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悠久なる君へ~3300年の記憶~  作者: 雛子
18章 ひろやかに
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歌声

 呻くような自分の声と寝苦しさにふと目を開けたのは、夜がすっかり更けた頃だった。うっすらと現れ始めるいつもと変わらぬ部屋の中で視線を動かすと、すぐ隣で規則的な寝息を立てる彼の顔がある。柔らかい寝顔に安堵した私は、目を覚ました理由も考えずに重力に従って瞼を落として再び眠ろうとした──なのに。

 眠りに落ちる寸前に、違和感で再び瞼を開けた。


「痛い……?」


 お腹。お腹が。

 気のせいかとも思い直すものの、冷静になるにつれて腰の重たさが昨晩よりも増し、腹部に鈍い痛みが新しく現れているのに気付く。生理痛より重めの痛みだ。しばらく身体を横たえたまま様子を見ていたら、再度その波はやってくる。腹部を軽く絞られるような感覚だった。

 痛みが治まってから身体を起こしてお腹に手を置けば、今までにないくらいに張っていることに驚いて眠気が一気に吹き飛んだ。

 どうしたのだろう。

 流産の時の記憶が過ったものの、その時とは違うと思い直す。お腹を抱いて、痛みに驚いている自分を落ち着かせようと数回呼吸を繰り返す。

 少し経つとまた痛くなってすぐに引いて。時計が無くて正確に間隔は計れないけれど、多分規則的なものだ。それに加え、お腹のこの張り具合──もしかして。

 浮かんだ可能性に、急に緊張が自分の中に張り詰めた。


「アンク」


 隣の褐色の肩を小さく揺らすと、間もなく彼の瞼が持ち上がる。放ってあった腕をゆっくりと動かし、覗き込む私の髪を撫でるその人はまだ眠そうで、目尻はとろりと垂たらしたままだ。


「……どうした」


「アンク、お腹が、お腹がね」


 途端、彼の淡褐色がぱっと開いて、首を起こして私を見た。


「痛むのか」


 切り替えの早さに驚きながらも、こくりと頷くと、相手の目が私の腹部に向いてそれからまたこちらへ戻ってくる。


「産気、づいたのか」


 これが陣痛というものなのかは初めての経験ではっきりそうだとは言えない。それでも直感のようなものがある。


「……多分、そう」


 がばりと音を立てて素早く起き上がった彼が、同時に私の両肩を両手で掴んだ。あまりの勢いに私の身体ががくんと揺れる。


「いいか、落ち着け。万事において産気づいたとしてもまずは落ち着きが肝心だ。落ち着きを払ってまずは……まずは落ち着いて、それから、それから、どうしたら!」


 右手を私から離して自分の髪を掻き上げる。いつもなら迷う素振りなんて見せないのに、今すぐにでも生まれると言わんばかりの焦り様だ。落ち着けと言いながら本人が落ち着いていない。こんな状態の彼を見るのは出会ってこの方初めてのことだった。


「何をすれば!」


「すぐには生まれないから、大丈夫よ、落ち着いて」


 慌てて手で制すと、彼はぴたりと動きを止め、鐘に頭を打たれたような顔をした。


「そ、そうなのか」


「まだ少し痛むだけ。だから大丈夫。ね?落ち着いて」


 すぐには生まれないことに安心したのか、向かいの強張っていた肩から力が抜ける。額に手を当てて、深呼吸をして、やがて手繰り寄せるように私に腕を回しながら再び深く呼吸をした。


