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地上の空  作者: 隠居 彼方


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青空を飽くことなく眺めていたのは、父だった。

幼い自由は、最初父は鳥を見ているのだと思った。もしくは、飛行機を。


『おとうさん、そら、とびたいの』


小さな自由の質問に、父は目を瞬かせて、そうだなぁ、と口を開いた。


『空を飛べたら気持ちいいだろうなぁ』

『だから、みてるの』


自由が鳥を指差せば、父は笑った。


『そうだな。うらやましいよな』

『うらやましい』

『だって気持ちいい上、あんなきれいな空の近くにいられるんだぞ。父さん、パイロットにでもなれば良かったかなぁ』


父は自由を側へ招き寄せた。


『ほら自由、お前もきれいだと思うだろう? お前のじーちゃんもきっとあのきれいな空にいるんだぞ』

『じーちゃんあんなとこにいるの』

『あんなとこって何だ。きれいだろ。それにじーちゃんが見守ってくれてるからこうして父さんも自由も元気で生きてるんだぞ』

『じーちゃんたいへん……』

『そこは、同情するとこじゃないんだけどなぁ……』


父は苦笑して、空に視線を戻した。


『色々悩んでる時とかな、こうやって空眺めて、じーちゃんにどうすればいいと思う、って聞くと、答えが返ってくる気がするんだよなぁ。自由も何かあったらじーちゃんに聞いてみなさい』

