青き花を
* * * * *
上も下も青に染められた世界に座り込んで静かに目を閉じ、柔らかに降り注ぐ陽に浴びていたら、心が果てなく和いで、身体が今までになく軽くなり、そのまま浮き上がって空へ飛んで行けそうだと思える瞬間がある。
しばらく慌ただしく動いていたせいか、こんな穏やかな気持ちになったのは随分久しぶりだった。絶えなく同じ間隔で進んでは消えていくはずの時間は、今の私にとって、掴みとれるほどにゆったり流れているように思える。
そっと目を開けると、睫毛が震えた。
摘んだヤグルマの花束が私の膝のすぐ傍に、さっきまで編んでいた掌ほどの小さな花輪は編みかけのまま私の膝の上に乗って、そよ風に群青の花弁を揺らしていた。
顔の前に垂れた髪を耳に掛け、二つ目の花輪を完成させてしまおうと指先を動かす。
花の香りを感じながら、何度も想う。私はここが好きだ。空も大地も青に染まって、そこに黄金の光が射しこむ、青い花に満ちたこの場所が。
自分が蒼穹にぽつりと浮いているような、それでどこまでも、どこまでも、自由に行ける気がする。飛んで行ったら、会いたい人のもとへ連れて行ってくれやしないだろうか。
大きく息を吸い込み、肺が心地良い冷たさに満ちた時、はるか遠くに続く空の薄青を見つめていたら、隣に誰かがいるように風が吹き抜けて行った。気配を感じた方に頭を動かしたが、振り返った先には誰もいない。遠くの宮殿への入口付近に侍女と兵たちが控えているだけで、私の隣で高らかに笑い、青さの上に寝転がって欠伸をしながら私に柔らかい視線を向けていた人は見当たらない。
薄れることなく胸に押し寄せた切なさに、私は目を伏せた。
私を包んでくれるような甘い香りの中で目を閉じれば色鮮やかに思い出される。
あの人に出逢った、間もない頃。どうしようもなく惹かれあった日々。何もかも捨て、ここに居ればいいと言って私の腕を掴んだ力の強さ。悩みながらも命果てるまで添い遂げることを誓い合い、掛け替えのないものたちに別れを告げて、彼の隣に自分の居場所を見出した。あの夜の熱い肌の重みも、匂いも、満ち足りた想いも。そうしてこの身に宿ってくれた、二つの奇跡のような命も。愛した人と添い遂げ、我が子と共に生きていきたいと願ったあの頃も。
なんて懐かしい。胸が痛くなるほどに、愛おしい。
目蓋を開けて、遠ざかりながらも確かに胸に残る思い出を胸に巡らせる。
すべてが失われ、もう決して叶うことはなくとも、これが私の喉から手が出るほどに欲しい未来だった。今も変わらないただ一つの望み。
何もかも留め置くことは出来なかったけれど、それでも記憶から消すことのできない確かな幸せがあった。幸せな未来を夢見た、すべてを感じられた一瞬があった。その記憶が、今の私の支えになり、生きろと背中を押してくれている。
「王妃様」
傍に侍女が寄る気配がする。
そろそろ、なのだろう。ふっと大きく風を吸い込み、隣に置かれた花束を膝の上に置く。
「恐れながら、お時間です」
「……ええ」
出来上がった二つの花輪を自分の腕に腕輪と共に引っかけて、傍に置いたままの青い花束を胸に抱いて立ち上がった。振り向いた先のネチェルとメジット、他の侍女たちが私を見つめている。時が来たのだと、じんわりと沁み渡る悲しさがその色を濃くしていった。
「神殿へ、行きましょう」
三つの棺が並ぶ、神殿へ。彼らを送り出すために。
一斉に頭を垂れる人々の間に開けられた道を踏みしめた。視界いっぱいに広がる青の中を進んでいく。
花が満ちたこの空間も、いつかは彼のように淡く消えてしまうのだろうか。砂漠に成り果て、その下に埋もれてしまう日が来るのだろうか。宮殿は瓦礫の残骸ばかりとなり、草木どころか花も咲かない砂漠の地となった、私が生まれた時代のテーベ。忘れ去られていくものや変わりゆくものは、いつの時代にも必ずや存在し、数えきれないほどにあるのだろう。
たとえそうであっても、この風景を私は忘れまい。愛した人が私にくれた、この青さを。ここで語り合った言葉を。私に向けてくれた優しい表情を。これで最後だと、ヤグルマの花の香りを胸に焼き付けた。
「お待ちしておりました」
