Plasmodium falciparum
* * * * *
この小さな部屋に大の大人が三人。狭いと言うほどではないものの、一人でいる時には感じられなかった圧迫感が今は確かに存在した。
そして、必死な様子で俺に跪く一人の男がそこにいる。夜に近い今は部屋も暗く、空間の隅で燃える炎が床に伏せる男の影を伸ばして揺らしている。俺は男を見やって深いため息をついてから、その後ろで壁に寄り掛かり、にやにやと面白げにこちらを見物している青年をねめつけた。
「いやだなあ。そんなに睨まないでよ」
ナクトミンは肩を揺らして笑う。その背から出ている影もまた長い。別の黒い生き物が彼の後ろに張り付いて蠢いているようだった。
「侍医がどうしてもってせがむから、断り切れなかったんだ」
「困る、迷惑だ」
短く言ってのけると、跪く男がはっと顔を上げ、絶望的な表情を浮かべたと思えばもう一度額を床につけた。
「俺の立場を分かってて、どうして連れて来た」
「泣きそうになるくらい懇願してる人を追い返すほど、僕は薄情じゃなかったってことだ」
どう見てもこの状況を楽しんでいるとしか思えない。こいつはただ単に俺が困惑する所を見たかっただけなのだ。
「いかれてる」
俺が表から存在を消している身だということを知りながら、侍医という王家に献身する人間をひょこひょことここまで連れてくるとは、どういった神経をしているのか。いつもの事ながら、こちらが拍子抜けするようなことをやってのけてくる。
「随分な言われ様だなあ」
ナクトミンはけらけらと何の悪びれも無く陽気な声をまき散らした。
「慈悲深いって言って欲しいくらいだよ。侍医がヨシキに会わせてくれってこんなに必死なんだ。連れて来ない方が外道ってもんじゃない?」
外道も何も。
ちらと足元に膝を付いている男を見て、当惑した。どうしたものかと分からなくなる。
何回目かのため息をついて、こちらに叩頭する男を真っ直ぐ見下ろした。
王家に対する医療行為を唯一任された、エジプトの国の中での名医とされる侍医。この国の医師にとって、この名を越える呼び名は無い。王家に仕える、医師としての最高権力を持つ男は、「どうか」と悲痛に訴え、今度は視線を上げてこちらを見た。
「あなたの知恵を、お借りしたい!」
真摯な目だ。声が鼓膜を打ち、胸が締め付けられる。額に刻まれた数本の皺が、前に見た時よりも一際深くなっているように感じた。
「あなたにしか治せぬ!」
話は大方見えていた。俺が医学に精通していることを知るこの男が俺のもとに来たと言うことは、求めているのも医学に関すること。そして何より王の為だ。
王が倒れ、予定していた式典を中止とした話はティティを通じ、身を潜めて過ごす俺の耳にまで届いていた。倒れたとなれば、その原因は疲労からか、免疫力低下の所為で変な病気にでも罹ったかのどちらかだろう。平伏し話を聞いてほしいと懇願するこの男は、その治療法を俺に求めて来たのだ。
「我々だけではどうしようも出来ぬ。だが、あなたは我々の知らぬものを持っている。治せるかもしれぬのだ!故に、どうか」
確かに、俺は医学の点でこの男に勝ると自負している。この時代において。この国において。いや、この時代における全世界で今、俺に勝る医学の知識を持つ者はいない。
だからと言って、また救えと言うのか。これ以上関わりたくないと願っていた。このまま関わることなく過ごしていくことを望んでいた。
組んだ腕を握り締める。誰のためのものかを思えば、「聞こう」の言葉は簡単に出ない。助けようという意志の前に出てくる、それよりも強い悍ましいものが俺にはある。
黙り込んだ。
「──侍医、」
ずっとこちらの様子を窺っていたナクトミンが、場違いに思えるくらいの明るい声色で老人を呼んだ。
「もう言いたいこと全部言っちゃいなよ。何だかんだ言って、ヨシキはファラオのことが気になってるんだ」
「ナクトミン」
再びねめつけると、彼は先程とは全く色の異なる挑戦的な目で見返してくる。
「だってそうじゃないか。ヨシキは嫌々言っていながら、あの男が気になって仕方ないんだ。死ぬにしても生きるにしても。だから悩んでるんでしょ」
反論はできなかった。
「本音は、聞きたい。そうでしょ?」
そうだ。生きようが死のうが、俺はあの男のこれからが気になって仕方がない。あの人間に対して抱くものは、知らないと一言で済ませられるものではないのだ。
