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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
19章 神とは
129/177

誰がため

* * * * *


「まさか最後の最後で来るなんて、アイ様も隅に置けない人だと思わない?」


 ナクトミンは俺の隣でせせら笑う。声は軽く、俺にしか聞こえないくらいの音量でしかない。笑っているのは口だけで、相手の表情は怖いくらいの冷静さを保っていた。


「それよりヨシキが叫んだ方が問題か。アイ様はきっと怒ってるんだろうなあ。ヨシキって本当に後のこと顧みないよね。そんなんじゃ命いくつあっても足りないんじゃない?」


 返事はしなかった。宮殿前に馬と共に屯する獅子狩りに参加していた兵たちの話に耳を傾けながら、隣から流れる皮肉とも取れる文句を聞き流す。

 俺たちは、彼らより数段上の宮殿入口で時間を持て余していた。衛兵たちの口々から漏れる話は、獅子狩りの騒動と、王の怪我、そして今後の王権の行方など、そういった類のものが大半を占めていた。

 戻ってきて数十分が経ち、頭上を覆う天には夕闇が迫っている。


「ねえ、何で叫んだの。自分に不利になるって考えなかった?」


「王はどこに?」


 質問を無視した俺に不服そうな顔をしてから、溜息をつき、投げやりな返答をくれる。


「西の宮殿の施設でしょ。あれだけ酷い怪我だったんだから」


 あの医療施設か。そこならば知っている。いくら宮殿が広いと言えど、今いる場所から速足で行けば数分というところだ。


「ヨシキ?」


 呼ばれる頃には足は進んでいた。自分がこうする理由を今は理解できる。分からなかったのはあの時だ。獅子狩りのあの時、あのまま名前を叫ぶことなどしなければ、あの男は心臓を貫かれて死んでいただろうに。何故叫んだ。何故あの憎らしくて堪らないあの男を庇うようなことをした。分からない。


「どこに行くの!ねえ!」


 声を上げるナクトミンには構わず、半ば走り出す形でその場を後にした。

 どこへ──あの男が運ばれた施設へ。

 何のために──あの男の死に様をこの目で見届けるために。それ以外に、何がある。


 西の宮殿の廊下を脇目も振らずに進んでいく。王の大事とあってか、周りを行き交う女官の姿は極端に少ない。普段ならこんなに堂々と廊下の真ん中を突き進むなど思いもしなかったが、この堂々さと神官たちと同じ服装だったのが効果的だったのか、兵とすれ違っても声を掛けられることは無かった。

 自分の背の何倍あるか知れない巨大な柱の影を何本も越え、中庭を越え、茜が惜しみなく降り注ぐ場所へと出る。浴びた西に沈む太陽が眩しい。そこには下へ長く続く階段があり、その上に宮殿の造りとは異なる白い直方体の建物が文明の医学の高さを物語る巨大な医療施設が見えた。俺がいた民間の為に開いた場所とはまた違う。何種類ものの薬草が混じった匂いが微かに漂い、病院というよりかは神聖な場という雰囲気があった。

 施設の正面を上から窺うと、人影がいくつか確認できた。そして慌てた様子の女官たちが引っ切り無しに宮殿と施設を行ったり来たりして俺の横を過ぎて行く。この階段を下ればすぐなのだが、さすがにこれを降りていくのはどうかと思い直し、回り道になるものの見つかりにくい別の階段を選んだ。

 木材でできた階段は粗末で、紐で木と木を繋げた構造をしており、踏みしめるたびに木材の軋む音が耳を突く。降りながら獅子狩りのことを思い返していた。

 王は死ぬだろう。獅子狩りであれだけの怪我を負って、ここまで搬送されるのにまた時間を掛けた。この時代の医術などたかが知れている。輸血の技術もない。解剖学だけが飛び抜けて詳しく、どの臓器がどれだけ腐りやすいか知っていたとしても、心臓の機能や全身のありとあらゆる血管配置が分かっていたとしても技術が追い付いていないのならば、あれだけの怪我を治せるとは到底思えない。手術が成功して数日持ち堪えても、必ず死ぬ。

 これが歴史だ。俺が決して変わらないと気づいた歴史。今日が獅子狩りという日で、それにアイが同行したのも。獅子狩りでアイが仕組んで、それが成功したのも。何を思ってか俺が良心の呵責に負けて叫んだのも。そしてツタンカーメンが突如若くして死んでいくのも。