歩を進め、永遠に続くようだった青い世界が終わり、ぽっかりと空いた宮殿への入口に至ると、その暗がりの中にナルメルとセテムがいた。正装を身に纏った二人はどこか寂しそうに湛えた微笑で、こちらに深く礼をし、私の後ろについて歩き出す。進む先にカーメス、ラムセスが先の二人と同じようにして待っていて、ナルメルたちの後ろに付き、それからまた先にイパとカネフェルがいて、その後ろに付いた。そうして王妃を頂きとした、王を弔う参列者の沈黙の行列が出来上がった。
廊下の柱が風に鳴いている。ぼう、ぼう、と低く、足元に響く音で鳴く。風と柱の音しかしない空間に、柱の間から静かな白い陽が射して、辺りの風景を柔らかく浮かび上がらせている。乱れず廊下の両端に並ぶ槍を右手に持つ兵たちは、壁に張り付いているように見え、身に着けた麻の白さが陽光に反射して眩しかった。
誰も言葉を交わさない、とても静かな空気が漂う。太陽が煌々と、私を、私の後ろに付く人々を、照らしていく。
長いこと歩いていた白い柱の廊下が終わりを告げ、その先に下降する階段が続き、繋がった長い渡り廊下の終端に神殿が堂々たる様子で青空にそびえ立っている。渡り廊下の両側は満ちたナイルになっていて、ハスの花が溢れんばかりにその花弁を舞わせて白い雲を連想させた。
自分の一歩一歩を、確かに感じながら階段を降り、ハスの間を、青い花を抱きながら進んでいく。ナイルの上に浮かび歩いているのだと思えるくらいに身体の感覚がふっと無くなり、雲を思わせる白い花の合間に見える自分は、空に浮いているようでもあった。
やがて、いつもより立派な鎧を付けた四人の兵が守る神殿の入口の前まで私はやってきた。こちらを見るなり、四人の兵は片手に握る槍を降ろし、綺麗に揃って跪く。敬意を表す彼らに守られた神殿の入口の向こうは、一寸の光も見えず、どこまで続いているのか目で確認することができない。
この暗さの中に、彼とあの子たちがいる。唾を飲み込み、覚悟を決める。
さあ、行こう。気高く。美しく。
すっと顔を上げて唇を引き結び、その敷居を跨いだ。
眩しいほどに明るい外から、突然薄暗い空間に入ったせいで、初めは何も見えなかった神殿内の様子は、目が慣れ始めて徐々に明らかになる。
厳かに焚かれた炎が人々の後ろに左右四つずつ、計八つあり、アメンの祭壇に捧げられた線香の類が、広々とした空間に薄く煙を落としていた。ずらりと並んだ神官が炎の前で左右の空間を埋め尽くすように立っており、燃えて揺れる灯りで、通路に落とされた影も同じように揺らめく。巨大な神像へ一直線に伸びた中央の道に面して立つ神官たちは、それぞれ仕えるアメン神以外の神々の面を被っていた。イシス、ネフティス、ハピ、タウレト、セベク、バステト、プタハ、マアト、セクメト。彼の遺体が死の家に運ばれていた時もそうだったが、面を上から被るだけで、その姿の生き物が実在していると感じさせるのはどうしてだろう。
動くことなく一点を見据える神々が身体を向ける中央を貫く道の真ん中、神殿の祭壇前に3つの棺を、私はこの目に確認した。
最も手前に、一番大きい棺がある。彼なのだと思った。死の家に連れて行かれる寸前に見た、木箱に入れられて蓋をされたのが最後に見た彼の姿。あの黄金の仮面を被った、ミイラになったその人があの中にいるのだと、信じられない心地でしばらく見つめ、青い花を抱き直して前へと進んだ。
後ろについていた人々は左右に分かれて流れ、私の後ろに一直線に並び、胸に手を当てた姿で王の遺体とアメン神に敬意を示す。
薄暗い神殿の中に、棺の黄金が控えめにその高貴さを放っている。黄金を、これほど悲しい色だと感じたことは無い。強さや権力の象徴となる、神の色。輝かしく神々しいこの色は、囲む人々の想いや雰囲気によって、沢山の色に変わるものなのかもしれない。
決められた場所に立って葬儀を迎えるはずだった私は、見えない手に引かれるように棺の前に歩み、顔の傍の床に膝を付けて屈みこんだ。実際に手元にぬくもりのようなものを感じ、私はそれを何となく彼の手だと思った。
私の隣に来いと言わんばかりの労わるような、慈しむような、感じた温もりの先に、誰もいないと分かっていながら、自分が愛した微笑が待っているようにも。
二月ぶりの彼の遺体との再会だった。黄金に包まれた、ただ一点を見つめる棺に掛かれた顔は、うっすらと彼の面影を持っている。