「すまぬ」


 顔を上げたその人が、決まり悪そうに息を吐くように笑う。


「いよいよかと思ったら、初めてのことでどうしたらいいか分からなくなってしまった」


 眉を下げてはにかむ彼に、私も自然と口元が緩んだ。


「あなたの慌てる珍しい姿を見たら、緊張が吹き飛んじゃった」


 互いに額を寄せるようにして苦笑しながら、間もなく生まれるであろうその子のいる腹部に目をやる。


「生まれるのか、ようやく」


 しきりに望んだ子が、やっと。そう思うと胸が大きく高鳴った。


「人を呼ぼう」


 私の髪を撫でた彼が寝台から降りて侍女を呼ぶと、控えていたネチェルがすぐさまやってきた。産気づくのが今夜だと分かっていたのかと思うくらいに素早い反応だった。


「ヒロコが産気づいたらしい」


「ああ、まあ!ならば準備を致しませんと!」


 ネチェルは嬉しそうに声をあげて、他の侍女たちを集め、出産の準備を整えるよう命じ、加えて侍医と神官たちを呼ぶよう命じた。


「姫様、お部屋に参りましょう」


 ネチェルとメジットに促され、私は準備が整った出産のための部屋に向かうことになった。





 四隅に燃える炎の熱が緊張する私の肌を掠める。嗅ぎ慣れた油の匂い。薬草の不思議な匂い。様々な匂いが充満するこの部屋に、侍医や侍女の他に、数人の女性神官たちが集まった。

 出産の場が襲われないようにと、部屋の外は兵や女官でぐるりと固められ、カーメス、セテム、ラムセスを配置してくれている。過去に生まれたばかりの子供が侵入者に殺されたという話があるのだから恐ろしい。


「そうすぐにはお生まれになりませんよ。初めてでいらっしゃいますし、時間もかかりましょう」


 いつ生まれるのかとそわそわしている彼にネチェルが優しく笑って返した。出産用に用意されていた奥の寝台に移動して1時間ほどが経った。あたりの暗さは深夜のために重く、朝が遠いことを伝えてくる。

 まだ生まれないだろうからと侍女たちも落ち着いている中で、寝台の隣の椅子に座り込む彼は、私の手を握って声を掛けてくれていた。大丈夫かとか、何か食べたいものはあるかとか、他愛のない話を交わす。話して笑っていると、度々来る痛みも不安も和らいだ。まだその余裕がある。


「座って、産むのよね」


 前々から侍医に教えてもらった出産の図を頭の中に描いてシミュレーションをする。この時代は座って産む座産が主流だ。


「母は暴れに暴れて最終的に四つん這いで私を産んだらしい。足の間からごろりと私が転げ落ちて来たそうだ」


 そう言いながら彼が苦笑した。


「転げ落ちてくるなんて、あなたらしい」


「なかなか勇ましい生まれ方だろう」


 鼻を鳴らした彼は自慢顔だ。


「でも四つん這いの方が楽なのかしら」


「本来ならば誕生の煉瓦がある。そこで座って産んだ方が良い。煉瓦には神々が宿るからな」


 誕生の煉瓦と呼ばれる出産用の台に座って出産するとのこと。子宮口が開き切ったらそちらに移るらしいけれど、パピルスの平坦な絵柄でしか見たことがないからどうもイメージが湧かない。

 しばらくして、いきなり風船が割れたような音が聞こえた気がした。どこから鳴ったのかときょろきょろしていると、自分の太腿辺りにじわりと何かを感じ、そこから生温い水のようなものが流れ出しているのに気付いた。


「こ、これ……」


 茫然としている間にみるみる寝台や私の服に滲み、麻の色を広げていく。


「侍医!!ヒロコが!」


 これにぎょっとした彼が呼ぶと、侍医がにこやかな表情でやってきた。


「何か出たのだが!」


「おやおや、お兆しがいらっしゃいましたな」


 兆し。


「御子様と共にいたご懐妊の水に御座いますよ。お生まれになる際に出てくるのです」


 出産の流れの中に「破水」というものがあった。卵膜が破れて胎児を包んでいた羊水が流れ出す現象だ。話には聞いていたものの、それも突然勢いよく起きて、こんなに流れ出るものなんて知らなかった。


「心配なさることは御座いませぬ。正しい順番ですぞ」


 ネチェルに手伝ってもらいながら簡単に着替え、侍女たちが敷いてくれたシート代わりの革の上でまた過ごす。

 痛みが増し、間隔も狭めて現れ始めた頃、キルタ王妃が寝間着のままやって来てくれた。化粧もしていない彼女の顔は何だか新鮮に見えた。


「朝起きたら産気づいたって聞いて来たの。まだ大丈夫?」


「……何とか」


 辛さはあるものの、どうにか我慢出来る程度だ。腰を屈めて彼の隣から顔を覗かせてくれるキルタさんは、緊張で顔を引きつらせている私たちとは違って落ち着いているようだった。