「ほら、侍医、話しちゃいなよ」
壁にもたれていた身体を起こし、ナクトミンが促す。
「ヨシキが、聞くってさ」
頭を上げた侍医はナクトミンからこちらへと視線を移し、黙りこんで目を伏せる俺に向かって膝に両手を置き、戸惑い気味にぽつりぽつりと話し出した。
「……ファラオは死の病に伏せていらっしゃると我々は考えている」
この国における「死の病」と呼ばれる疾患は、有効な治療法が無いウイルス感染症を表し、数種類存在している。シトレの実母が患い、彼女を死に至らしめた黄熱病もその一つだ。
「最初は、十日ほど前のこと。高いとは言えぬが、ファラオは御熱をお召しになられた」
微熱程度の熱が出て、解熱の際には多めの発汗があったこと。しかし、当初は体力低下のために起きた症状だと医師たちはあまり気に留めなかったこと。それが繰り返され、不審に思い始め、内出血が治まらないことや、字が書けないほどの痙攣が手に引き起こされていること。悪寒、嘔吐、悪心等の風邪に似た症状。
「昨夜、非常に高い熱をお出しになり、召しあがったものをすべて嘔吐なさり、お倒れになられ一時昏睡と言ってもいい状態に陥り、その際の様子というのは……」
侍医は漏らすまいと言うように、一つ一つをありのままにゆっくりと並べて話し、無情に聞き流すつもりだった俺は話が進むにつれ、気づけば話に合わせて真剣に頭を働かせていた。
医学パピルスでどれが死の病と称されているのかは読んだことがある。それが現代のどの疾患に当たるかも大体頭に入っている。それらと目の前で侍医が連ねる症状を重ね合わせて浮かび上がるのは。
「──マラリア」
一通り聞いて初めに行き着いた病名がこれだった。
マラリア──メスのハマダラカが刺咬することで生じる原虫性疾患。
「ファラオの身を脅かしているのは『まらりあ』と申すのか」
「何それ。どんな病気?」
侍医とナクトミンからの視線を受けて、簡単に説明を加えようと口を開いた。
「虫に刺されることで発症する原虫性疾患だ。血液組織が破壊されるために免疫力低下と血液凝固不全を引き起こす」
「虫なんかで病気になるものなの」
「虫は案外危険性が高い。地域によって異なるが、甘く見てると酷い目に遭う」
手でつぶせる、悪く言えば人間が生死を左右できるような小さい存在であるたかが虫が、こんな厄介な病をもたらすのだと言ってもこの二人が分かるはずもなく、首を傾げるのを取り敢えず見送った。
マラリアは21世紀においてアフリカ、中東、アジア、オセアニア、中南米に広く分布するが、古代から中世にかけてはヨーロッパも巻き込むほど猛威を振るった疾患だった。種類は熱帯熱マラリア、卵形マラリア、三日熱マラリア、四日熱マラリアに分類され、場所によって感染する種が異なってくる点が特徴だと言える。アフリカではサハラ以南が最も感染率が高く、北にあるエジプトはそこまでではないとは言え、感染率は他の大陸より高いのは事実だ。
「で、そのまらりあって言うので間違いないの?」
「おそらく」
従来、静脈から採取した血液で、血液塗抹ギムザ染色標本の顕微鏡検査で判断する病気だったが、症状を聞く限りマラリアの判断は的外れではない。そうなると、どのマラリアに感染したかが問題になってくる。マラリアには、滅多に重症化せず至って軽症ものと、次から次へと機能を失っていく危険性の高い重症のものがあり、軽症は三日熱、四日熱、卵形、重症は熱帯熱に分けられる。
「発熱と解熱に周期性は?」
思慮を巡らす俺をじっと黙って見つめていた侍医に尋ねる。マラリアも種類によって特徴が大きく異なり、侍医の見てきた状況からそれを読み取る必要があった。
「いや、見られない。二日置き、一日と半置き……定まっていなかった」
「熱が上がり切るまでは短時間だった?」
そうだと頷かれる。
「急に高熱を出され、うなされることもあり、相当ひどく……日数が立つほど悪化しているようで」
「一先ず、今現れている症状をすべて出来るだけ細かく挙げてほしい」
症状を事細かに端的に述べられるのを聞きながら、その症状が当てはまる病名を頭に羅列していき、除外していった。症状の特徴、発熱時間、解熱までの様子と解熱してから次の発熱までの様子。残るのは、ひとつだけ。
「……Plasmodium falciparum」