──この中に。
棺の頬に触れ、彼の顔を思い浮かべた。案ずるなと、私の頬を撫でながら言った時のほんのりとした温かみを乗せた笑み。
「……開けてもらってもいいかしら」
告げると、返事もなくやってきた神官たちがゆっくりと棺の蓋を持ち上げた。
最初の棺とは違った一回り小さい棺が、黒に近い紫の亜麻布に覆われた姿で現れ、それと同時に香油の香りが辺りに充満する。
彼の香りだ。私が毎日のように彼の身体に塗ってあげた、懐かしいあの香りだった。
棺の蓋をもう二つ持ち上げさえすれば、黄金のマスクを被った彼の遺体が現れるはずだが、人々は私にここまでだと首を横に振った。理由は、この先はもう生きている者たちの領分ではなく、生きる者たちが触れることは許されないとのことだった。私に触れた褐色の肌も、この手でよく撫でていた焦げ茶の固めの髪も、これだけ近くにいながらもう目にすることはできない。数人の神官によって私のすぐ隣に下ろされた最初の人型館の蓋は、光の無い空間で、はめられた黒石の瞳を輝かせ、私を越えた先の天井を映している。
彼の遺体の方へ向き直り、私はゆっくりと手を伸ばして亜麻布の上から彼の頬を撫でるように棺に触れていた。
「どうぞ、これらをお供えくださいませ」
しずしずとやってきた女性神官が、棺の中に備える埋葬品の一式をお盆に似た台に並べて差し出した。
細かい装飾が成された黄金の儀式用短剣、今の私も身に着けている黄金に赤青緑の石をはめ込んだ8列の襟飾り、そして王の胸を守るように大きく翼を広げたハヤブサの首飾り。
棺の中に細々とした埋葬品を入れていくのは、死の世界に旅立つ夫のために、私ができる最後の仕事だった。
抱いていた花を一先ず別の女性神官に預け、差し出された物ひとつひとつを手にとり、遺体を飾っていく。
濃い紫の上に輝く装飾品たちは遠い時間の果てでも変わりなく輝き続けるだろう。私という人間が死んでも、その先の未来を、年月を越えて存在し続けるこれらは、絶対に掴むことのできない瞬間瞬間で消えていく時間を留めることができる特別なものなのだ。そう考えると、歴史という流れが、宇宙のように突如として目の前に大きく広がり、自分がとてつもなく小さな存在に感じられた。
ネチェルとメジットも、腕に様々な花を抱いて前に進み出て、私と遺体に一礼すると、棺を花たちで飾り始める。手伝ってもらいながらすべてを飾り終え、私は最後に自分の手首に掛けていた小さな花輪をそっと外して、遺体の方へ視線を移した。
「あなたに、王家の花を」
本来、王家の花はナイルに浮かぶ白いハスだが、私にとっての王家の花であるこの青き花を、ちょうど額の部分、上下エジプトの象徴に亜麻布の上から引っかけた。
私からあなたへの、最後の贈り物。
あなたが私にくれた庭で、つい最近開花したばかりの初々しいヤグルマの花。
何千年も続くだろう、この愛の証として。そして誓いの証として、あなたに。
想いも決意も、私のすべてを持って、あなたと共に砂漠に眠る。
待ってくれていると言った3300年の間、この花を時折見つめ、私を、私の愛を、私たちの大切な掛け替えのない思い出たちを、あなたの綺麗な淡褐色に巡らせてくれたらいい。
棺から私が手を離すと、棺の蓋は渇いた音を立てて閉じられた。
手首に残るもう一つの花輪を、私はその棺の額部分の象徴に、先程と同じように引っかけて、棺の胸元に持ってきていた花束を添えた。
葬儀は多くの神官の謳声によって動き出す。代表する神官の背中だけが、遠くのアメン像の足元で動き、立ち込める煙に霞んで消えていく。
王が無事太陽の神となること。神となり、我が国の繁栄を手助けしてくれること。王が死の世界での苦難を軽々乗り越え、いつか復活を遂げられるようにと。
誰が筆頭となることなく、神官たちの歌で進行し、満ち潮が引くように静かに終わって行った。
「セテム、カーメス、あとは頼みます」
私がそう言った時、外には砂漠から流れてきた涼しい風に包まれ、砂をいくつか運んできていた。遺体の保護と埋葬の報告を任せた側近と将軍の顔は夜の闇に沈み、寂しげな表情は暗さによって憂いを深く刻んでいるように見える。