「一番痛い時はそんなもんじゃないから、今から覚悟しておくといいわよ」


 彼女の言葉に苦笑してしまう。


「頑張ります」


 これ以上痛みが強くなってほしくないとは思っていても、そういう訳にもいかない。覚悟を決めなければ。


「あなたも手を握ってるだけじゃなくて、擦ってあげなさいな」


 キルタさんが彼に言った。


「私がか……?」


 やっていいものかと戸惑う彼に、彼女が「そうよ」と強く言い切る。


「侍女より旦那の手の方が安心するに決まってるでしょ」


「な、なるほど、そうか」


 侍女に代わって、今度は彼が腰やら背中を擦り始めてくれる。始めはおぼつかない擦り方ではあってもキルタさんの言う通り、ただ傍にいて、いつもと変わらない彼を感じるだけで安心できた。

 痛みは容赦なくどんどん強くなってきて、その度に彼の手を握る。握り返される。滲む汗を、侍女や彼に拭ってもらいながら時間ばかりが過ぎていくのを感じていた。


 時間は、明け方に差し掛かっていた。下腹部だった痛みが下に降りて、腰に軋むような痛みが蝕んでくる。お腹が絞られるように痛み、叫びそうになるのを歯を食い縛って耐えた。


「お昼頃でしょうか」


「いや、過ぎるやもしれぬ」


 ネチェルと侍医の会話が足元から流れてくる。床に見える影の位置から推察して、昼はまだ遠そうだ。この状態がどれだけ続くのだろうと気が遠くなるや否や、陣痛の波が来て、ついには悲鳴に似た声をあげた。


「本当に大丈夫なのだろうか。今までにないくらい苦しそうなのだが……」


 ようやく安定した手つきで私の腰を擦れるようになった彼が、不安げに零した。


「大丈夫なわけないでしょ。腰が砕け散るくらい痛いのに」


 キルタさんが飄々と言ってのける。


「腰が砕けるのか!?」


「でもそれを乗り越えられるの。女は男が思っているよりずっと強いんだから」


 おろおろとした彼の声に思わず笑う私の肩を、キルタさんが擦ってくれる。


「ヒロコ、もう少し。もう少しで会えるわよ。だから頑張って」


 会える。その言葉を噛みしめて頷き返す。

 痛みのこの先にそれが待っているから、だから、頑張れるのだろう。頑張ろうと乗り越えてやろうと思えるのだろう。ただ、それだけのため。


 痛みが最初に感じていたものとは比べ物にならなくなってきた頃、ネチェルと侍医が話し合って、「誕生の煉瓦」なるものに移動することになった。


「では、ファラオはお外に」


 ネチェルの声が聞こえてきた。出産が本番に入るためだ。


「だが」


「ここよりは侍医以外の殿方はなりません」


 反論しようとする彼を、ネチェルは頑固として首を横に振った。


 出産は命を落とす危険が高く、生と死の狭間にあるものだとされている。そのため子供が生まれるまでの間、その空間には妊婦と同じ立場にある女性以外の必要最低限の人物、例えば出産に欠かせない者や神に仕える者たち以外いてはならない。死という概念に近づいてはならない者がそこにいてはいけない。王という重要な場所に立っている彼を、生と死の狭間という不安定な空間に居させる訳にはいかないというのが常識だった。

 この考えは古代においてどこの国でも共通している。それはおそらく、母体が出産に耐え切れず亡くなることが多かったからだ。母の死の上に、子の誕生、もしくは死があったからなのだ。


「ファラオ、私と共に参りましょう」


 メジットに連れられてやってきたセテムが彼に外へと促す。


「……ヒロコ」


 彼が心配そうに私を見つめた。汗の滲む私の頬を名残惜しく触れる。これからこの身がどうなるかは自分でも分からない。それでも強くありたかった。何より早くこの子を産んで彼に会わせたかった。


「私なら大丈夫。外で待っていて。必ず産むから」


 笑ってそれだけを言うと、彼は私の髪を撫でて一度強く頷いて手を離した。 


「そんな心配そうな顔しないの」


 キルタさんが彼の肩を軽く叩いた。


「ヒロコは強いもの、問題なんてない。代わりに私が傍にいる。だからあなたはヒロコと生まれてくる子の無事を祈っていて」


 セテムに連れられて部屋の外へ出ていく彼の姿を見送る。これが最後にならないようにと目に焼き付け、息を大きく吸った。そんな私をネチェルとメジットが覗き込んだ。


「お立ちになれますか」


 立てるどころか、そもそも起き上がれるのか、という所まで痛みが激しくなっている状態だった。侍女2人に肩を回してもらい、やっとのことで寝台から降りて呻きながらも足を動かす。