 施設の傍まで辿り着くと、一度足を止めた。どうやって中に入るか具体的に考えていなかった自分の愚かさを悔やんだ。建物の影に身を寄せ、息を殺す。建物入口には当たり前のように兵が立ち塞がり、少し離れた場所に十人ほど、側近らしき姿の影が夕陽の色を黒く遮って動いているのが見える。

 まだ王が入って間もないだろう。どうしたものかと建物を見上げていた時、啜り泣く声が聞こえた。絶え絶えに流れてくるその声がひどく懐かしい気がして、建物の影から少しばかり顔を出して覗いてみると、兵や侍女たちの中に一人座り込む女が目に入った。

 顔は、逆光で見えない。黒く塗りつぶしたようなシルエットになってしまっている。目が次第に慣れて、女が侍女に囲まれ、手で顔を覆ってあの男の名前を呼びながら咽び泣いているのだと分かった。

 声の主はその女だった。大人しい色合いの飾りと長い黒髪を小さな肩に垂らし、声を震わせている。嗚咽を漏らすのに合わせて上下に肩が揺れる。若い侍女たちが何度も落ち着かせようと肩を擦っていた。


「王妃様、この場にいられてはお身体に障ります」


 ──王妃。


「どうか、中へお戻りに……ナルメル殿がここにいらっしゃって下さるようですから」


 そんな侍女の声に、王妃と呼ばれた女はふるふると首を振ってここに残ると意志を示した。咳き込むのに手から起こした女の顔を見て、自分の目が見開かれる。

 それほど離れていない場所。侍女や兵に似た者たちがいながら隔たる壁も何もないその場所に、随分前から会いたいと願った存在がいた。

 幾度となく。幾度となく。願い続けた唯一の人。


「……弘子」


 彼女だった。



 手の届く場所にいる訳ではない。それでも今まで以上に近い場所にその存在はいた。我が子を亡くし、夫さえ失うかもれないという事態に見舞われ、顔を真っ青にさせた弘子。彼女は侍女たちに囲まれて小さく泣いている。あの男の名前を呼びながら、大粒の涙を掌から零して。

 久々に目にした彼女の姿に喉奥が小刻みに震え出すのを感じた。もっと奥にいるものだろうと思っていたし、ここで姿を見られるとは想像さえしなかった。

 弘子がいる。歩いて50歩とない場所に、会いたくて仕方が無かった弘子が。


 ──このまま、攫ったっていい。


 不意にそんな考えが過った。そもそも、この宮殿に入った当初の自分はあの男が死んで未亡人になった弘子を連れ帰るつもりでいたのだ。その時が来たから、ここまで来たのではないか。死に欠けていると言っても過言ではないあの男の死に目を、この目に焼き付け、絶望した弘子を取り戻す。この時代を選んだ最大の要因が死ねば、弘子はここに居る意味を失くすのだから良い話ではないか。

 弘子の周りを固めるのは女官と、丸腰の側近のような男どもと背の高い老人だけ。今の自分なら彼らをなぎ倒し馬一頭盗んで、弘子をどこかへ連れ去ることなど何ら難しい事ではないようにも思えてくる。

 もとの時代に戻れなくとも、どこかへ攫ってこの時代で共に生きていく。良い、話じゃないか。俺が望んでいたことだ。

 前に踏み出そうとして、そこで「いや」と留まった。再度弘子を見る。泣いて咽いで、心配で血の気を失くしている弘子に、そこまであの男が好きなのかと落胆している自分がいた。その落胆には疑問も付き従っている。無理に引っ張って王妃の座から引き離したところで、彼女の中からあの男は消えるのだろうかと。


 ──ついて来る。


 あの男は死んでも、弘子に付きまとう。そして何より、弘子は俺を憎んでいるのだ。子供を殺された弘子にとって俺は我が子の仇だ。それを否定するつもりはない。ただ弘子を連れ去ったとして、弘子は自分に心を赦すだろうか。受け入れると言い切れるか。無理に縛り付けてでも自分の隣に置いて、自分はそれでいいのだろうか。彼女と一緒に居ようと思うなら、あの男を愛し続け、俺への憎しみを持つ弘子を、愛さなければならない。憎悪の塊を向けるくらいのあの男を胸に抱く弘子を、彼女が持つ憎しみも丸ごと。それが出来るほど俺は寛容なのか。強い心の持ち主だったか。

