エピローグ
「眠い……」
コックコートを身に着けた、洋菓子店Freeの店主兼パティシエの自由は、客のいないまったりとした時間、店のカウンターにいつものようにだらしなくつっぷしていた。
自由が意識不明の重体で病院に運ばれ、一週間の入院の後、リハビリも終えて、医者に完治と言われてから、まだ日付はあまり経っていない。
だが、彼には以前と同じような日々が戻って来ていた。
変わったことと言えば――以前より働かされていることが一番に挙げられるだろうか……。
「寝たい……」
とろんと目を閉じかけながら、自由は最近の暇のない日々を悲しく思った。
今度こそ本当に二度と自由に力を使わせないと決意した由実は、自由を仕事に従事させて、他のことなど手につかないよう、なんと定休日をなくしてしまったのだ。
『なんかそういうの駄目って言う法律あったよね!?』
『大丈夫! ノブさんと相談してうまくやるから!』
それは本当に大丈夫なのか、と自由は思ったが、結局上手く反論できなかった。
倒れて起きて泣かせてしまって以降、自由は以前に増して由実に対し強く出られないのだ。一度は由実を置いていってしまったという負い目も、あるだろう。
もし抜け出してばれたら、怒るより先に泣かれそうで、それが自由には怖かった。兄として、彼は妹の涙を見たくないのである。
ほとぼりが冷めるまで、しばらくは大人しくしていよう、と自由は決定実行しているのであった。
だが、自由が働き詰めなのは、それだけが理由ではない。経済的な理由もあった。むしろその理由の方がある意味切実だ。
そう、金がないのである。
麻耶のことで逃亡していた期間を含め、自由が完治するまで結構な期間店を休んでしまったから、まずその間の収入がゼロ。
それなのに、保険に入っていたとはいえ、治療費・入院費が嵩んだ。義信が立て替えてくれたが、彼への借金を返さなければならない。
その上、居枝からも請求が来たのである。曰く、『自由くんが倒れたって聞いて、功居が動揺して力を暴走させちゃって……。うちの中の色んなものを破壊しつくしてくれちゃったのよね。というわけで、弁償よろしく』
それを自由に断る術などあるだろうか。いやない。
そういうわけで、自由は日々真面目に――客の来ない時間帯居眠りしながらもそれ以外は真面目に、仕事をこなしているというわけだった。
――俺、頑張ってるよねェ……。
ちょっとくらい、寝ちゃってもいいよねェ……。
自由は欲求にほとんど抵抗もせず負けて目を閉じたが――。
「また寝こけて、自由!」
すぱん、と良い音を立てて頭に衝撃。
振り返れば、学校から帰ってきたばかりの由実が、制服姿で腰に手を当てて立っていた。
由実が自由の頭を拳で殴るのではなく、平手で叩くようになったのも、変化のひとつかもしれない。力加減が優しくなったと、自由は感じている。勘違いではない、と思いたかった。
「おかえりー」
「ただいまっ。もう、しゃんとしててよ、今日は功居くんたちが遊びに来るって言っておいたでしょ」
「そうだったねェ……」
自由の頭に、借金の取り立て、という恐ろしい字面が浮かんだ。
正直、麻耶の周りのヤクザより、居枝の取り立ての方が余程ヤクザかもしれないと、自由は思う。別に居枝は暴力を働いたりしないが、『マイセンの食器が』とか、ことあるごとに語ってくるのが恐ろしいのだ。その時の表情が笑顔だったり懐かしそうだったりして、自由の心臓にまるでとどめを刺さんとするかのごとくである。
麻耶といえば、彼女の病気は自由の力で完治していた。あの後麻耶は色々と検査を受けたが、全ての数値で異常なし、全くの健康体と診断されたらしい。
自由は千里から五体投地のやり方で感謝を捧げられてドン引きしたが、最後まで何とか自分の力ではないと否定し続けた。だが、千里は自由を麻耶の命の恩人と信じて疑っていない。自由を信仰でもしそうな勢いなので困っていたが、店を再開してから、彼は麻耶と共に頻繁にケーキを買いに来てくれるので、それに関してはとても有り難かった。しかも彼は、舎弟にも、と大量に購入してくれるのだ。お金を落としていってくれる客という名の神様を、自由の方が崇め奉りたいくらいだった。千里に関しては、例の、義信と交わした契約があるので、義信から何か言われるかと思っていたのだが、それもない。確かめてみれば、洋菓子購入が目的の来店なら可、とちゃんと千里は義信に許可を得て来ているようだった。
由実は先ほど『功居くんたち』と言っていたので、この後、功居はもちろん、居枝も来るし、麻耶も来るし、千里も来るであろう。
寝たくても寝られないなと、自由は目を覚ますように頭を振った。
それに、自由の白い髪が揺れる。
黒髪に大量に混じっていた若白髪は、今ではその勢力を増し、むしろ黒髪が見られないほどになっていた。
それに白のコックコートを身に着けているので、自由はそれこそ本当に空に浮かぶ雲になったかのような様子である。