 初めて見る誕生の煉瓦は、侍医と侍女たちが囲むそこに置かれた大きめの直方体の台だった。石製の、女性の守護神が綺麗に彫られた白い土台。ベス神やハトホル神が舞うその中央には、かなり深い窪がある。


「こちらにお座りになって……」


 脚を開き、膝を曲げる格好でそこへ腰を落としていく。侍女の手を握りながら、麻のスカートを捲り上げられて、前にネチェルと侍医を含んだ数人が出産道具を持って座り込み、いよいよ出産らしい体勢になった。細かいことを考える余裕がないまま、メジットが私を支えるように後ろに座る。出産はこれからなのだと息を飲んだ。ここからまた数時間、痛みに耐えることになるのだと気付いた。


 誕生の煉瓦に座ったからと言って痛みが楽になる訳でもなく、それどころかどんどん増して過呼吸のような状態になった。更に数時間後には呼吸さえままならなくなり、身体全体が痛みに侵されているような感覚に陥った。

 痛みと痛みの間隔が短くなり、繰り返し襲ってくる痛みに息が止まる。上手く呼吸が出来ず、意識が朦朧として自分の状態がどうなっているのかも分からなくなってくる。痛みの後のほんの少しの無痛になる時間に全身の力が抜け、思考も何もかもが持っていかれるようだった。


「駄目よ、息を吸いなさい。お腹の子に息を送ってあげて」


 キルタさんの声がした。


「姫様」


 ネチェルの声だ。


「息を」


 息を吸わないと、お腹の子が。


 促され、どうにか息を吸おうとするものの、開いた口からは悲鳴ばかりが漏れ出る。汗が滝のように滴り落ちてきて髪が肌にへばりつく。

 もうどこが痛いのか分からない。全身の痛みで思考が回らない。息を止めてしまっているのか、ついには頭が真っ白になる。


「王妃様!」


「王妃様、お気を確かに!!駄目です!なりません!」


「起きてください!」


 悲鳴のような声が耳に鳴る。力が入らない。駄目だと分かっていながら目が開かなくなる。


「侍医殿、王妃様の意識が!」


 意識。私の。

 駄目だ。これでは。


 しっかりしなければと手放しかけた意識に気づいた時、周りが一層騒がしくなった。


「……ヒロコ!」


 聞き覚えのある力強い声が弾けた。


「ヒロコ!しっかりしろ!私を見ろ!」


 大きく息を吸って瞼を開けた先に、数時間前に外へ行ったはずの彼の顔があった。眉を八の字にして私を覗き込み、私の頬に触れている。朦朧とした意識で幻でも見たのかと思った。


「ファラオ、なりません!外へ!」


 傍に来たネチェルの腕を彼は振り払う。


「私なら問題ない。死など私が弾き飛ばそう。私はここにいると決めた」


 ああ、本当に我儘な人。

 皆、あなたの身を案じているのに。


「メジット、私がその場所を預かる」


 私を後ろから支えてくれていたメジットの位置に、今度は彼が座ったようだった。支えられる身体にぐっと力が籠められるのを感じた。


「ヒロコ、頑張れ」


 彼が私の耳元に声を掛けた。耐えている内に痛みで涙が出てきて、顔はもう汗や涙でぐしゃぐしゃだ。


「……来ちゃ、ったの?」


 おぼつかない言葉で尋ねると、彼は「ああ」と苦笑した。


「許せ。私はお前の傍にいた方が性に合っているのだ。外で待っているなど堪らない。私が傍にいない時にヒロコに何かあったら困る」


 耳元に寄せられる声に思わず笑ってしまう。

 あなたらしいと言えば、あなたらしい。きっとセテムを振り切って部屋に飛び込んできたのだろう。残されたセテムとラムセスたちが部屋の外でおろおろしている姿が目に浮かぶようだった。


