幸なる君よ
出産してからというもの、名無き人は生きる糧を失ったかのように衰弱していった。吐血下血が増加し、肝不全や腎不全と思わしき症状まで出てきている。典型的な黄熱病末期だった。今思えば、病気の進行を止めていたのは、腹にいたあの子の存在の成せる業だったのかもしれない。
起き上がることも儘ならない彼女は、遠くに聞こえる我が子の声をひたすらに探している。聞こえるたびに涙ぐんでは弱々しく微笑み、か細い子守唄を空気に乗せる彼女の姿は、例えようの無い切なさを孕んだ。
薬もすべて底尽き、成す術は無い。もって数日。明日、今日かも知れない。そんな状態が続く中で、その人は俺を呼んだ。
「……名前をね、決めたの」
いつもの椅子に座った俺に彼女は黄土色のパピルスを差し出した。書くものが欲しいと言われ、医学書の余白の部分を破って与えたのは昨日のことだ。
「もっと、もっと考えてあげたかったけれど……このままじゃきっと、言えなくなってしまうから」
受け取って開いた黄土色の上には、一つの名前があった。力の入らない手で書いたのだろう、文字が揺れて所々が滲んでいる。
「サトラ?」
それらの文字をどうにか声に出して読んでみる。
「シトレよ……シトレって、発音するの」
素直に読むとサトラーだけどね、と彼女は弱々しく肩を揺らした。古代文字の発音は数千年の変遷を越えて複数の読み方を有する可能性があるとされる。これもその一つなのかもしれない。一般的にはサトラーでも、特別な読みでシトレ。
「意味は?」
素敵な意味をつけたいと言っていた彼女のことだから、意味も合わせて考えてあるのだろうと思って尋ねた。聞かれた彼女は嬉しそうに笑み、静かに告げる。
「幸なる者」
幸となれ、と。
「本当はあなたの名前みたいな、素敵な名前がいいと思って……一晩中考えたんだけど、結局これしか思いつかなくて」
一晩も掛けて一人で懸命に考えた、娘への祈りの名。残り少ない蝋燭の火のような彼女にとって、一晩という時間がどれだけ貴重なものか。
「やっぱり、何よりも幸せになってほしい。あの子の人生が笑顔で絶え間なくあるものであってほしい。私があの子に願うのはこれだけだから」
名とは、こうやって誕生するのだ。あらゆる祈りを持って、あらゆる願いを乗せられて、溢れるほどの愛と共に生み出されていくのだ。これは過去も現在も未来も変わらない。俺の名も、きっとそうだった。
「それから、これを」
彼女は自分の手首に嵌められていた、黄金の腕輪を外して俺に差し出した。ずっと大事に彼女が嵌めていた、質素な服に不似合の黄金。受け取ると、相手は遠い眼差しで頬を緩ませる。
「あの人から……夫婦になった時にあの子の父親から貰った、私の宝物なの。あなたからシトレに渡してあげて。沢山の祈りを込めたから」
先に死んだ夫から。結婚指輪に近い存在とも捉えれば、大事そうに肌身離さず持っていた理由がよく分かる。そしてこれを腕に抱けぬ娘へ。
「優しい子になって、沢山の人を愛して、愛されるような子になって……あとは、悪い男に引っ掛からないように……自分を大切にして、大切な人を見つけて……」
溢れんばかりの祈りを、幸なる子に残す。
「それから、それからね」
天井を見つめる美しすぎる二つの瞳が、口が閉じたのと同時に一層の涙を流した。への字に唇が歪み、涙の跡ができた顔を悔しそうに歪ませる。先の言葉が消えて、泣くのを堪える嗚咽に似た声が引き結んだ唇から漏れる。
「これだけの言葉さえ、かけてあげられない……名前しかあげられないことが、とても悔しい。もっともっと、あげたい物も、教えたいことも伝えたいことも、沢山あったのに」
本当は微笑む余裕など彼女にはなかったのだ。自分の娘の成長を見届けられない。この母の想いは、俺に想像さえ許さないくらいに尊く、辛く、重いもの。
「こんな私じゃ、何もあげられない」
「……受動免疫」
ごめんねと音の無い声で呟いた彼女に、俺は堰を切って一つの単語を伝えた。ゆっくりとその眼が俺を映す。
「あんたが娘に残したものだ」
聞きなれない言葉に彼女は泣き顔のまま、首を傾げた。
「じゅ、どう……?」
受動免疫とは、抗体を体外から与えることによって獲得される免疫。胎児が胎盤を通し、母体から抗体を受け入れるものも一般的にこれに分類される。この時代に生きる彼女に話しても理解できないだろうと、伝えてなかったものだ。下手な説明になるくらいなら、言うべきではないと分かっていながら言わずにはいられなかった。
「この病気に感染すると、もう二度と感染しない終生免疫、つまり神から護符がもらえる」
出来る限り、この時代でも理解できる言葉を含めて説明する。
「本来ならその病気が完治した時にしか働かない護符で、死んだら使えない。治った者だけが使える特別なものなんだ。でも今回は、それが腹の赤ん坊に伝わって、作用した」
軽症の場合、完治後にこの免疫の働きのおかげで二度と黄熱病に感染しなくなる人間生体メカニズム。これが終生免疫。黄熱病は、終生免疫を人体に作らせる代表疾患の一つだ。
「母親には使えなくても、この護符が臍の尾から伝わってあの子を黄熱から守った」
終生免疫が母親から胎児に送られ受動免疫となり、胎児を感染から救った。これが、俺の推測する感染者の胎内にいながら子供が黄熱病に感染しなかった理由だ。
「母親のあんたが、シトレを病気から守ったんだ」
