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地上の空  作者: 隠居 彼方


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10/13

9



何日振りか、ようやく自宅に帰った由実は、ひとまず店を整えることにした。

ショーケースに残したままだった生菓子のことが気になっていたのだが、今はすっかり空になっている。

義信からは特に何も聞いていないが、おそらく気を遣って片付けてくれたのだろう。

あの後、侵入してきた男たちが乱暴な振る舞いに及んだようなこともあったかもしれないが、そうした痕跡もない。

店は綺麗すぎるほど綺麗に片付いていて、由実が改めて掃除する必要はないように思われた。


「掃除は、開店前でいいか……」


ひとりごちて、由実はレジをチェックする。

レジは電源がちゃんと落とされ、鍵もかかっていた。これも義信の気遣いだろう。

さすがと、由実はそつのない義信に感謝しながら、レジの中身を確認する。

中には一切手はつけられておらず、男たちが銃を持って現れた時点までの売上がそのままになっていたので、それを通常の閉店時と同じように処理する。


それから彼女は、厨房へ入った。

さすがに冷蔵庫の中はそのままで、使えなくなったものなどをゴミ袋に放り込んで行く。


「仕入れしないとなぁ……。明日から開店できるといいけど……、自由がちゃんと帰って来てれば――」


言いかけて、由実は唇を引き結ぶ。

少し油断してしまえば、再び兄への怒りと憎悪が、涙となって零れ落ちてしまいそうだった。

兄のことを考えないように、店のことや家事のことで頭をいっぱいにしていたというのに。


由実は己の感情を振り払うように首を振った。

自由は見舞いが終わったら帰ってくるはずだ。

そうしたら仕入れをさせて、それによって開店は明日か明後日からになる、と段取りを考える。

由実は兄のことをひたすら事務的に考えようとした。


――麻耶ちゃんを助けたかどうかなんて、聞かない。


ただ、自由がまた力を使わないように。

これからも今までと同じように過ごしていくだけだ。

そうすることしか、由実にはできない。

そうすることしか、できないのだ。

――結局、自由のことを止められもしないのに。

そう思って、由実は顔を歪ませた。


「……っ」

堪え切れずに、ゴミ袋の隣にしゃがみこむ。

嗚咽が漏れそうになるのを、膝を抱えて抑えた。


――麻耶ちゃんを助けてあげて。

――お母さんの言う通りにして、麻耶ちゃんのことはお医者さんに任せて。


矛盾する自分がどうしようもなく、同じくらいに、こうして泣いて喚くしかできない自分が、由実は情けなかった。


どうして自由はあんな力を持って生まれてきてしまったの。

どうして母は自由の力を使うなと言い続けたの。


――苦しい。


本当は、「どうして助けてくれなかったの」なんて、責めるような言葉口にしたくなかった。

「助けに行くな」なんて残酷な言葉、吐きたくなかった。

そんな身勝手な言葉しか口にできない自分の無力さを、知りたくなかった。

何よりも、たったひとりの家族を傷つけることを、由実とて望んでいるわけではないのに。

自由にあんな力さえなければ……!

何度、そう思っただろう――。


高ぶる感情のまま、由実はしばらく泣き続けたが、いつまでもしゃがみこんでいるわけにはいかない。

乱暴に涙を拭うと、彼女は立ち上がり、いっぱいになったゴミ袋を引っ掴んで所定の位置に持っていった。

これ以上厨房にいては、自由のことを思い出してぐちゃぐちゃの感情を持て余すだけだ、と思って、自室に引きこもることにする。

何しろ明日から学校で、今回の騒動で由実は数日間学校を休んでいる。どこまで進んだか分からないが、予習しておかなければ授業についていけなくなってしまうだろう。何より、勉強している間は余計なことを考えずに済むはずだった。

その前に部屋に掃除機くらいはかけておこうと、由実は居住スペースである二階へ上がりながら考える。


その時だった。


ピンポーン、と、どこにでもあるような家の呼び鈴の音が響く。

今この顔を第三者に見られたくない、と思いながら、由実はインターホンのカメラに映る人影を確認した。


「え……、ノブさん!?」


先ほど別れたばかりの義信の姿に、由実はインターホンを取る時間を惜しんで、すぐに居住スペースの玄関へ向かう。由実がいることは義信も分かっているはずだから、インターホンをとらずとも待っていてくれるだろう、と分かってもいたのだ。


――何か、あったの……?