「あなた様に代わり、我らの主が埋葬される様子をこの目でしかと見届けて参ります」
二人が跪くのを見やりながら、長く続く階段下の黒い列を眺めていた。列を成す人々は精々50名と言ったところだろうか。死の岸とも呼ばれる西の谷へは、埋葬に私やナルメルは一緒に行くことが出来ない。同行できるのは、遺体と細々とした埋葬品を運ぶ人々、それを守る人々、そして祈る神に仕え、生死を司ることを許された人々のみ。王家遺族はそれに含まれてはいなかった。
ナイルを隔たりとし、生者は東、死者は西と、住む世界が目に見えてはっきりと区切られているのが、この文明の特徴とも言える習わしで、どちらも互いの世界への介入は埋葬の特例時以外許されない。
二人の背後にある黄金に彩られた埋葬品の数々は暗い麻布で覆われ、闇夜に溶け込んでしまっている。物だけでなく、それを運ぶ彼らも全身を包むくらいの黒い上着を羽織って行列を織り成し、セテムやカーメスのように身分が高めの役人が乗る馬でさえ、黒い毛並のものが選ばれているようだった。
けれども、一点。暗い列に青がある。私が女性神官の一人に王墓内に供えてほしいと頼んだ、ヤグルマの花束だった。ナイルに似たその色は、暗闇でもそこにだけ鮮やかさがぽつりと灯っている。棺が墓に納められた時、誰かがもう一度私の代わりに置いてくれるだろう。
「他の埋葬品に関しては前日までに運ばせておりますので、今回はそれほどの量はありませぬ。終わりましたら、すぐにでも戻り、ご報告に伺いましょう」
「……夫と娘たちを、どうかお願いします」
一礼をしたカーメスは馬に乗り込み、片手を真上に掲げ、そしてゆっくりと西へと倒し、進むべき方角を示した。それを合図として列は歩き出し、隣に並ぶナルメル、私の守護のために残るラムセス、イパ、侍女や兵たちが一斉に膝をつき、頭を垂れる。
明らかに見えていた厳かな行列は無言で西へと進んでいき、列と背景の境が見分けられなくなるくらいに遠ざかっていく。
あの人は、行ってしまうのだ。寂しい色をした谷の、太陽が当たらぬ砂漠の下に。そこで気が遠くなるような年月を眠り続ける。
――あなた。
未だ私の喉の奥が絞るようにして呼び続ける、唯一無二の存在たちを思うと、どうしようもなく胸が苦しくなった。咳上がってくるものがあって、闇へと消えていく光景に泣き叫びたくなる。堰を切ったように、彼と出会った頃から彼の命が絶えるまでの日々の記憶が止めどなく溢れて今の孤独さが浮き彫りになり、払えない感情の雪崩に溺れそうになる。
それでもと、腹部の前で握った手にしかと力を込め、今にも走り出しそうな足を叱咤して、その場に踏み止まった。
私には王の妻として、生きている残された者として、彼の最期をこの目で見届ける使命がある。悲しみの衝動で手が震えても、涙で前が見えなくなっても、見送る目を背けることだけはしてはならない。
惹かれ合った日々があった。愛し合った日々があった。
唇を噛んで、外へと繋がる門へ、黒い蛇のように前進する沈黙の影を見守り続ける。
懸命に生きた人。
この大きな、果ての無い大河のような歴史の渦の中で、あなたの命はとても儚くて小さいものなのだろう。それでも、私の胸に残る掛け替えのない一瞬の輝きとなった、この上なく愛おしいものであることに変わりは無い。
どんなに時が経とうとも、私はあなたの輝きを心に留め続けよう。あなたと過ごした美しい記憶はせめてもの慰め。身体が朽ちようとも、いつまでもあなたは私の中に生きている。
見ていて欲しい。
私はあなたのいない世界で、守りたいものを胸に真っ直ぐ歩いて行く。
あなたを信じ、敬愛する人々と共にここで戦い、何度転んでも立ち上がっては死にもの狂いで生きていく。
確かなものなど何ひとつ無いと分かっていても、決して叶うことない望みなのだと分かっていても、祈り、願い、進んでいくことを、私は止められないまま生を全うしていくのだろう。
それでいい。これが私の生き様なのだから。
宮殿の門が開かれる音が、辺りの空気を唸らせた。遠くに響く重たい音を耳に、自分の手を握り締める。
太陽と砂漠の国のもと、眠り続ける誇り高き人に、私は心から祈りを捧げよう。
ただひとつ。これだけを、ひたすらに。
──愛しい君よ、悠久なる人となれ。