『じーちゃん……』

今日のおやつはなに、と自由はとても真面目に聞いてみた。

答えは返ってこなかった。


『……おしえてくれないよ、おとうさん』

『ま、そういう時もある。うん。でも、こうして空見てるだけで、こう、何だか幸せになれるだろ?』


自由は不可解な表情を隠さなかった。

父は、お前にはまだ早かったかな的な表情を浮かべて、肩を落とす。


『うん……、今の自由が幸せになるにはおやつが必要なんだよな……。ちなみにお母さんが昨日の夜プリンを作っていたぞ。良かったな』

『ぷりん!』

自由は目を輝かせた。


『おとうさん、じーちゃんにきいたことわかったの』

自由、お前、声に出していたからなぁ、と、父は言わなかった。

『父さんもいつかは空にいくからな。今からこうして修行しているんだ。父さんが空にいった時には、父さんにも色々聞いてくれていいからな』

『うん』


自由は素直に頷いた。

父が空にいくときが、どんな時なのか、その時の自由は知らなかったのだ。


そして、父が亡くなってから、父を模倣するように、自由は空を眺めるようになった。

父の空白を埋めるように。寂しさを、埋めるように。


自由の後ろ姿が父にそっくりだと母は笑っていたけれど、本心ではもしかしたら止めさせたかったのかもしれないと、自由は思う。

父を追うように自由もいなくなってしまうことを、母はずっと恐れていたのではないかと。

それを何となく知りながらも、自由は空を眺めることを、いつしか止められなくなっていた。

父に代わるように、癒しの力を使うようになったから、そのせいかもしれない。

小さな自由は、少し歳の離れた妹が可愛くて、妹が動きまわって怪我をする度に治してやった。

けれどそれに母は悲しそうな顔を隠さなかった。自由に力を使ってはいけないと、何度も何度も言い聞かせた。

妹の嬉しそうな笑顔と、母の悲しそうな顔と。

どちらにも笑ってほしかった。どちらにも涙させたくなかった。


一体自分は、どうすればいいのか。


自由の心は混乱し、ぐるぐると回った。

答えが欲しくて、ずっと空を見ていた。

父の声が聞こえてくることは一度もなかったけれど。

それでも、思い出の中の父の声が語りかけてくれれば、少しは心が晴れた。

確かに空はきれいで、それが心を解してくれるような気がした。

うらやましいと、父が言っていたことが、自由にもよく分かるようになった。

きっと、あそこに行けば何の煩悶もない。自由でいられる。

自由という名前をつけられて、フリーダムだと言われて、確かにマイペースには生きてきたけれど、自由は全く自由なんかではなかったから。

いつしかあそこに行けるんだと思えば、不自由な心も安らいだ。


だが、結局はそれも逃避だ。

空にいる父は答えをくれなくて、自分で解を出さなくてはならないのに、答えはいつまで経っても出ないまま。

ついには母をも、亡くすことになった。


――大切な人を助けられないなら、どうしてこんな力があるのか。


由実を泣かせて、自分自身も傷ついて。

自由は、助けたかったのに。

母を、治したかったのに。


そうだ。


自由は、苦しんでいる人を助けたかった。

治して、悩んで、我慢して、悩んで、治して、悩んで、我慢して、治して、悩んで。

ずっと繰り返していたけれど、答えは最初から胸の内にあったのだ。

ヒーローになりたいわけではなかった。大層な自己犠牲の精神だってない。

使える力以上のことをしようとは、思わない。

病人や怪我人など世界中にいるのに、不公平ではないかと罵られても。

ただ、目の前で苦しんでいる人を見るのが、自由は嫌だった。自分自身が苦しいのも痛いのももちろん遠慮したいが、それ以上に他の人を苦しむのを見るのが、耐え難かった。

手をかざして治す以上のことはできないけれども、でもそれだけはできるのだから、この力はきっと、使うべきなのだ。


多分、父も色々と悩んで、結局そういう答えを得たのではないだろうか。

そして、逝ってしまった。母を、由実を、自由を置いて、いってしまった。

それを責める気持ちは、自由にはない。

父がいってしまったことは寂しかったけれど、それでも父が笑っていられたのなら、それで良かった。

ただ、せめてもう少し金を残していってくれたら、母が楽をできたのにとは思うけれども。

そう息子に言われて、肩を落として嘆く父を自由は想像できた。


ふ、と自由は笑う。

父を責める資格も、最早自由にはないのだ。

彼も同じ。由実を一人、残して来てしまった。

ここに。空に。






――空、なのかねェ?


茫洋とした周囲を見渡し、自由は思った。

自由と空間だけがあって、色も温度も何も感じられない場所。少なくとも、自由がぼんやりと想像していた「空の世界」と違うことは確かだった。


けれど、死んだら空へいくなんて、この歳になってまで本当に信じていたわけではない。

あの時意識を失ってから、後はもう何もないものだと思っていた。

ただ、あの空に全てが溶け込むような思いでいれば、安らいだ気持ちでいられたから。とても幸せで、素晴らしいことのように、感じられていたから。

それが単なる感傷や願望に過ぎなくても、自由は静かに目を閉じられたのだ。

だが、きっと何もないと思っていたことこそが間違っていたかのように、自由の意識は確かにここにある。

まるで夢の中にいるようだと、自由は思った。


――死ぬ直前、みたいな感じなのかなァ……。

走馬灯のように、ではないが、自由は由実の顔を思い浮かべる。

やっぱり泣くよなァ、と罪悪感が疼いた。

だが、父よりはまだマシなはずだと、自由は父親が聞けば酷く傷つくであろう言葉を呟く。

義信という友人をゲットしておいたから、少なくとも由実が母のような苦労をすることはないだろう。


――あ、これ、ノブが聞いたら俺殺される。三回くらい。

そのつもりで義信と友人関係を結んだわけでは決してないが(自由はそんなに先のことを考えて行動するタイプではない)、本当に彼がいてくれて良かったと自由は思っている。

そんな義信に自由ができたことは、自由なりに美味しい菓子を作ることくらいで、全く借りは返せなかった。恩を受けたのはこちらだと義信は渋い顔で言うが、彼は恩以上のものを自由に返し過ぎている。