国際統計分類B50。原虫Plasmodium falciparumの寄生により感染するfalciparum malaria──熱帯熱マラリア。
行き着いたものに、思わず生唾を飲み込んだ。鳥肌がざわりと立つ。
1、2時間の短時間に40℃以上にまで体温が上昇する発熱期。それを経て異常な熱感と口渇、顔面紅潮、結膜充血、関節痛、悪心嘔吐、意識障害、うわごとが4、5時間続く灼熱期の後、発汗期となり大量の発汗とともに数時間で解熱し、次の無熱期または発熱間期となる。熱帯熱マラリア以外で見られる周期性は原虫が赤血球内で発育する時間が関係しており、たとえば三日熱マラリアでは48時間ごとに原虫が血中に出るときに赤血球を破壊するために、それと同時に発熱が起こる。だが、赤血球内での発育の同調性が良くない熱帯熱マラリアに周期性はない。これが熱帯熱マラリアの決定的な特徴。
話の中であの男の症状は重症・熱帯熱マラリアに分類されることになる。
肩の力が静かに抜けていった。
ああ、やはり。歴史は。
「ヨシキ、自分の世界に入ってないで説明してよ。どういうものなの、その何とかって」
ナクトミンの苛立ちを含んだ声が聞こえる。
「虫が体内に卵を産み付けて、その原虫が赤血球内に寄生、発育する……マラリアの中で最も危険性が高いものだ」
短時間での重症化、死亡に至る。1週間から1か月の潜伏を経て、風邪に似た症状で発症するのが通例。怪我した時期が丁度1カ月前付近だと考えれば、刺された時期はその免疫低下時。移入された原虫の数で多少異なるが、症状の現れ方も現状も発病時期もジャストと言っていい。確信があった。
運が悪かったと言って片づけていいものなのだろうか。自分の中に驚愕と絶望のようなものが唐突に入り交ざる。同時に途方に暮れた。
「……何か処方しているのか」
目の奥が痛み、眉間に手を遣りながら、俺を見やる侍医に尋ねた。
「今はこれで凌いでおられるが、効果は全く見られぬ」
侍医が自分の懐から取り出し、俺の掌に渡したのは何かを乾燥させたような小さな茶色の粒だった。植物の一部だと思えるそれを鼻に近づけると、独特の柑橘系の香りが鼻先を包んだ。コリアンダーだ。古代医療の中でウイルス関係の病に対して多く用いられた植物で医学パピルスにも記載されているものだが、ビタミンが豊富なくらいで、マラリアを治す効力は特に存在しない。こんなものではどうしようもない。肩を竦めるしかなかった。
「あなたは、この病を知っているのか」
頷く前に侍医は素早く俺の前に進み出、情けを乞う視線を送ってくる。
「ならば、治療の方法もご存知か!」
知っている。しかし、「知っていること」と「治せること」は必ずしもイコールではない。
「今いらっしゃる王妃も一度これでお亡くなりになられた!発病からたったひと月と半で!」
アンケセナーメンのことを言っているのだと気付く。弘子と瓜二つだと言ったその女もマラリアで死んだと言うのなら、なんて王家は不運に見舞われているのだろうか。それとも、もともと古代エジプトではマラリア蚊の生息が多かったのか。俺が診てきたこの時代の患者の中にはいなかったのに。
「ファラオが今亡くなられたら我が国はどうなる!王妃のようにすぐに甦られれば良いが、そのようなことが二度も三度も続くとは思えぬ!亡くなってはいけない御方だ!失われてはいけない存在なのだ!」
あまりの必死の様子に、俺は一驚を喫した。激しさに足が自然と後ずさる。
「頼む、治してほしい!」
再び額を床に付けて懇願してくる。
「王妃はあの方を支えとしていらっしゃる!今の状態を保っていらっしゃるのはファラオがいらっしゃるが故、互いの存在で今を維持しているに過ぎぬ!まだ王女を失ったことから立ち直られているわけではない!ファラオをお失いになったら王妃はどうなる!?国は!?王家は!?」
王家を任されたこの男の責任がここに流れ出していた。積りに積もったものが、ここで崩れ始めている。
「このままでは古来より続いた王家は終焉!私の代でそうさせるわけにはいかぬのだ!」
侍医は泣くように身体を震わせた。
この男の嘆きを聞いて、弘子が頭に浮かぶ。あの男のために泣き続ける彼女が。長くなった黒髪を垂らして、顔を覆って、声を上げて泣き続けて。彼女は、どうしているのだろう。
