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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
21章 残照
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落陽

 昏睡状態が続いていた。

 3日前の発熱から、彼は目を覚ましていない。声を掛けても揺さぶっても反応を示さずに、神官たちの祈りが聞こえてくるこの部屋で眠り続けている。

 辛うじて呼吸だけはあり、昼夜問わず寝台の傍に控えている侍医が定期的に呼吸の有無を確認している。私はその反対側で、死んだように眠る彼の手を握り続け、その顔を見つめていた。


 部屋へ届く陽光の色や角度の変化で時間が経っていることが何となく感じられるものの、それ以外の部屋の様子は一向に変わらない。

 部屋の壁に沿い座り込むセテムやラムセスは、昼は黙り込んだまま、夜は俯いてこくりこくりと船を漕いでは首を振り、座り直すことを繰り返している。一番幼いイパは兄の傍に座り込んで何かを問い掛けることをしながらも、膝を抱えて夜は眠り、カーメスに至っては時折部屋を出て行く以外はセテムとラムセスの傍にいて、目を伏せて自分の足元を見据えたまま動かなかった。ナルメルも同じ。侍女のネチェルとメジットは祈るようにして私の後ろに控えていた。


 交わされる声は耳に入ってこない。飛び交う声どころか、放たれる声も無かった。声があっても耳を通り抜けて頭に入ってこなかっただけなのか、私には分からない。遠ざかり、近づいては止まる人の足音ばかりが、やけに大きく聞こえていたことはおぼろげに覚えている。

 その中でひとつ確かなのは、あまりに静かなこの部屋の暗がりが、タシェリが弱っていき、もう駄目なのではと誰もが感じ始めた時の空気に良く似ていることだった。成す術も無く、諦めに打ちひしがれながらも傍にいることをやめられずに立ち竦む。怖いくらい長く感じる一秒がいくつも積み重なり、そうして再び夜がこの部屋を満たそうとしている。


 そして3度目の夜がやってこようとしていた。

 暗がりが広がり始めた頃、誰かが部屋の隅に赤々とした炎を灯し始め、それぞれの影は一方向へと長く伸びて揺れ出した。彼の身体の上で僅かに揺れる自分の影を見ていたら、とても奇妙なものを見ている気分になった。

 ここに皆が集まって何を覚悟しているのか、分からない訳ではない。言葉にはしないものの、誰もがここに横たわる人の命はこのまま消えていくのだろうとどこかで知っている。ラムセスの頭を抱える仕草も、セテムの虚ろな表情も、侍女の青ざめた悲しみに沈む面持ちの意味も、否応なく伝わってくる。同じことを私も感じているから、伝わったのかもしれない。

 今手を握るこの人の呼吸は、か細く、今にも消えてしまいそうだ。それも時間が経過していくにつれて弱まり、呼びかけても反応は無い。やつれた頬。腎不全などの影響か、色が変色してしまった肌。恐れていた時はもう目前まで来ているのだと悟らざるを得なかった。

 だから最期だけは見届けようと、皆がここに集っている。何か奇跡が起こりはしないかと願っている。


 眠る人の髪を撫でて、そのまま頬に触れた。このまま目を覚まさずに終えてしまうのだろうか。もう私を見てくれないのだろうか。そんなことを考えながらいつまでということなく彼を見守り続けて、それ相応の人数がこの部屋にはいるはずなのに、自分と彼だけになったような錯覚を覚えた。暗い場所にぽつんと浮いているような感覚がある。不思議だった。


 夜が深まるにつれ、頭をめぐる思考は答えが見つからないものへと変わってしまい、はっきりしなくなることが多くなった。十分な睡眠を取っていないのが祟って、うまく思考が働かない。眠気を感じると同時に漠然とした恐怖に襲われた。神にも縋る思いで寝台に横たわる人の腕に頬を寄せる。恐くて怖くて、力の限り目を閉じた。