 あの男が死んだら弘子はどうなる。悲しむのではないか。彼女の泣く姿が見たいのか、俺は。

 それ以上前に進めなかった。急に自分のすべきことが分からなくなった。


 茫然としていると、いつの間にか背の高い老人がこちらを振り返り、こちらを見ているのに気付いた。身を隠さなければと思い至った時にはもう遅い。視線に捕まっていた。

 こちらを捉える二つの眼光はすっと細められる。神経という神経の中に一斉に電流が流れ込み身体中を駆け廻り、頭の先まで到達する。頭を引っ込めることも、そのまま神官だと言って躍り出ることも叶わない。俺の真意を見透かそうとするようなその眼が怖かった。

 動けず身を固めていると、誰かに後ろから腕を強く掴まれ、身体が跳ねた。


「追いついた」


 背後から聞こえた声。反射的に振り返って見えた人物に緊張が緩んだ。


「ホントに目が離せないよ。馬鹿じゃないの」


 囁いてきたナクトミンは、俺を連れて前に躍り出、その老人に満面の笑みで軽く頭を下げる。


「この者は神官です。どうやら新米で道に迷ってしまったらしくて」


 こちらに刺さる眼光を少しばかり弱め、ナルメルと呼ばれた老人は杖を一度、床に突いた。


「……そうか。すでに他の神官たちが中でファラオのご治癒をお祈りしている。連れて行ってやると良い」


「お安い御用です、ナルメル様」


 にっこりと愛想笑いを浮かべ、ナクトミンは俺の手を引く。姿が見えなくなるまで、その老人の目は俺を捉え続けていた。





 施設に入るなり俺の腕を突き放したナクトミンは、初めにいくつかの悪態をついた。


「分かってる?さっきの宰相様だよ。怖いくらい鋭いから気を付けないと。さっきので何も勘付かれて無いといいな」


 あまり頭に入ってこない。今しがた見たばかりの弘子の表情が頭に焼き付いて離れてくれなかった。


「見つかったらどうするつもりだった?まんまと殺されるつもりだったわけ?僕がどれだけ庇ってきたかも構わずに?」


 苛立った様子でそう言われた時、神官たちの声が聞こえた。向かう先に、巨大なひとつの部屋がある。神官の祈る声の束が流れてくる場所。あそこだ。

 宮殿から施設に向かおうと決めた時と同じように、俺の足はナクトミンを避けてその部屋へと進んだ。


「この有様では……切断はやむを得ないかと」


 部屋に踏み入れて最初にそんな絶望的な声色が耳に入った。


「まだ方法はある。骨を固定申し上げれば良い」


「待て。それは我々でも手に余る術であろう。もし失敗すればどうする」


 侍医を含め、施設で過去に一緒に仕事をした見覚えのある医師6人が薄く血に染まった寝台を囲んでいる。その中央から苦しげな低い呻きが聞こえる。医師たちの治療方針を決める討論の最中だと知った。部屋を一枚の麻で仕切った反対側のもう一方で、神官たちが熱心に神へと祈りを捧げている。


「これが失敗すればこの国から王がいなくなる。お世継ぎもいらっしゃらないというのにそれでは国は混乱してしまう」


「だが片足しかない王など今までに例がない。戦争で失われた場合は片足のお姿を恥じ、権威を失うことを恐れ、御子に王位を譲られている」


「なのにファラオは姫君を亡くしたばかり。お世継ぎはいらっしゃらない」


「しかし、切断以外に方法はない。ファラオのお命、長らえさせることが我らの使命でないのか」


 5人は黙り込み、固く口を閉ざしてから患者の左脚に最も近い場所にいる侍医へと目を向け始めた。戸惑い、焦り、不安、それでも王の命を左右するという逃げられぬ責任感。全てが入り組んだ眼差しが十もある。最終決定権を持つ侍医に判断を仰いでいるのだ。


「いかがなさいます、侍医殿」


 5人が息を呑み、彼の決断を待つ。患者の足を眺めていた侍医は間もなく仕方がないと言った様子で徐に口を開いた。


「……切るしかあるまい」


 左足の切断。了承した医師たちは反論することなく、黙々と道具を用意し始める。古代メスに水、お湯、薬草、麻。最後に、二人がかりで手にする、巨大な包丁に似た刃物。見守る光景は、始動の状況へと進んだ。

