証言
* * * * *
夜空が白み始める頃、焦燥を浮き彫りにして、馬を走らせ王家の谷から帰ってきたセテムたちから聞いた話に、私は自分の耳を疑った。
「では、アイは私の目の届かないところで……」
彼らの悔しげに歯を食いしばる様子は、陰った部屋の中でも声色から察することができる。数歩後ろに控えるメジットも動揺を隠せないで口元を手で覆っていた。
「我々が気づいていれば、このようなことには」
以前王家の谷に連れて行ってもらった時、彼が自分の墓は現代のKV57に当たる場所だと言っていた。だが、アイが職人たちに王墓はKV62に当たる位置だと言い包め、私たちの気づかぬところで作業を続けさせていたのだと言う。
葬儀埋葬に関しては、彼が生前に頼んでいたという東の宮殿に使える神官に一切を任せており、気づくも気づかないもない。死んでしまえばそれを専門とする人々の管轄となり、生の世にいる私たちが関わることは固く禁じられているからだ。神官でもないセテムやカーメスに気付けという方が無理な話なのだ。
「もしかして、アイは私たちが関われないことを知っていて今回のことに及んだと……」
言い澱み、額に拳を当てて頭痛を抑えながら、受けた報告を整理する。
現代の記憶においての墓と彼の言う墓の場所が違っていたのは、こういうことだったのだ。死後に、その場所が変更された。王に相応しい広々とした造りの空間から、王のものとは思えないほどに狭いつくりの空間へ。これはされた側の王にとって、屈辱の他の何物でもない。
しかし、アイ一人でできるものかと言われたら、簡単には首を縦に振ることはできないものでもあった。神官には、最高神官という長はいても、多神教であるが故に仕える神は人それぞれで違っている。西の領域で行われるものは、王が神になるための最も重要な儀式が行われる場所であるのだから、別々の神に仕える神官たち全員が納得し、一丸となって行わなければならない。だというのに、それが可能だったということは。
「まさか、アイ殿はファラオがお決めになられていた場所を自分の墓地となさる気では?それに、神官たち全員が納得したと?」
眉間に深い皺を刻んだメジットが可能性を口にすると、セテムはいよいよ顔を大きく歪めた。
「我々が信用を置きすぎていたのです!神官でさえ最早信頼を置ける存在ではなくなっていたなど!」
自分の力の至らなさを嘆き、眼の前に伏すセテムは床に拳を叩きつけた。夜明けに映える炎の色が、淡くその人の頬を照らし出す。
あまり考えないようにしていたことが、彼らの顔を見ているうちに、すとんと胸に落ちてきた。神官は私に抗う姿勢を示し、私と敵対するアイに味方したのだ。
「……神官たちは」
カーメスが跪く姿勢を崩さず、口を開いた。
「我が国の神官たちは、ヒッタイトへ書簡をお送りになったあなた様に反感を抱いているのでしょう」
私は冷や汗が背筋に流れるのを感じながら頷いた。
神官はエジプトの神々を護るために存在している。その生き姿である王家に、他国の王子を迎え、国の頂点に立たせようとしているのだから、書簡を発した私に対して反発が生まれるのは無理からぬことだった。覚悟もしていたはずだった。だが、いざそれがこういう形で現れたとなると、自分の無力さと怒り、違った王墓に埋葬されてしまっただろう彼に対しての申し訳なさが溢れて止まらなくなる。私だけに不満を振りかければいいものを、どうして死んでしまった彼にまで及ばなくてはならないのか。
「埋葬し直すことはできないのか。これはあまりに惨い」
ずっと押し黙っていたラムセスが落ち着かない様子で言った。炎の光を受けた緑眼が、橙を織り交ぜて光っている。これに首を横に振ったのが知識人であるカネフェルだった。
「葬儀から埋葬までの儀には細かく決まりがある。埋葬されるはずだった場所が壁画も何もできていないとなれば、完成までに少なくとも1年の歳月は必要であろう。そうなると、埋葬までの期限が過ぎ、ファラオ御身の御霊も無事に黄泉を越えられぬことになるやもしれぬ。それは決してあってはならぬことだ」
埋葬されてしまった彼を、墓を作り直させてから埋葬し直すことはできない。言い表せない悔しさがどっと吹き荒れて、上着のかかった肩を擦った。
私がもっと気を付けていたのなら。力があったなら、あんな狭い場所に彼を眠らせることはなかっただろうに。
「おそらく、我々の手の届かぬところで、アイは動いているものかと思われます」
カネフェルの張りつめた声に顔を上げた。現代であった通り、彼の墓は思惑によって、未来にあるべき場所になってしまった。これはすでに起こってしまったことで、もう変えられない。これからそれ以上のことがないよう、努めていくしか私たちには道がない。あの老人は、神官たちを利用してまで、王という地位を諦めてはいないのだ。
腕を擦り、カネフェルたちに口を開いた。
「夫が祭祀を任せていた東神殿の長に話を聞かなくては」