胸騒ぎを覚えながら、由実は玄関を開けた。


「ノブさん、」

「ごめん、一応携帯にもかけたんだけど、」

「いえ……」


義信に借りていた携帯電話は既に返却している。

由実の携帯電話は、帰って来てから自室で充電を始めたばかりだった。一階にいたので鳴っても気付かなかったのだろう。


「それより何か……」


言いかけた由実を遮るように、義信は淡々と告げた。


「自由が倒れた。意識不明の重体だ」

「――え?」


義信の言葉が理解できない。

顔を強張らせた由実の手を、義信はそっと取って促す。


「行こう。助かると信じたいが……、最後になるかもしれない」

「何、を、言って……」


その言葉を理解していないのに、恐怖を覚えて由実は戦慄いた。

義信は気遣うような、痛ましげな眼差しで、唇を震わす由実を見つめる。


「表に車を待たせてあるから。由実ちゃん、靴を履いて」


動かない頭でも、由実はその言葉に従うように靴を履いた。

義信に手を引かれるまま、玄関から外へ出る。

ちゃんとインターホンを鳴らして来訪を知らせたが、実は貸主として合鍵を持っている義信が、茫然としている由実に代わり玄関の鍵をかけた。

その音が、由実にはとても大きく聞こえた。






どういうことどういうことどういうことどういうこと。


発進した車の後部座席で、由実は身体を硬くして座っていた。

その左隣に、義信が座っている。

運転しているのは義信の部下だ。

前部座席と後部座席の間にはガラスの仕切りがあり、話が運転手に聞かれないよう、義信が配慮したようだった。


車が動き出すまでの時間に、さすがに由実も義信の言葉を呑みこんだ。

青白い顔で、彼女は問う。


「……一体何が起こったんですか? 意識不明……って、自由、帰りに事故にでもあったんですか?」

「いや」

義信はきっぱりと首を振った。


「麻耶を助けたからだ」

「助けたから……、って、まさか、暴力団の人に何か……」


その台詞に、義信は苦笑を浮かべる。

「違うよ」


由実の方を見ず、真っ直ぐ前を見つめて、義信は続けた。


「今回、自由の力を欲した相手に、俺はこう言った。『どんな怪我でも病気でも治して、皆を救える奇跡の力なんて、この世界にあるはずがない』」

「それは……」

「自由は確かに怪我や病気を癒すことのできる手を持っている。けど俺は、嘘をついたつもりはない」


どうして今その話なのか。

困惑しながらも、由実は義信の言葉に耳を傾けた。


「何故なら、自由の力は無限ではなく、使用にも制約があるからだ」

「制約……?」


なんだそれは――と由実は眉を顰めた。そんな話を、由実は母や自由から聞いたことがない。


「少なくとも制約は二つ。一つは――、自由が癒しの力を使った時、対象は治癒されるが自由の生命力は削られる」

「え……?」


由実は目を見張り、義信の言葉を咀嚼した。

それは、つまり、どういうことなのか――。


「自由がよく眠るのは、眠たいというより起きていられないんだろう。自由は幼い頃から力を使い続けている。長く生きるためには、多く眠って生きるための力を損なわずにいるしかない。身体の自衛反応だ」