マラリアは現代でも変わらずアフリカでは要注意の感染病だった、いくら医学をかじった程度の彼女でも知っている。そして気づいているはずだ。ツタンカーメンが感染しているのは、マラリアだと。
気づいた彼女は、どんな想いであの男を見ているのだろうか。
手を額に当て、前髪を掻き上げた。
現代では抗マラリア薬が作られて減ったが、歴史的に考えれば19世紀中ごろまで全世界で流行し、歴史上、最も人を殺めてきたと言われる感染症。殺人病だ。それが熱帯熱マラリアの別称でもある。ここで呼ばれる『死の病』の名に最も相応しいと言える疾患だろう。
症状が風邪のものに非常に良く似ているため、風邪と勘違いして悪化させるケースが多い。ほんの少し我慢してしまえば、短時間で悪化の道を辿る病だ。酷い発熱が数度続き、嘔吐などにも苦しんでいるとなれば、もう末期と言える。
「……出来ない」
ようやく出た声に医師がはっと頭を上げ、後から言葉を理解したのか、時間が経ってからじわじわと身を震わせた。
「な、何を仰せになるのか」
手立てはない。見つからない。
「俺には何も出来ない」
「そのようなことは……!」
弘子を想えば、償い代わりに治してやりたいという気持ちがある。娘を失い、立て続けにあの男を失ったらと考えると、そうならないようにと考える思考がこんな俺にも働く。
だが、現代でも重症熱帯熱マラリアは集中治療室ICU管理になる疾患だ。重症マラリアには注射薬、抗マラリア薬であるアルテスネート、アルテメーテル、キニーネのどれかを静注する処置がとられるが、どれも無い。抗マラリア薬療法以外には、酸血症・代謝性アシドーシスの治療を含む水・電解質・酸塩基平衡の管理、輸血療法、機械的人工呼吸法を含む呼吸管理、血液浄化法などの治療法が存在するが、現状ではどれも不可能。
「出来ることは何もない」
「そのお荷物!その中に入っているのでは!?」
侍医に指差されたのは俺が現代から持ってきたあの鞄だった。この時代に迷い込んだ当時、何よりも頼もしく見えたそれは、今見ると色も剥げて頼りなく沈んでいた。
「見たかったら見ればいい」
肩ベルトで吊るして差し出すと、侍医は奪い取るように受け取り、チャックを苦労しながら開いてその中を見た。見て、漁って、言葉を失う。鞄を逆さにして床に散らばった数少ない物を手に取り、使えるものが無いことを目の当たりにし、再度絶句する。手から鞄が落ち、物が散乱した上で二本の腕が彷徨った。
それもそうだ。鞄の中にはもう何もない。使い尽くしてしまった。あるのは、到底今回の治療には使えない小型の拳銃一丁と、彼らには読解できない文字が並ぶ古びたメモと資料だけ。
そんなはずはないと侍医は首を横に数回振り、何か他に無いのかと言う風に俺を見つめる。
「馬鹿な!あなたは神のような御方だ、出来ないなどあるはずがない!何かないのか……!!」
俺は神でもなんでもない。半狂乱で足元に縋ってくる男を見下ろした。
「手遅れだ」
瞬間、瞳孔が大きくなって俺を目いっぱいに映し出す。そして声にならない悲鳴を上げた。
手遅れなんて言い方は間違っているのかもしれない。この時代で手遅れも何もないのだ。感染したらそれで終わり。助かる見込みなど、感染した時点で失われるのだから。
「……手、遅れ……手遅れ、そんな」
侍医はよろよろと座り込み、その場に放心した。
誰の声も響かなくなった部屋はしんと静まり返り、夜の閑静を浮き彫りにする。沈黙が降ってくるとはこういうことを言うのだろう。降って、降り積もって、埋もれてしまいそうだ。
東の宮殿はここから想像できないくらいに騒がしいのだろうか。弘子が耳にしているだろう喧騒は、太陽が沈む西側にいる俺には聞こえない。
「ねえ」
動揺を微塵も見せないナクトミンが俺の方へ歩を進めてきた。俺の前に座り込む侍医を邪魔そうに越えて、面と向かって視線をぶつけてくる。
「それで、ファラオは死ぬの?」
答えなかった。熱帯熱マラリアに感染して何十年と生きる例外の事例もあるが、その可能性は限りなく無いに等しい。確実なのは、あの男がこれからとてつもなく早いスピードで衰弱していくだろうということだ。腎不全、肝不全、酷い内出血、悪化すれば原虫が脳にまで行き届き、脳症を引き起こす。発熱と解熱を不定期に繰り返し、多くの症状に苦しみながら昏睡を引き起こし死んでいく。マラリアの中で最も悪性。明確な治療もないまま過ごしていくことを思えば、最後に辿り着くのは死だ。