 その時だった。処置を始めようとした侍医の手が不自然に動きを止めたのは。

 何事かと目を凝らせば、寝台で呻いていたはずの男が上半身を起こし、自分の足に触れた医師の腕を引っ掴んで睨みつけていた。どれだけ強い力で掴みかかっているのか、掴む腕も掴まれた腕もその強さ故に振るえている。


「許さぬ……!」


 男は吠えた。意識が朦朧としながらの凄味に医師たちは後ずさる。噛み付くような淡褐色の強い眼差しは、獣を連想させた。


「片足の王などのどこに威厳がある!誰が敬意を示すのだ!」


 声は掠れ、決して大きいものとは言えない。それでも周囲の人物を怯ませるだけの威を秘めている。


「……しかし王よ、お命をお助けするためには」


「王は民の手本であり、頂点でなければならぬ!切断など許さぬ!!決してだ!」


 よくそこまで吠える気力が残っているものだと思ってはいたが、すぐに身体は激痛に高く跳ね、男は大きく呻いて再び倒れ込んだ。


「ファラオ!」


「お気を確かに!」


 確かに片足がなくなれば、今まで保ってきた威が弱まることは必然。舐めてかかる輩も出てくるかもしれない。こんな時にそんなことを心配する男はやはり王としての責任を忘れてはいないのだ。

 医師たちは狼狽え、どうしたものかと話し合いを始めた。逆らってでも切るという声を荒げた意見と、やらない方がいいという否定的な意見。何も口出さず他の治療法はないものかと医学書を開き出す者もいる。神官の声しか聞こえていなかった空間が、焦りばかりの声で埋もれていく。このままでは時間が経つばかりで手遅れになるだけだ。

 あの足を切断せずに治すには。それが可能なのは。

 弘子の顔が浮かぶ。何度も。何度も。男の名前を呼び、涙に濡れたその顔が。

 俺が望むものは何か。歴史通りのこの男の死か。弘子のために何かをすることか。

 ここで自分が処置をすれば、男は生きるだろう。それだけの自負はある。やらなければ、弘子は泣く。しかし俺は男の死で自分の中の何かが報われる気がしてならない。自分のことを第一にするのなら、このまま見届けて弘子を攫う。

 だが、それでいいのだろうか。

 何を望んで来たのか。真実、願い続けているのは何か。

 瞼を強くつぶり、思考をこれでもかという速さで繰り返す。


 俺は。何を。


「……やりましょう」


 静けさにやけに大きく響いてしまった俺の声に、弾かれたようなに6人の医師がこちらを振り返った。羽織っていた上着を脱ぎ、顔を彼らに曝け出すと、彼らはあっと声を上げ、表情を変える。


「ヨシキ、何言ってるの」


 隣でナクトミンが虚を突かれたような顔をしている。自分でさえ何を言っているのか分からなかった。本当に今日の自分は変だ。あの男の死を見届けるために来たはずだというのに、それを渇望していたはずなのに何をしているのだろう。


「出来るのは俺だけだ」


 一歩前に踏み出す。この時代で俺以上の技術を持つ医師がどこにいるだろう。


「だからってやるの?アイ様に何て言うつもりさ」


 潜められたナクトミンの声は低い。


「お前が黙っていればいいだけの話だ」


「僕が黙ってもあの方は嗅ぎつけるよ。そう言う方だ。恐ろしい方なんだ。恐ろしくて傲慢で、邪魔の者はことごとく切り捨てる。それはヨシキも十分に知ってるはずだ」


 そうだ。あの男はいくつも目玉を隠し持っているような男。その姿を俺は繰り返しこの目にしてきた。だが、不思議と俺は前を向いていた。怯むこともない。壁の高めの部分に開いた窓から夕陽の茜が満ちている部屋で歩を進める。