 眠気はあるのに、目を閉じても眠ることはない。最近ではいつものことだった。いっそ眠れない方が良い。眠るより、彼の呼吸を体温を感じていたかった。

 眠りにつけないまま、徐に身体を起こした時、今まで私が縋っていたその人の目がうっすらと開いているのを見た。懐かしいとさえ感じる淡褐色が覗き、虚ろに天井を映している。


「──あなた?」


 咄嗟に繋いだままだった彼の手を握り直し、身を乗り出た。

 彼が、起きている。そのまま終わりかもしれないと言われていたその人が。


「ファラオ」


 後ろに控えていた侍医とナルメルが寝台に歩み寄り、私と同じく彼を覗く。


「お目覚めになられましたか」


 虚ろに天井を映していた淡褐色の瞳が、ゆっくりとこちらに動く。もう一度、自分が彼の瞳に映ったことに、泣き出しそうになった。


「あなた、私よ、弘子よ」


 髪を撫でて唇を寄せ、笑って言う。

 すると、「弘子」と。声は出ないものの、時間を掛けて彼は唇を動かした。込み上げるものがあって、私は思わずもう一度彼の頬を包むように撫で、「そうよ」と答える。


「みんないるの。ナルメルも侍医も、ラムセスもセテムも、みんな」


 虚ろだった表情を心なしか嬉しそうに綻ばせ、彼は小さく息を落とす。ここから何かが変わり出すのではと、微かな期待を抱いてしまう。堪らず彼の肩に縋ると、彼はわずかに笑って見せ、何度も「あなた」と繰り返してしがみ付く私の耳元で私の名を呼んだ。声に成りきれない声で、掠れた息であっても、胸が震えて止まらなかった。

 しばらくして彼が離れるように促し、何か問いたげに私に向かって唇を動かす。声がか細く、うまく聞こえない。透かさず私は声を拾おうと彼の口元に耳を寄せた。


「……時、は」


 時間。僅かな光の変化で時刻は大方推測できる。身を起こし、部屋の出口の方へ視線を送ると、真っ暗だった世界がほんのり明るさを帯び始めていた。


「……朝」


 闇が引き始めている。


「朝が、来たんだわ」


 夜明けだった。まだ陽が地平線から顔を出していない、そんな時間帯。

 いつの間に夜は明け始めていたのだろう。周りのナルメルたちも驚いたように遠くの床に射し始めた薄い光を眺めていた。


「弘子」


 呼ばれて遠くから彼へと視線を戻す。その人は何かを求めるように重いはずの腕を伸ばし、私の手を取った。


「……ラーが、見たい」


 ラー。太陽。奥まったこの部屋からでは見えない。


「外へ、行きたい」


 行かなければ、と何かが私に鬩ぎ立てる。彼のために。迷いは無い。懇願する瞳に私は強く頷き返した。





 部屋を出て、歩いた。後ろに皆を従えながらラムセスと私で両側からほとんど力を出せない彼を支え、太陽を求めて歩いた。

 東へ。太陽が雄々しく立ち昇る、すべてが始まったとされる東へ。足も手もだらりと垂らしたまま、呼吸も儘なら無い彼を、肩に腕を回して陽光が射す先へ薄暗い廊下を進む。

 肩に背負う彼は、前に支えた時よりもずっと軽かった。軽くて、以前に感じた重さが感じられなくて、涙が溢れた。その涙が零れないように瞬きを堪える。大きく見開いて、「渇け」と胸で唱えた。ナルメルを先導に歩いている内に民に顔を出すために作られたバルコニーの造りになった所へと辿り着く。


「……風だ」


 ずっと下を向いていた彼の頭が上がり、彼の声が私の鼓膜を打った。言われた瞬間、涼やかな風が私の横を通り過ぎ、後ろへと流れていく。私や彼の髪を揺らす。


「砂漠の、ナイルの、私の国の風だ」


 風。以前は駆ける馬上で感じたはずの、しなやかに吹き抜けるもの。

 どことなく嬉しそうな笑みを浮かべた彼は泣きそうに少しだけ表情を歪めた。

 その場所に、タシェリをお披露目した時や、ナイルの氾濫を祝った時に私たちに降りかかってきた大きな歓声はない。ずらりと並んでいた兵も、神官たちもいない。殺風景な白い石が広々と続き、あたりの薄暗さに染まっている。