「それじゃ、麻耶ちゃんを助けたから、っていうのは……」

「そうだよ。麻耶を助けるために、あいつは自分に残っていた生命力を限界まで使ってしまった。それで倒れたんだ」

「じゃあ、じゃあ、お母さんが自由に力を使うなって言ったのは、それが分かっていたから……!」


義信は頷いた。


「自由と、由実ちゃんのお父さんの死因もそれだ」

「お父さん、も……?」


父の記憶は、由実にはない。

由実が生まれて一年後に亡くなってしまったからだ。

由実は病気で、と聞いていた。


「自由の力は遺伝なんだろう。それで君たちの母親は知っていたんだ。力に制約があることを。だから自由に散々念を押した。自由を守るために」

「そんな……! そんな事情があるなら、どうして私に教えてくれなかったの……!」


その言葉は、この場にいない母や自由に向けられたものだった。


「……言うべきだとは、俺も、思っていた。でも、自由の気持ちも分かっていたから、今日まで何も言わずにきてしまって……、ごめん」


神妙な顔で謝罪する義信に、由実は慌てて首を振った。


「いえ、ノブさんが謝ることなんて……!」

「いや、由実ちゃんが悩んでいるのは分かっていたのに黙っていたんだから、同罪だよ。……沈黙も真実も、同じように君を傷つける。それならば、まだ自由を責める方がマシだと思ったんだ」

「……!」


義信の言葉に、由実は自由たちが何故彼女に打ち明けることをしなかったのか、その理由を察した。


「……自由、私のことも何度も治してくれた。だから……、だから何も言わなかったの? 私、私が……」

「由実ちゃん」


震える由実の手を、義信は強く握った。


「悪いのは自由だ。幼い頃から力を使ってはいけないと言われていたのに、あいつは自分のエゴで力を使い続けた。由実ちゃんが自分を責める必要はないんだ」

「でも、私、知ろうともしなかった……。いえ、本当はちょっとは気付いていたのかも……。お母さんがあんなに使うなって言って、どうしてだろうって考えていたんです。未知の力だから、知られてしまった時珍しがられたり、気味悪がられたりするのは当然。だけど本当にそれだけなのかって……。だってお母さん、本当に、切実で――」


由実は昔を思い出す。

『――駄目よ、自由』

まるで懇願するような、母の声。

兄はその声に俯いていた。

あの時自由は、どんな顔をしていたのだろう。

由実が覚えているのは、まるで今にも泣きそうな母の表情だけだ。

だから由実は母の言いつけを自由に守らせなければならないと思った。

母にあんな顔をさせてはいけない。あんな悲しい顔を、させたくはないと。


――それなのに。


由実は自由を止められなかった。

母があんな表情をしていた理由をちゃんと知っていれば、知ろうとしていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。