彼が信頼を寄せていた神官が一人いる。もともと葬儀も埋葬もこの神官を中心にして行うことになっていたのだから、まずはこの神官から話を聞くことが先決に思われた。
話をして、この人になら夫の葬儀のすべてを任せられると判断した半月前の記憶を繰り返しながら、何故こんなことになったのかという疑問と共に頭に浮いては沈んだ。私の判断が誤っていたのか。
「宰相殿は事態を把握してからいち早く動かれておいでです。神官に関しましてはすでに呼び出しが掛かっておりますので、間もなくでしょう」
カーメスがそう言ったのと、部屋に杖の音が響いたのはほぼ同時だった。
「王妃」
顔を向けると、ナルメルが表情を曇らせて速足で私の方へと歩んできている。
「ナルメル、どうしたの」
「深刻な事態が発覚いたしました」
宰相の後ろに見覚えのない若い神官が怯えた様子で着いていて、私を上目使いで認めてから深々と頭を下げた。賢そうな面持ちで、それでも引き起こっている事態の深刻さへの焦りが読める。少なくとも、葬儀の前に会った、人の良さそうな老人の姿はどこにもなかった。
「宰相殿、東の長は」
ラムセスが眉を潜めて尋ねると、宰相は私に向かって髭の下の唇を動かした。
「東の長の行方が、半月前、王妃との話し合いの後に知れなくなっていると」
この部屋にいた人々が目を見張った。葬儀を一任されていた神官の行方が知れないということは、一体どういうことなのか。
ナルメルは若い神官を私の方へ進め、説明せよと促した。
「この者は東の長の唯一の弟子、神官の見習いにて、我々に今回のことを申告してくれた者で御座います」
まだ少年の面影を残す、若い神官は素早く私の前に膝をついた。
「我らを守る、高潔かつ神聖であらさられる王妃の御前にこのような姿でお目にかかることを、どうかお許しください。私は故あり、師の行方が知れずになってから、我が命を狙わんとする者たちがいることを察して今まで身を隠しておりました」
東宮殿を司っていた神官の唯一の弟子であるという神官は、今までのことについて順を追って、低めた声で語り始めた。
己の師が王の葬儀埋葬の一切を担うことになり、王妃との話し合いの後に宮殿を出たという知らせを最後にいなくなったこと。自分たちは師の行方知れずの由を王宮に知らせ、捜索を始めようとしたが、王宮に知らせる前に自分に味方をしてくれていた東の神官たちからの連絡が途絶え始めたこと。彼らは殺されたのだと他の神官から知らせがきて、それが最後に宮殿内との情報のやり取りが途切れてしまったこと。何者の仕業かを勘付き始めた東の神官たちは、身を隠す側と『そちら側』に従う者が出てきたこと。
「恥ずかしながら私は未熟な見習いで御座います。抗議を入れるために宮殿に立ち入ることを許されるほどの身分では御座いませんでした。それでもどうにか方法はないかと宮殿の周りや、連絡が途切れた東の神官たちに内情を問う手紙だけでも送ろうと探っているうちに、私も襲われたのです」
青年は右の肩口に流れる麻を手でまくり上げ、傷痕を見せた。今は痛々しい青紫色に染まった内出血の跡と、細く長い切り傷が白く浮き彫りになっているが、この傷を負った当時であったなら、軽いとは言えない怪我だったはずだ。
青年はそれを擦るように手で押さえてから、目を細める。
「私は運が良かったのです。襲ってきた複数の兵から逃れることができました」
「兵だったのか」
怪訝そうな顔をしたラムセスが尋ねると、青年は「間違いありません」と答えた。真摯な瞳と、まっすぐと貫く声は、嘘など微塵も感じさせない。
「長い黒衣を頭から被っておりましたが、あれは我が国の兵士です」
ラムセスはカーメスと目を見合わせ、眉間の皺を深く刻む。
「黒衣など被らせた覚えはない。何故、そのような……」
軍事の頂点にいるとも言える二人の考えていることは私にも分かった。兵の一部がカーメスとラムセスではない、別の者の指示で動いているということだ。軍事が彼らの手から溢れ出している可能性が出てきてしまったことになる。
「そして私は縋る思いで都にて幼少期に学んでいた学舎に助けを乞いました。私を神官として推薦してくださった恩師がそこにおりましたから」
民の子から神官になるのは、本当に稀な話であり、度胆を抜くくらいに優秀でなければありえない。それくらいの子であったならば、学舎に匿ってくれるほど可愛がってくれる恩師がいるのも頷ける。
「恩師は私を匿ってくださいました。そこで傷を癒し、周囲の様子を伺っている内に妙な噂を聞いたのです。『王のご遺体に関して西の者たちが動いている』と」
自分の身体から血の気がさっと引くのを感じた。学舎は死の家に近いところに建てられ、学舎から職人を輩出している。死の家の出来事が恩師を通してこの青年の耳に入ってもおかしくはない。ただ、その噂が信じがたいものだった。