 ここならば何の遮りもなく、陽の出を見ることが出来ると判断して、何もないただ広い空間の中心に私たちは座り込んだ。一人では上体を起こしていられない彼を、私が後ろから抱き込む形で支える。


「……弘子の腕は、居心地がいい」


 体勢が落ち着いた時、彼が冗談気味にそう言った。少年のような無邪気な顔をするものだから、彼を包む腕に自然と力を込められる。


「あなたの笑顔が好き……大好き」


 彼の顔がくしゃりとするのを見届けてから二人で寄り添い合って夜明けを仰いだ。


 淡く白み始めた砂漠の国の空。まだ姿を現さないラーを天にある薄い雲が受け取り、空に光の波を作る。涙が出てしまうほどに、それは壮大で気高く、美しかった。

 音も途絶えたこの世界。涼しく優しさのある朝の風が私の髪を攫って行く。届く光は、こんなにも優しさに溢れている。


「我が、太陽と砂漠の国よ」


 ゆっくりと上がらない手を動かし、その掌を掲げた。自然と、太陽と、語り合うかのように。指の間から零れる朝陽が例えにならないほどに心を揺さぶる。吸い込んだ空気が胸を満たす。世界はこれほどまでに美しい。


「……目が、あまり見えぬのだ」


 視神経が侵され始めているのだとすぐに知った。


「太陽が、少しずつ昇り始めているの」


 見えないなら、私がその眼の代わりになる。


「神々しくて、美しくて、眩しくて……」


 目の前に広がるものを代弁できるくらいの言葉が私にあるだろうか。もともと言葉なんて無いのかもしれない。これだけ壮大で果てしない世界を、私は知らない。

 たとえそうでも、伝えなければ。私があなたの目なのだから。


「黄金の雪が……降っているみたいなの」


 光の尾がまるで雪がもたらす静けさに似ていた。雪が止み、晴れ渡った空が頭上を覆っているあの清々しく、広大な静けさ。


「しんしんと白く透明な光が私たちに向かって降って、世界を照らしてる」


 沈んでは昇りゆく。人々は夜の間、太陽は地面を渡り歩いているのだと言った。朝になるとまた地平線から姿を現すのだと。


「これが命の復活なのね」


 この光景にエジプト人は復活の夢を見た。

 本当に、人は甦ることが出来るだろうか。これほどまで心が震えるほどに美しく。それが出来たなら、どれだけ素晴らしいか。


「夜がどんどん逃げていくのよ。静かに、音無く、去っていって……」


 私の説明に、彼は掠れた声で小さく頷く。私に寄せた頬は笑み、薄く開いた変わらない淡褐色は朝陽に光っていた。

 声が掠れる。消えそうになる。世界の美しさと彼の体温に涙が溢れる。

 ああ、駄目だ、話さなければ。伝えなければ。


「それで、影が小さくなって、光が……」


 教えてあげなければ。この人が愛した太陽が、どれほど美しく輝いているか。

 そう思って口を動かすのに、声帯は動いてくれない。ぎしぎしと震えて、詰まり、出てくるのは言葉に成りきれない単語ばかり。

 彼の頭をただ抱き締めていた。腕に掛かる髪の固さ。その人の頷く優しい声。肌に伝わる重みと温もり。

 彼のすべてを感じながら精一杯の説明を途切れそうな声で続けた。途切れないよう声を張り、風の心地よさだけでも感じられるよう、彼を支える腕に力を込める。

 昇り掛けの欠けた太陽。陽光と、その対にある影で染まる薄く広がる雲。暗い青と、静かな白が混ざり合う大空。

 一羽の名の知れない鳥が大きな翼を広げて雲間を貫いた。羽が光を反射し、こちらに薄く影を落とす。


 ああ。


「鳥が……翔けてる」


 この世界に飛び込んで行けたなら。この広い空に、何かもかもを忘れて、この人と一緒に行けたなら。


「どこまでも……どこまでも、太陽に向かって飛んで行くの」


 あんなにも、自由に。


「何を見て飛んでいくのかしら」