「私、が……守った」
守った。名無き人、君が。
信じられないと見開く瞳からぼろぼろと、行く宛をなくした涙が落ちては麻に沁みていく。
「これ以上の母親からの贈り物がどこにある。あの子はこれからそれを持って生きていくんだ。あれだけの思いをして産んだのに、何もあげられなかったなんて言うな」
我が子を命を懸けて守ったこと以上に、素晴らしいことがあるだろうか。
「そう……そうなの」
穏やかに瞬いた目元が柔らかく動く。
「私から残せるものがあったのね。嬉しい」
瞬いた弾みで、何度落ちたか知れないそれが目尻に跡を残して行く。
「嬉しい」
彼女は、泣きながら笑った。
二日後、名無き人は静かに死んだ。子供を抱くこと無く死んでいった。
その日の夕暮も過ぎた頃、誰とも知れない男たちに担架に似たもので運ばれていくのを、冷たくなった寝台の傍から見送った。あまりにも呆気ない。
救えただろうか。淡々と過ぎていく時間の中で彼女がここにいた数週間を振り返ってみたが、この問いに答えをくれるものは何も無い。最後の免疫の話を彼女がちゃんと理解してくれたのかも、今となっては分からない。
疲れが一段と酷く感じて、そのまま寝台に身体を横たえた。隣にはティティが彼女に与えたイムホテプ神像が無雑作に転がっている。割と手荒に遺体が運び出されたからその弾みで倒れたのだろう。一緒に持って行ってもらえば良かった。だが、ミイラにされた身元不明の彼女は棺にも納められず、集合墓地に他のミイラに積み重ねられてそれで終わり。結局持って行ってもらっても行かなくても虚しいのに変わりない。
茫然と寝台から天井を仰いで、周囲に降る沈黙を聞いていた。彼女が死んでいく時に眺めていた天井だ。彼女は、何を思って死んで行ったのだろう。
ついには目を開けているのも億劫になり、瞼を閉じようとした時、か細い声が耳に届いた。彼女が何度も探していた声。
──泣いている。あの子が。
引き寄せられるようにして身体を起こす。止まない泣き声は、そちらに行かなければと思わせた。重い足で床を踏みしめ、俺は身体を引きずるようにして泣き声の方へ歩き出していた。
部屋を越え、香油の香りに満ちた部屋に入ると、奥の寝台からぎゃあ、ぎゃあ、と声がしていた。近づいてみて、ようやくその小さな存在が見えた。ティティが母乳の出る女を呼び寄せて世話をしていた、この子。彼女が産み残した、幸の名を持つ赤ん坊。半ば開かれた小さな手と膝から曲げられた小さな足。歯も無い真っ赤な口の中。大きすぎる麻の服を揺らして、泣き声を止めることは無い。小さな雫を目尻に浮かべて泣いている。
周りを見渡しても真っ暗な空間が無駄に広くあるだけで、自分とこの子の他に誰もいなかった。どうしたらいいのか。放って踵を返す気にもなれず、何と言うことなく手を伸ばした。手は赤ん坊に近づいて、小さすぎる掌に当たる。すると、触れたこちらの指が小さな手にぎゅっと掴まれ、水を頭から掛けられたように俺の身体は小さく跳ねた。
理由はうまく言えない。想像以上に赤ん坊の力が強かったからだとも言えるし、その手の温か味に驚いたとも言える。理由がはっきりしないまま、一瞬強張った身体の力を緩め、恐る恐ると言ってもいい動きで自分の指とその子の手を見つめた。
大きさがまるで違う、二つの手。今朝触れたこの母親の手はあまりに冷たかったのに、指に吸い付いた小さな5本の指はあまりにも暖かい。その対が、泣きたいほどにまた虚しい。
人差し指に巻き付く小さな指を、自分の親指でそっと撫でる。そうしている内に、この赤ん坊が何を求めて必死に、その声を上げているのか分かった気がした。──母親。もうどこにもいない母を、この子は求めているのだ。
「シトレ」
床に膝をついて母である彼女が呼べなかった名で、その子を呼ぶ。
シトレ、幸なる君よ。
母の残した金の腕輪を取り出し、そのすぐ隣に置いた。暗い中で、それは美しくその子の顔を黄金色に照らし出す。涙を傍の布で拭ってやったら、その涙さえ暖かくて何も言えなくなった。
お前は、知らないで育っていくのだろう。母の名も、母の顔も。あれだけ愛してくれた母の想いも。何もかも。
手にした子供のぬくもりに、俺は泣いた。泣く子供の前に泣き伏した。情けないくらい、嗚咽を放って泣いていた。
あの女が死んだからか。あの女に同情してか。母に抱かれずに終わったこの赤ん坊を哀れに想ってか。それもあるだろう。
それでも今、こうして彼女が命を懸けて守ったその子の穢れの無い瞳を見て思うのは。否定する間もなく感じるのは。触れている命が、これだけの重さを持っているということ。
自分は彼女の残した命に泣いている。そして、自分が過去に殺めた命も、これと同様であったことに気づかされて泣いている。
俺が、あの薬で殺したのはこんな存在。これだけの命の重みだったのだ。
何という事をしたのか。憎いからと言って生まれてもない赤ん坊を殺す理由がどこにあったのか。何の罪があった。殺した子に何の罪があった。憎しみの先を何故赤ん坊に向けて殺めた。
同じではないか。名無き人を殺そうと息巻いていたあの家族とも呼べない家族と。なのに、俺はまた繰り返そうとしている。アイの命令に従い、この手で、子供を殺そうとしている。そんな悍ましいこと再びやると頷いた自分の惨さに、両手で髪を掻き乱した。
「……出来ない」
無理だ。もう。
「俺にはもう殺せない……!!」