「着替えたらすぐに下りてくるからね。さぼらないでよ。功居くんたちが自由を見習ったら大変」
「はーい……」
軽い足取りで由実が二階へ上がっていくのを聞きとりながら、自由は力なく返事をした。こころなし、以前より由実の言葉が柔らかい気がするのも、本当にただの気のせいという可能性も大きいが、自由には嬉しく感じられることだった。
言葉通り由実はすぐに下りてきて、由実が下りてきたかと思えば、カランカランと、店のドアベルが爽やかな音を立てる。
「こんにちは!」
複数の声が重なって、大小四つの人影が店に入ってきた。
仲良く手を繋いでいるのは功居と麻耶、その後ろに保護者である居枝と千里がついてきている。
「いらっしゃい」
空いた手をぶんぶんと振って親しみを見せてくれる子どもたちと、その保護者に、笑顔で兄妹は応える。
挨拶を済ませるとすぐ、子どもたちは気になるショーケースに張り付いた。
きらきらと輝く子どもたちの目に、大人たちの笑みも深まる。
「きょう、まやちゃん、どうする?」
「うーん、いちごのケーキ、でも、あれもおいしそう……」
「はんぶんこ、しよう」
「……うん!」
微笑ましいカップルである。
自由は小さな指で示されたケーキを皿に取り分けると、テーブル席まで運んでやった。ジュースもいっしょだ。
その後に、居枝もティラミスと紅茶を頼む。ちなみに、功居と居枝の分のケーキと飲み物の代金は無料だ。その代わり、借金は減るが。
千里は飲み物のみの注文だったが、帰りに持って帰りたいと、大量のケーキを注文してくれた。今日も今日とて、彼は良いお客様である。五体投地も止めてくれるようになったし、と自由は居枝の後の千里の有り難さが身にしみるようだった。
居枝には恩があるし、人として好きなのだが、先ほど述べたように、借金取りは怖いのである。息子である功居を悲しませたという罪の意識もある。自由にとって頭の上がらない人物は増えていくばかりだ。
功居たちに続くように、他の客も次々に来店してきた。
――この店も、賑やかになったよねェ……。
嬉しいが、忙しくて涙が出そうだ。
「……コーヒー」
ようやく一段落、というところで声をかけられ、自由はぎょっとした。
目の前に、義信が立っている。
「ノブ、いつの間に来てたの」
「さっき」
短く答える義信の注文に、素早く由実が動き出した。
「繁盛してるじゃないか」
「そうだねェ……」
「なんだその返事は。不満なのか」
「そろそろ休みをいただきたいなァと……。ノブ、由実に法律は遵守しなきゃいけないってちゃんと忠告したげて!」
「自分で言え。というか、彼女の方針を俺は全面的に支持している。諦めて働け。お前にはこれから死ぬまで休みなどないと知れ。それくらいしてようやくお前は責任をとれるというもんだ」
「ひどい……」
よよよと泣き崩れそうになったが、由実がコーヒーを持ってきたのでそれもできなくなった。
「ノブさん、ケーキは食べていかれませんか? 新作のジュレも、甘すぎず爽やかで美味しいですよ。ほんと、自由が創作したとは思えないくらい!」
「じゃあ、それをもらおうかな。こいつにできることは美味しい洋菓子をつくることだけだからね。それだけでも楽しませてもらわないと割に合わない」
「そうですよねー」
力いっぱい肯定して、由実は頼まれたものを義信に渡した。
変わらない二人の毒舌が、自由の耳と心に深いダメージを与えた。
本当は自由とて、義信には助けられた礼を言いたいのだが、あれから始終こんな感じなので、自由は素直に感謝の言葉も告げられずにいるのだった。
もしかしたら義信も、それを察してこんな態度を続けているのかもしれない。素直に感謝されるのを照れているのか、そんな自由は気持ちが悪いと見たくないのか。
――全く、ホントにこれじゃ、こうして責任取り続けるしかないよねェ……。
賑やかな店内を、自由はぐるりと見渡した。
二人でケーキを半分ずつにして、楽しそうに美味しそうにしている功居と麻耶。
そんな子どもたちを温かく見守る、居枝と千里。
涼しい顔でコーヒーを飲んでいる義信。
新しくやってきた客に笑顔で対応している由実。
ショーケースに並ぶ、宝石のような自由のケーキたち。
窓の外には、青空が広がっている。
きれいな、空だ。
自由は目を細めて、それを見つめた。
――あそこにいくのは、もう少し先になりそうだなァ……。
それも悪くはない、と自由は思った。
ここだって、悪くはない。
自由にとって、いたいと思える、場所。
そうだ、例えるならば、ここは――。
自由は思って、この例えはちょっと不吉かもしれないけど、と、穏やかに微笑む。
――ここも、空だ。
地上にある、空みたいなものだ。
おわり
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!