「嗅ぎつけられたら、それまでだな」


 何のために。誰のために。この憎い男の救命など俺はやろうとしているのか。


「もういいよ。やらせてみて」


 肩を竦めながらもナクトミンは、当惑している医師たちに告げた。止めても聞かないだろうと心底呆れた顔をしている。


「彼の腕は僕が保証するから。それに侍医もこの男の技術の程は知ってるよね。もう2年前になるとは言え、一緒に働いてたんだから」


「え、ええ」


 医師たちが俺に道を開ける。苦痛に顔を歪める男がようやく目の前に来た。

 ああ、この男だ。首根っこを引っ掴んで殴りかかってやりたいくらいの相手。殺したいくらいの男。

 お前にとっても、俺は同じくらい憎いだろう。起きていれば首を絞め殺したいくらいの存在だろう。

 俺もお前が憎い。こんなにも憎みながらも、今こうするのは。


 誰がため。


 もう一度己に問いかける。

 お前のためではない。俺自身のためでもない。


 弘子のため。泣いてこの男の無事をただひたすらに願っている彼女のため。

 死を見るよりも、弘子の涙が止まることを俺は望んでいる。

 俺は、弘子のためにここにいるのだ。


「まずは状態の説明を」


 隣の侍医が今現在分かっていることを簡潔に短くまとめて教えてくれる。それを聞きながら外見のみで状況を見回した。共に自分の目で見た事故の状態を脳内で再生させ、怪我の状態と照らし合わせる。本来ならX線画像が欲しいところだが、外から見る分にも左大腿骨が縦に半分に割れ、その一部が筋肉と皮膚を突き破ってしまっているのが分かる。この時代の技術では切断した方が効率的。医師たちの判断は間違いではない。

 だが、患者の生活の質を踏まえれば切断は最終手段に回すべきだ。よく似ているものにバイク事故によって生じた怪我がある。余程の力が加えられない限り、滅多に負うことのないものだ。

 不安な点は残すものの、治療の糸口は見えた。麻酔をした上で骨のずれを整復し、金属のピン、ワイヤー等などを用いて体内で骨を固定する内固定手術。これが有益だろう。幸い、こういった手術形態は成立しているからこの時代でも可能だ。

 心配されるのは出血量。大量出血での死亡を防ぐために、できるだけ短時間且つ最低限の出血で処置を行うことが求められる。

 息を潜めて見守る侍医たちに、これからの手順と目標を伝えて短い質問に的確な答えを返す。以前に読み漁った医学パピルスは彼らと意思疎通するのに非常に役立った。

 皆が納得し理解した上で手を洗い、用具をそろえさせて準備が全部整ったことを確認する。


「始めます」


 6人が頷く。

 もしこの手術でこの男が生き長らえたのなら、俺は歴史に勝ったことになる。挑んでみよう。歴史通りだと悟った自分自身で、歴史を変えるという意識下で未来の技術を使ったらどうなるか。歴史を変えることが、果たして俺などに出来るのか。賭けに出る。


「動かないよう抑えて」


 そこからは悲鳴と呻き、暴れるのを防ぐ、その繰り返しだった。上がる悲鳴は時間が経つにつれ、掠れながら大きくなり、人間のものとは思えないものになっていく。押さえつけられている痛みと皮膚を切られて中に素手を入れられている、この相手が感じているだろう激痛を想像するだけで顔が自然と歪んだ。

 麻酔なしの手術は例外なしに危険と隣り合わせだ。いつ痛みに耐えきれず、動き出すか。ショック死を与えない程度での制御はどこまでできるか。数ミリの動きで他の組織を傷つけることにもなりかねない。緊張の糸が切れんばかりに限界まで張り続けた時間だった。


 数時間が経ち、部屋の茜は消える。その代わりに大きな火が灯された。医師の一人にそれを近くで持ってもらっての作業。安定が無く、揺れる炎は影をも揺らす。そして熱いのが難点だった。汗が噴き出して仕方がない。それでも何とか金属で割れた骨を固定し、本来あるべき場所に戻して縫い合わせる。

 終わったのはそれから間もなくのことだ。俺の終了を告げる言葉がするりと落ち、周りも大きな息をついて肩を撫で下ろす。

 腕も、背中も、目も痛んだ。本来ならそれほど難しくもないものだったというのに、どっと疲れが襲い掛かる。残るは獅子に下敷きにされた時の深めの爪痕だが、ここは縫うほどではない。消毒して布か何かで傷を保護していれば、痛みはあっても比較的簡単に治癒する。獅子に襲われてすぐに周囲が動いたのが幸いだったのだろうと、獅子狩りの事故の光景を振り返る。