「西の宮殿にお住まいで、西神殿の長、そして神官の中の長でもあったアイ殿が、ファラオの口開きの儀を行ったというのです」
「そんな、まさか」
思わず声を上げた。
口開きの儀──魂は口から出て口から戻るために、その魂の通り道を作る作業がミイラを作った直後に行われる。あまりに重要な儀式であるから、ほとんどが神官か次期王となる男性によって行われるのが通例だった。神官ではなくなったアイがそれを行ったとなれば、それは自分が次の王だと宣言したことを意味している。
「私も信じられない思いで御座いました。行方が知れなくなった我が師が行うはずのものを平然と行っていたというのです。ならば師がどうなったのか、その身に何が起こったのか、少しでも情報が耳に入ってもよさそうなもの……それも、今回王のご遺体が収められた王墓の壁には、アイ殿が口開きの儀をしている様子が描かれたとも聞きました」
青年の告発に、ラムセスやメジットが信じられないというような声を上げた。
先王墓の壁画に王でも神でもない自分を描くということは、王権を継ぐ者を表している。アイにそんな許しを出したつもりはない。
愕然とした様子で人々も沈黙し、耳を傾けている。
「師の死がはっきりして広まっていたなら、アイ殿は代理で行ったのだと頷けます。しかし、どこかがおかしいのです。壁画や師の行方と言い、東の神官たちと連絡が取れなくなったことと言い……すべてが前々から決まっていたように滞りなく進んでいる。私は居ても立ってもいられなくなり、学舎の恩師に頼み、恩師の名を借りてナルメル宰相に正式な書簡をお送りいたしました」
そこからは大体話が見えた。
宰相であるナルメルが大量の書簡を受けて一つ一つに返事をするには、それなりの時間がかかる。国外からのものや重役からのものがあると自ずとそれが優先されるから、学舎からの書簡にナルメルが目を通すにはかなりの時間を要したはずだった。ようやく手紙に目を通すことがあっても、王家に関する内容では、真実を確かめてからではないとナルメルも動かない。ナルメルは慎重に判断し、今回のことを受けて宮殿に入ることを許されないこの青年を呼び出したのだ。
誠実そうなこの青年は、手紙を出してからは返事が遅れることは承知の上で、いつ呼び出されてもいいように準備を整えていたのだろう。だから今ここにいて、用意していたように要点をまとめてすべてを話してくれた。
それよりも。
「……どうして、そんな大事なことが私に知らされなかったの」
王の遺体や葬儀埋葬に関わることは勿論、葬儀埋葬を一任していた神官が失踪を遂げたなどという重要なことは、この青年からでなくとも、すぐさま私に知らされるべきものだ。
「口封じをされていたのでしょう。これらを進言せんとしたものは殺され、脅され、味方に加わったと。逆にそうでなれば、神官たちが一同にして墓の位置の変更など頷きますまい」
ナルメルは抑揚のない声で、静かに告げる。見たことのない苦渋に満ちた表情が浮かんでいた。
「私と話した後に神官がいなくなったのなら、葬儀の時にいたあの神官はアイだったというの?」
アメンの下、香の煙に覆われた神官の後姿を思い出す。そのあたりの煙が濃く、後姿だけというのもあって、アイだとは思わなかった。
宰相は「おそらく」と頷いた。
「我らは知らず知らずのうちに外側から小さく囲われていたのです。情報が来ぬように、知ることの無いように。そして相手は脅迫まがいのことをして味方を多くしていった。もしかすれば、今は誰もアイに逆らう気力を持っておらぬのかもしれぬ」
アイなのだ。私から、私に仕える人々から、情報を断ち切っていたのは。ここまで独断で進めていたのは。
自分たちはあの老人を見くびっていたのだろうか。ヒッタイトに手紙を送り、交渉を持ち込んだぐらいで怯む人間ではなかった。神官たちがあちらに味方したというのなら、こちらの味方というは驚くくらい小さくなっているかもしれないということだ。私たちが考えている以上に、王宮の内情は傾き始めている。
あの気味の悪い二つの眼が脳裏に浮かび、どこからかこちらを見て薄ら笑いを浮かべているように感じた。
「……一日でも早く、ヒッタイトと公約を結ばねば手遅れになりましょう」
ナルメルの言葉に重くなった頭を縦に振った。
頼みの綱はヒッタイト王の決断。それでも、ヒッタイト王との書簡のやり取りはすでに5回目に達しているものの、未だ芳しい返事は得られていない。警戒は薄れているようでも、ヒッタイト王子にエジプト王位を譲るといきなり書いた私の真意をどうにか読み取ろうと、互いの腹の底を勘繰りあっている状態だった。今回も出来るだけ誠意を見せて書いた文面を送り、次の返事を待っているが、良い返事を貰えるとは思えない。この件に関しては、まだまだ時間を要する。
顔を上げて、私を囲む人々に告げた。
「早急にアイを再び問責に掛けます。何があろうと私の前に呼び出しなさい」
持てる力の限り、あの男を止めなければ。