「お前ならば出来る。私の妃なのだからな」


 もう一か八かだと気合を入れ直して、声で答える代わりに首を縦に振った。


 ぎゅうっと陣痛がくる。息を逃がす。また来て、逃がす。ネチェルに呼吸を合わせてもらいながら、十回ほど繰り返した頃だった。


「侍医殿!頭です、頭が見えました」


 頭。赤ちゃんの、頭。


「頑張れ、ヒロコ」


 会える。ずっと会いたかったあの子に会える。

 それからは無我夢中だった。時間がどれだけ掛かったとか、何回いきんだとかは分からない。全身全霊という力をこめて、死ぬ思いでいきんで、目の前がまた真っ白になる。


「もう大丈夫。力抜いて。抜いて、抜いて」


 侍医に言われるまま、息を深く吐くようにして力を抜いていく。


「……ああ、よしよし」


 今までの痛みが、嘘のように消えた。息苦しさが消失して、下半身からは自分のものではなくなったかのように感覚がない。

 その瞬間、小さな咳のような音の後に泣き声が聞こえた。

 誰かが微かな感嘆の声を零し、支えてくれる彼の胸が大きく息を呑んで動いた。一気に広がった静寂にその声だけが流れて、世界がその色一色に染められる。


「なんと元気のよい御子様か」


 ゆっくりと落ちた深みのある侍医の声に、私のどこかが悟った。

 生まれたのだと。これは、あの子の歌なのだと。我が子がこの世でたてた、初めての声なのだと。

 ネチェルが侍医から小さな存在を受け取って麻で包むと、私の傍にやって来た。


「王妃様、お生まれになりましたよ」


 涙ぐむネチェルの声に、身体の芯が震えた気がした。


「可愛らしい姫君にございます」


 ゆっくりと手渡された存在を、彼に手伝ってもらいながら受け取り、麻に包まれる小さな暖かな重みを腕に感じた。顔に張り付いた髪を褐色の手が掬うようにどけてくれる。

 女の子。大きな口を開けて泣いている、まだしわくちゃで、血液もついている小さな子。


 ──ああ。


 生まれた。生まれてくれた。


「よく頑張った!」


 彼の声がすぐ後ろから弾けて、後ろから抱き締められる。その人の頬が、私の髪に擦り付けられる。


「偉いぞ、ヒロコ!!」


 彼や侍女たちから掛けられる言葉に、止まっていた感情が堰を切って溢れ出した。


 やっと、会えた。私の子。私の赤ちゃん。


「私とヒロコの子だ!」


 頭も鼻も口も小さいのに、一生懸命に呼吸をしながら大きな声で泣いている。

 私が、この子を産んだ。言葉に出来ない感情でいっぱいになって咽かえってしまいそうだ。

 愛おしい。自分が産んだなんて信じられないくらい、胸に縋る小さな命が愛おしくて堪らなかった。

 この子のために、私の今までがあったのだろう。辛かったつわりも痛みも身体の変化も、今まで感じていた愛しい胎動も、全てこの時の、この瞬間のため。

 ぼろぼろと涙が溢れて零れていく。この瞬間を迎えるまでに、どれだけの涙を流してきたか。それなのに、今までのいろんな思いすべて洗い流すように溢れて溢れて止まらなかった。


 漏れてくるラーの光が眩しい。それが水晶を覆う涙に反射して網膜を焼く。誕生を祝ってくれる声も見える光景も何も捉えられなくなる。

 子供のように声をあげて泣く私が、それでも確かに感じていたのは、腕の中のぬくもりと、その子ごと私を包んでくれた彼の優しい力だった。






 そのまま私は気を失ったらしく、目覚めた時には夜になっていた。自分は出産を乗り越え、生きていると大きく呼吸をして感じた。

 私の無事を確認した彼は議会のため席を外したらしく、ネチェルと侍医から出産後の経緯を聞き、食事をとり、我が子と再び対面し、それからまた身体を休めるため寝台に身を横たえていた。出産での出血が多かったため、数日間は安静にとのことだった。


 彼が戻ってきた気配がしたのは深夜のことだった。隣の生まれたばかりの寝顔を見やって、何とも言えない不思議な心地を覚えてから視界を彼がやってくる方向へ動かした。四角にくくられた部屋の入口から黒い影が見え、暗さに慣れていた目はすぐに影の正体を捉えた。