「それなのに、私、あんなことまで言ってしまった……!」


最後に自由に向けて放った言葉は、あまりにもひどいものだった。

あの言葉を自由に向けて言ってしまったのは、あれで二度目だ。

一度目は……、母が亡くなってしまった、時。

あの時も由実は自由を罵った。

自由が母を助けていれば、自由の命が失われていたかもしれないのに。

由実は何も知らずに、彼が母を見捨てたのだと、そう思ってしまったのだ。


『どうしてお母さんを助けてくれなかったの』


あの言葉に、どれほど自由は傷ついただろう。言った由実とて、傷つかずにはいられなかった言葉。


――ああ、そうだ、どうして……。

どうして、あの時自由は母に対し力を使わなかったのだろう。

自分の命がかかっていることなのだから、使わない方が当然かもしれないけれど、母の言いつけに背いて、何度も自由は力を使った。

麻耶に対してもそうだ。

己の命も省みず、自由は力を使った。

母の時に自由が力を使わなかったのはおかしい、と由実は思った。

いくら世話になった居枝や功居との関わりがあるとはいえ、数度しか顔を合わせていない麻耶を助けて、自分の母親を助けなかったのは何故だ。

マイペースな態度で分かりにくいが、自由はあれで母親のことをとても大切にしていた。

面倒臭そうにしながらも家の手伝いだってしていたし、母が入院してからは毎日のように顔を見せに行っていたのだ。

それなのに。


「……制約の二つ目って、何ですか?」


思い当たった由実は、顔を上げた。

己を責める由実に声をかけようとしていた義信だが、強い瞳で問いかけられて、息を呑む。


正直、今の由実に更にそれを告げることは気が進まなかった。

本当なら、全てを打ち明けるべきは自由で。

だが彼は、由実に何も知らせないことを選んだ。

これまでは、義信もその意思を尊重していたのだ。

自由が由実を思うが故の、決定であったから。


だが自由が死に瀕したこの時、義信は由実に真実を告げることを決めた。

義信が沈黙を選べば、自由が交通事故にあったとでも、いくらでも事実は隠蔽できる。

だが、真実を話さずとも、由実はひどく傷ついていた。

嘘で彼女を傷つけるより、きちんと真実を話すべきではないか。

それを知って、例え由実がこれまで以上に傷つくことになったとしても。


義信も、散々迷った。

だが彼は、諦めていなかったから。

自由が助かる可能性を、信じていたから。

今後、自由が長く生きていくためには、由実は知っていなければならない。

自由が長く生きることが、由実の幸せにも繋がるはずだから。

だから、義信は躊躇しながらも、それを口にした。


「……あいつの力を拒む人間に、力を使うことはできない」


「……それじゃあ、自由は、あの時、お母さんを……?」

「……ああ。あいつは、何度も力を使おうとした。でも、全く効かなかったんだ」


自由の失意は、如何ばかりだったのか。

今更ながら、由実はそれを思った。


あの時、由実は自分の気持ちのことだけでいっぱいいっぱいで。

少なくとも由実の前で涙も見せなかった自由を、慮ることはできなかった。

自由は淡々としているように見えた。

そんな自由を、由実は見ないようにしていた。

暴言の後だったから、顔などまともに見られなかったし、また兄を責める言葉が口から出そうで、それが怖かった。


けれど、そんな由実の傍らで、自由はどんな気持ちでいたのだろう。

由実は、母の病気に関しては医者に頼るしかなく、それはそれで、何もできない己が不甲斐なかった。

だが自由には、病を癒せる力があった。それを由実は妬んだこともあったが、その力があるのに、自由は母親を助けられなかったのだ。

いくら母親の方がその力を拒んだと言っても、由実よりずっと自由は悔しく悲しい思いをしたのではないだろうか。

だからこそ、今度こそはと麻耶を助けたのではないだろうか……。


由実を、たったひとりにして。


そう思えば、後悔と罪悪感でいっぱいの胸に、自由への苛立ちが湧きあがって来た。

何も言わず、何もかも勝手に決めて、たったひとりの家族である由実の気持ちも無視して、死にかかっている自由。

どこまでも自分勝手な兄だ。妹を苦しめる最低の兄だ。

けれど、同時に――母を、麻耶を見捨てなかった兄だ。

由実に残された、たった一人の家族。


由実は深く息を吸って、吐いた。


「ノブさん……、話してくれて、ありがとうございました」


ゆらゆらと瞳を揺らしながら、話を咀嚼し、気持ちを落ち着けていた由実が、開口一番に感謝の言葉を告げて、義信はわずかに目を見開いた。

ここで彼は彼女に罵られることも覚悟していたのだが、由実は彼が想定した以上に落ち着いた様子に見える。

義信の表情に、由実は少し口元を綻ばせた。


「うじうじ、しててもなんだか癪な気がしてきました。……お母さんも、自由も……、私が自分を責めないように考えてた。そうなんですよね?」

「ああ……」

「ノブさんの言う通り、全部、自由が悪いんです。だから、私、後悔してる暇があったら考えておかなくちゃ。自由が治った時、どうやって叱ってやるのかとか、今から……」


無理矢理に微笑んだ、由実の頬を涙が伝った。

喉の奥で嗚咽を漏らす由実の肩を、義信はそっと引き寄せる。


「お兄ちゃん……」


強がりな由実が漏らした、兄の無事を祈る声が、義信の耳に切なく響く。

賢く、真面目で、強くて、弱い、そんな由実を悲しくも愛しく想い、義信は彼女の肩を抱く腕に力を込めた。


そんな二人を乗せて、車は自由を治療中の病院へと進む――。




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