行くべきものなのだ。俺が待っていた『時』が来たのだ。

 それでも弘子は頷かない。目を伏せ、唇を薄く噛む。


「弘子」


 呼び声に瞼が開き、もう一度現れた瞳は洗われたように美しかった。白い顔に黒に近い濃褐色が光を湛えて映えている。顔を上げた弘子は宰相と互いに目で会話をし、それから俺を視界に納めた。


「北への使者として、本当にあなたを任じても良いのですか」


 先程とは違う、王妃としての言葉が投げかけられた。


「無論」


 椅子から立ち上がり、その場に跪く。


「王妃、宰相殿」


 迷うな。躊躇うな。


「最高神官の名を受けた私が、ヒッタイト王子のお迎えに参りましょう」


 今がこの名を使う時。


「私は、王家のために、この命を懸ける覚悟でここまで来たのです」


 俺は、北への使者となる。




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