「お帰りなさい」


 寝台から頭を上げて声を掛けると、少し驚いた顔が振り返った。


「なんだ、起きていたのか」


「ずっと寝ていたから眠れなくて」


 彼は柔く微笑んでから腕輪を外して放った。その金の色がどこかへ消える。


「……大丈夫だった?」


 出産が終わって私の様子が落ち着くとすぐに、彼は王女の誕生を知らせるための議会を開いたそうだ。何も伝えていなかった大臣やその他の重役がこの誕生を聞いて、どんな反応を示したのか。喜んでくれたのか、知らされなかったことに対する不満を抱いたのか。予定よりかなり長引いたことを考えると、やはり批判もあったのだと思う。


「問題ない」


 こちらに近づいてきた彼は口端を上げた。


「お前が案ずるようなことではない。何とでもなる」


「そう……?」


「今日は休め。あれだけのことをしてのけたのだから」


 私の髪を一撫でしてから寝台に入った。ぎしりと軋んだ寝台に、二人で生まれたばかりの子を挟んだ川の字に並ぶ。

 立て肘に頭を乗せる体勢でため息に似た呼吸を零すと、彼は微かな寝息を立てるその子を、ただじっと伏せがちの目で見つめていた。生まれたばかりのあどけない寝顔に注がれる嬉しそうな眼差しと、優しい表情。思えば、この人がこうして我が子とゆっくり対面するのはこれが初めてだった。


「小さいな」


 掠れた声でそう零した相手の淡褐色は、いつもより大きく揺れている。


「そうね、小さい」


 肌は彼と私を足して2で割ったくらいの薄い褐色。髪の色は少し彼寄り。見るほどに愛しさが膨らんで大きくなってどうしようもない。


「男は駄目だ。感動するだけで、何も出来ぬ」


 その子の手を撫でながら彼が独り言のように呟いた。触れる仕草はたどたどしいけれど、愛おしむように触れるその人に、胸がほんのりと温もりを生む。


「力になろうと思ったのだが、何もできずに終わってしまった」


「私を励ましてくれたでしょう?」


「中でヒロコの意識がと聞こえて気が気ではなくなったのだ。結局は支えることしか出来なかった」


「それだけで十分。あなたがいてくれたから頑張れたのよ」


 一人ではとても耐えられなかった。あのまま意識を失っていたら私もこの子も無事には済まなかったかもしれない。


「随分と嬉しいことを言ってくれる」


「本当のことだもの」


 声を潜めて互いに笑い合ってからしばらくは二人の間に眠るその子の寝息を聞いていた。目にするたび、聞くたびに、言葉に出来ない感情でいっぱいになって胸から湧き上がるもので溺れてしまいそうだった。これはきっと彼も同じなのだろう。


「妹ね」


 産んであげられなかった、あの子の。今も神殿に眠るあの子の。


「ああ、妹だ」


 妊娠して出産を迎えられることがどんなに奇跡的なことなのか。命はなんて、尊いものなのか。それを私の中に宿った二人と彼が教えてくれた。

 産んだらその痛みは忘れてしまうと言うけれど、忘れることはない。どれだけ苦しかろうとこの感動が待っているならまたできる気がする。

 小さな身体にそっと手を回して抱き寄せ、柔らかいその子の肌に唇を落とす。頬に感じる小さな暖かさと小さな寝息。何もかもが小さくとも、触れると飲み込むくらい大きなものになって私のすべてを満たしてしまう。満ちた瞬間に目頭が熱くなって視界が霞んだ。


「私ね、何度も思うの」


 私の目から零れそうになったものを、すっと伸びてきた彼の手が拭う。指先が目尻に流れていくのを感じながら向かいの淡い眼差しを見やった。


「あなたに会えて良かった」


 落ちた言葉に淡褐色が瞬く。


「あなたを愛して良かった」


 この子を見て、今までを振り返って。どうやって伝えたらいいか分からないほどの感謝が、想いが、この胸にある。

 好きになって良かった。愛されて良かった。

 そう続けようとした言葉は、その子ごと抱き込んだ彼の胸元に飲み込まれた。


「私は後悔したことなど、一度も無い」


 そんな彼の口元は笑んでいた。


 後悔したことなんてない。それでもこうして目を閉じて、二人のぬくもりを全身で感じて、心から想う。泣きたいほどに想う。


 愛してる。

 あなたたち二人を、心から愛してる。



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