「死んだら、ヨシキはどうするの」
分からなかった。自分のこれからなど。
「ヨシキは……」
「よーき!!」
ナクトミンが何かを言い欠けた時、幼い声がそれを遮った。呼び切れていない俺の名。奥の部屋へと繋がる扉を少し開けた先に、シトレを大事に抱き、心配そうにこちらを覗いているティティがいた。その足元に侍女が控えており、ティティの姿を認識するなりナクトミンは恭しく頭を下げる。
「どうした、ティティ」
何かを言いたげな様子で彼女は、床に座り込む侍医を見、頭を下げるナクトミンを見てから、俺を見る。彼女らしくも無く、様子はそわそわとして落ち着きがない。「早く戻って来て」と言っているのがよく分かる。以前に呼び出されて殺されるか否かの事態に巻き込まれたから、心配しているのだろう。ナクトミンが会いに来たと言われた時に垣間見た、彼女の強張った顔つきを思い出す。
「侍医、邪魔だね。追い出そうか」
外にいる兵に放心している侍医を部屋から連れ出させた。侍医に話すことも、与える助言も、もう無い。引き止めはしなかった。その背を見送り、出された銃を鞄にしまってからティティの方を見て微笑む。
「終わったらすぐ戻る」
口端がとても重い。安心させようと作った笑顔は、彼女が頷き、シトレの髪を撫でて背を向けた瞬間に崩れ落ちた。
「あの子、大きくなったね」
扉が閉まった後、ナクトミンは目を細めてさっきまでシトレがいた所を眺めている。
「何も知らずに笑ってる。ある意味、とても羨ましいよ」
何を感じているのか読み取れない声色だった。
「ナクトミン」
呼ぶと、猫目がこちらを向く。
「死ぬぞ」
一言で、さっきの質問に答えた。
「王は、長くて一月以内に死ぬ」
いよいよ、憎くて堪らなかったあの存在が、消える。
拳を握りしめ、自分の内にそう言い聞かせるのに、自分が色めき立つことは無かった。
「そう」
興味も無さげに小さく呟いた青年は一歩こちらの方へ進み出て、俺を見上げてくる。
「嬉しい?」
掛けられたのは、抑揚のない声だ。見えた顔も無表情で、俺は視線を反らした。
「その感情は無い」
「どうして」
あってもいい感情なのだろうが、それに勝る奇妙なものの方が今は大きい。出所が知れない緊張があった。
「嬉しくないものなの?憎い男の死が決まったのに」
返答を待たずにそいつは視線を下ろして、隅の炎の方に歩み始める。サンダルが床を擦れる音が大きく響く。
「正統な王位継承者も決まってない」
青年の声は狭い部屋の壁に跳ね返り、反響する。
「都は遷したばかり。神は戻したばかり。何もかもが不安定だ。今ファラオが死んだら大変なことになるよ」
猫目には炎が映っている。炎を目の中に飼っているようだった。
「国は混乱に陥って燃え上がるだろうね。この火みたいに」
俺も火の赤が混じる橙を見ていた。眺める炎の中に、現代で見たKV62や、カイロ博物館のツタンカーメンのものとされる金に煌めく展示品の幻影が走る。
寂しく、狭い王墓。風に踊る砂漠の小さな砂粒。欠けては崩れ、砂に埋もれた宮殿、神殿跡。次元が違う様にも感じる巨大な死者の谷。数千年前と変わらない黄金と多彩な鮮やかさに染まりながらも、どこか切なさを持つ数々の埋葬品。そして、ただ一点を見据え続ける聡明な顔立ちの黄金の仮面。
豪華絢爛なはずなのに寂しさが先に出るあの雰囲気が、目の前の炎の中で流れて行った。
病弱で、寝たきりの片脚の悪い杖突き王。突如の死を迎える悲劇の若きファラオ。それが現代における、あの男の代名詞。
ああ。
こうやって現代で想像される悲劇の王の姿に重なっていくのだ。
21世紀において、ミイラの解明からあの男は病弱な少年のレッテルを貼られてしまう。所詮はミイラから鑑定されることなど、死の直前の状態のものでしかない。生前どれだけ勇猛果敢であろうが、怪我一つない、障害もない男であろうが、死の直前がこれでは現代に残る姿は悲惨なものになる。現代人は、彼の生前を見ることは出来ない。
目を閉じた。俺が歴史を変えようと施した治療さえも、歴史の内だったのだ。本当に何もかも。
謎の少年王、ツタンカーメンの死因。
それは、怪我のための免疫力低下でPlasmodium falciparumによって発病した、最も危険な原虫感染症。
B50、熱帯熱マラリアだ。