「ファラオは、再びお歩きになることは可能なのか」


 一人の医師が口を挟んだ。


「いや」


 現代にいたならともかく、十分な治療ができない以上、この男はもう歩くことは出来ない。杖を突いて歩くか、最悪ずっと座ったきりになる。


「足の形をとどめただけに過ぎない。機能までは無理だ」


 侍医たちは項垂れた。

 全体を見回しているうちに、患者の足首が異常など内側に曲がっているのに気付いた。右足はわずかだが、左足は地面に足裏がつかないくらいに曲がっている。内反足か。


「……王は、転びやすかった?」


 足首側に回り、屈んでその足を眺めて侍医に問う。


「ええ、王子であらせられたころはよくお転びになられておりましたが、今はそうでも」


 もともと軽度の先天性のものがあって、それが今回の事故に伴い左脚のものが悪化したとして考えるべきか。転ぶ回数が減少したのは歩き方が慣れていたからだろう。軽度のものであれば治療しなくても多少転びやすいくらいで済むため、現代でもそのままの経過を見て行く場合が多い。これへの処置はPonseti法でのアキレス腱の皮下切腱が最も良いとされている。

 ここだけではない、他にも強く引っ張られたための背骨の変形、腰部の損傷も疑われるのも事実だ。だが当の患者はすでに痛みで意識がない。痙攣もようやく治まった所で、顔色は悪いが血色は手術を始めた当初よりかはいい方へ向かっていた。

 俺自身、悲鳴を聞き続けながら保ってきた体力は底を尽きようとしている。まず自分が耐えられるか分からなかった。

 これ以上の処置は不可能。麻酔なしの手術をこのまま続行するのは無理だと判断して身を起こした。


「……これからの諸々の処置はあなた方に一任します。俺はこれ以上関わらない」


 役目を終えた。そう思った途端、力が身体中から抜けていく。麻で手を拭って出入り口の方を見ると、ナクトミンが腕を組んで壁に寄り掛かって俺を見ていた。気難しげな表情。俺のことが分からない、と言ったそんな顔だったが固さはなかった。


「行こう、ナクトミン」


 言えば、彼は身体を起こし、眉を顰めたままの顔で頷き、俺の方へと歩み寄ってきた。


「裏から出ようか。その方が安全だから」


 彼の指先が示すのは、入ってきた方とは逆の方向。見てみれば裏口があるようだった。正面とは比べ物にならない質素な扉だ。

 そう言えば正面にはナクトミンが鋭いと言った宰相がまだいるのだ。俺が通るべきなのは確かにこちらだ。


「あなた……!」


 去り際に背中に聞こえた。反射的に振り返って声の主を見た途端、心臓が大きく音を落とした。

 彼女だった。侍医に処置が終わったと告げられ一目散に駆けてきた弘子は、周囲に一瞥も与えることなく、その男の胸に縋り付いて泣いていた。髪を撫で、頬を撫で、抱きしめるようにして嗚咽を漏らす。その男の名前を呼びながら。

 唇を噛み、拳を握り込んだ。思い知らされる。いや、知っていた。随分前から知っていたはずだ。知っていたのにこんなにも苦しい。こんなにも辛い。俺がここにいても、お前にはその男しか映っていないことが。それでいても、ようやく目にしたその姿が愛おしくて、愛おしくて堪らなかった。


「いいの?手術を施したのは自分だって言わなくて」


 前を行っていた猫目の青年は立ち止まる俺にそう尋ねてくる。


「好きなんでしょ?誰よりも。歪んじゃうくらいに」


 歪むくらいに。その言葉に苦い笑いが漏れた。そのまま出口へと足を進める。


「俺はもう戻れないほどに落ちぶれたんだ。今更合わせる顔なんて持ち合わせちゃいない」


 外に出れば月があった。欠けた三日月。それを取り囲む膨大な数の星々。幾夜も仰ぎ見た煌めく星座たち。その下に流れてくる夜風が涼しかった。


 ──弘子。


 身に染みて知る。骨身に染みて知る。どれだけ酷いことをしたかと分かっていても。どんなに嫌われても憎まれているか、分かっていても。たとえ、死ぬことを望まれたとしても。

 俺は泣きたいほどにお前が好きなのだ。

 誰よりも。そして、何よりも。



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