 太陽を。空を。大地を。


「ねえ、あなた……」


 彼の応答はやがて小さくなっていく。


「私たちも、行けるのかしら……」


 腕の中に消えていく。



 そして。

 呼吸の音が、聞こえなくなった。












 静けさに満ちていた。その中に溶けてしまうのではないかと思えるくらいに。溶けて、私も消え去ってしまうのではないかと思えるくらいに。

 朝陽は白く辺りに満ちて、視界を光らせ、曇らせる。

 私は、彼の足が流れる白い石の床を見ていた。彼の頭を抱いて、腕にかかる髪を頬に感じながら、見ていた。見ていたというよりかは、ただ瞳に映していただけなのかもしれない。


 時間も分からない。呼吸の音が聞こえなくなってから、時は止まっている。私の中で時間などというものは、消滅しているに等しかった。


「──王妃」


 後ろから放たれた、消え入りそうな声。それもまた、自分たちと共に消えていくのではと思う。耳に入っているのに、頭に入って来ない。単語ひとつを理解するのに、瞬きひとつに、相当の時間が掛かる。彼を抱いたまま、自分が石像になったのではと思うほどだった。


 動けない。動きたくない。

 崩れてしまいそう。

 何が。

 私が。彼が。皆が。世界が。


 私の背に気配が近づき、誰かが私の腕の中のその人を覗く。そして悲愴に満ちた感嘆を上げ、後ろへ数歩下がる音が続いた。


「……ファラオ、我が君」


「我らの王、神なる御方よ」


 膝をついた彼らが、床に額をつけるように頭を垂れた。後に杖が床を突く音がひとつ落ちてきて、髭を撫でるその人が目を伏せて太陽を眺め、両手をかざす。


「ラーの光の下、神となられたか」


 穏やかで悲しいくらいのナルメルの声に、後ろにいる二人の侍女の啜り泣く声が後を追う。



『──王は、死んだら神となるのだ』


『──故に私は神である』



 そんな自信に満ちたあなたの声を聞いたのは、いつだっただろう。


 呼吸の音が耳元に聞こえなくなってから初めて、腕を動かした。生まれて初めて動かしたかのように、関節が軋む音がした。

 胸に抱いた愛しい人の顔を見る。頬に触れても動かない睫毛。微笑を浮かべた口元、私の胸に垂れた首元。白い光に包まれたその人の表情は、あまりにも綺麗だった。消えてしまいそうなその人を再び胸に抱く。居心地が良いと言って笑ってくれた、この腕に強く抱く。

 顔を上げて昇り切った太陽をこの目に映すと、視界が陽光に滲んだ。ぼやけてその白い光でいっぱいになって、何も見えなくなる。視界から物という物を覆い隠し、奪い去った。


 何が起こっているのか、何が起こったのか、もう分かっている。

 沈んでしまった。終わってしまった。何もかも。


「……あなた」


 愛しい人。

 呼んでも返事は無い。その唇は動かない。病の苦しみから解き放たれた顔は穏やかさに満ちている。

 あなたが最後に求めたものは、眩しかった。眩しさに思わず目が細められる。


「太陽が、昇ったわ」


 あなたが愛した太陽が。雄々しく、神々しく、今日も砂漠の国を照らしている。

 埋めるように温もりを残すその身体を抱き、彼の額に自分の頬を擦り付ける。頬を撫で、その髪を撫で、抱き締めた。


「昇ったのよ」


 目を閉じたら、瞼の裏に刻み付けられた太陽の丸い残像が見える。そのまま彼の額に自分の頬を当てて唇を噛み締めた。

 柔らかな風が人々の間をすり抜けていく。白い光が優しく世界を満たしてしまう。

 喧騒も、何の音も無い。二つあった呼吸と鼓動が、私だけになった。


 代わりに沈んでしまった、私の太陽。


 静かな。静かな。

 私の落陽だった。





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