――由実で勘弁してくれるといいなァ……。

今度は確実に二人に殺されそうな失礼な台詞を自由は吐いた。


――俺がいなくなって頭痛の種もなくなって、二人で幸せにやってくれたらいいんだけど……。

二人の怒髪が天を衝くだろう言葉をのうのうと口にした後ではあったが、それは自由の心からの願いだった。

大切と思える二人が、幸せに並ぶ姿を、見届けたいという気持ちも、本当は、あった――。


ずしりと身体が重くなるような錯覚。

そんな未練を振り切るように、自由は首を振った。

誤魔化すように、彼は考える。

それにしても、いつまでこの何もない場所にいればいいのかと。


実は本当に死後の世界があるのだろうかと、自由は訝った。

それならば自分に迎えは来るのだろうか。

父や母に、また会えるのだろうか……。

会えるものならば――会いたい。

目を閉じて、父の姿を、父と肩を並べる母の姿を、自由は思い浮かべる。

何度も思い返した光景の中、空を見上げるため背中を向けていた父が振り返り、自由に言った。


『自由。でもな、空にいってしまったら、もうこのきれいな空を見ることはできないんだ。この空を見ることができるのは――地上でだけだ』


逆光の中で、父の表情は見えない。だが、その声はとても温かだった。

母がその隣で、同意するように頷く。母は、微笑んでいる。多分、父も。はっきりとは見えないのに、自由にはそれが分かった。


――え、あれ?

こんなことを、父は言っていただろうか。

身体が先ほどよりもずっと重く感じられる。

錯覚ではなかった。

だんだん重くなる。

瞼が開けられない。


――父さん、母さん、


そうだ。もう、あの空も見られなくなる。

またぼうっとしてと、由実の叱責を聞くことも。

またお前はと、呆れた義信の声を聞くことも。

甘くて幸せな菓子を、皆で囲んで食べることも。


――本当に、もう、ないんだなァ……。


やっぱ、それもちょっと、嫌かも。
















この身体の重さをどうにかしてくれないだろうか。


思いながら、自由は何とか今度こそ瞼を開けることに成功した。

途端、光が視界に溢れ、顔を顰めて何度も瞬きをする。


――あれ、さっきと違う……。

とうとう召されたのか、と思ったが、自由はすぐにその天井、壁に見覚えがあることに気付いた。


――っていうか俺、このパターンで目覚めたことが何度も……。

自由はすぐに思い当たる。

どう見ても、よく知る病室だった。大部屋ではなく個室らしいという点だけが異なっているが。

死んでから病室で目覚めるなんて、そんなことあるのか……いや。

ないだろう。


自由は否定して、さらに目から情報を仕入れようと首を動かした。

――由実。

ベッド脇に、由実が立っている。

信じられない、というような顔の彼女と、視線がばっちり合った。


「じゆう」


唇だけが動いて、自由の名前を呼んだ。

途端にくしゃりと由実の顔が歪む。


――あ、やばい、泣く。


もちろん、自由が、ではなく由実がである。

兄が思った次の瞬間には、由実の瞳からは大粒の涙がぼろぼろと流れ出していた。


「自由、自由、お兄ちゃん……!」


由実は膝をつき、自由に縋りつくようにわあわあと泣き出した。


――お兄ちゃんとか、何年振りだろ……。

宥めるために頭を撫でてやりたかったが、腕が重くて持ち上がらない。


自由が困っていると、病室のドアが開いた。

何とか自由が首を回すと、功居と居枝がそこにいて、目を丸くしている。

二人が入れるよう、ドアを抑えているのは義信だ。

自由は助けを求める目で義信を見つめた。

しかし義信は冷ややかに自由を見返すだけだ。

『自分の責任は自分でとれ』

意識を失う前に義信が言った言葉を、自由は思い出す。あの時と、同じ目だ。


結局、一番に動いたのは、功居だった。

「じゆう、じゆうおきてる! じゆう……!」

タックルをかましてきそうな勢いで駆け寄られて自由は身構えたが、功居は由実の隣で止まり、自由の上のシーツを掴むと、由実につられたように大声で泣き出した。

泣き声の大合唱に、自由は途方に暮れる。


「自由くん、起きて良かったわ」

「医者を呼んできます」

「私はまずこの花を生けてくるわね」


――えええええ!

居枝と義信の声が耳に入ってきて、自由は慌てた。

泣く子らをこのままにして行くのかと突っ込みたかったが、口に出すより早く二人はさっさと行ってしまう。

――ええー……。


どうしろと。


取り残され、上手く二人を宥めることもできず、自由は良かった良かったと泣く声をひたすら聞き続ける。


――死ななかったんだ、俺……。


青い空が、窓越しに見えた。


――生きてるんだ、俺。




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