112話 盗む 【園遊会 11時36分】
【午前十一時三十六分、展示室】
グランドは、口元を覆っていた手を頭に移し、髪をぐしゃりと掴んだ。最低最悪の気分だった。想定していた中で、最もあってはならない展開が、目の前で繰り広げられているのだから。
「……トリ?」
首領クロルは、心底トリズを信じていたのだろう。茶色の瞳は、不思議そうに揺れていた。
一方、トリズは平坦な声で続ける。
「クロル・ロージュ。懐中時計には触れずに、鉄格子から出ろ」
「え?」
困惑するクロルを、騎士トリズが引っ張り出す。手枷を取り出したところで、そのトリズに目掛けて体当たりをする男がいた。エタンスだ。
「クロル! ぼんやりするな!」
「な、なにしてんだよ」
「分からないのか!? こいつは潜入騎士だ」
「潜入騎士……!?」
「早く懐中時計を盗って逃げるぞ!」
エタンスの体当たりなんて、なんのその。騎士トリズは楽しそうに笑う。
「僕が逃がすわけないでしょ~。二対一でも負けないよ? かかってきなよ」
小部屋の中で、グランドは思った。刺々しい核弾頭トリでも、にこやかな伯爵令息トリズ・カドランでもない。それらをどちらも混ぜ合わせて完成している、刺々しい雰囲気とにこやかな表情。彼の素は、これなのだと。
「くそっ! 時間がない。クロル、早く国宝を!」
「ダメだよ~。この腐れ外道の泥棒共。懐中時計には触れさせない」
トリズは、鉄格子の前に立ちふさがる。
展示室の時計は、午前十一時五十二分を差している。
首領クロルは、その時計を見て、焦りを露わにしていた。現実を受け止めるにしても、問いただすにしても、時間は足りそうにない。
そして、そのまま騎士トリズに視線を向ける。やわらかく、仄暗い視線だ。まるで砂時計みたいにさらさらと音を立て、大切なものがこぼれ落ちていく痛み。それを、必死に耐えているようだった。
でも、どうにもこらえきれない様子で、くしゃりと顔を歪めて、終いにはしゃがみ込んでしまった。彼の泣き黒子は、それはもう悲しそうに下がっていた。
彼は、裏切られたのだ。まるで雨に打たれているような、寂しそうな哀の色。心臓を押さえてしゃがむ、痛そうな姿。それらは、今、彼が落ちている絶望を物語っていた。
兄弟のように過ごしてきた日々は、嘘だらけだった。そうであれば、当然こうなるだろう。グランドは、その様子を見て『ほう』と瞳を輝かせる。やはり首領クロルは本物だと思ったのだ。
このとき、クロルが何を思いながら演技をしていたのか、きっとお分かりだろう。レヴェイユがソワールだと知ったときの、雨の路地裏。彼は、それを思い出していた。
それを見て、グランドはクロルを丸ごと信じた。あの出来事は無駄ではなかったし、その経験を彼自身が武器としてカウントできるほどに、あのとき落ちた心は高い位置まで昇っていた。
そして、首領クロルは立ち上がる。あのときと同じように、憎しみを込めた瞳を向けて、何かを振り払うように勢いよく。
彼の膝が伸びきったと同時に、騎士トリズに向かって拳を突き出す。難なく受け止められてしまい、お返しとばかりに強烈な蹴りを入れられる。クロルは左腕で防ぎ「エタンス!」と叫びながら、トリズから距離を取った。
美しい盗賊は、乱れきった前髪をくしゃりとかきあげ、険しい表情で後悔を吐露する。
「あのとき……トリが騎士じゃないかって言われたとき、取り合わなくてごめん。巻き込んで悪かった。トリも国宝も……絶対に俺がどうにかする。お前は逃げろ!」
「いや、俺も国宝を、」
「わかんねぇのかよ馬鹿野郎! 今すぐ行かないと、サブリエの宿屋がやばいだろ!?」
エタンスは「そうだった」と顔を青ざめる。
小部屋の中で、グランドもギリギリと拳を握り締める。そうなのだ。騎士トリズは、宿屋『水の音色』を知っている。
元々、伯爵令嬢レヴェイユに知られてしまったことで、秋の園遊会を機会に引っ越しをする予定ではあった。数人はすでに引っ越し済みだが、全員ではない。今すぐ知らせなければ、盗賊団サブリエは壊滅的だ。主要メンバーが捕縛されてしまう。
エタンスの足が、一歩下がった。それを見て、グランドはやっと事実に気付く。
―― そうか。エタンスは、私がここにいることを知らないのだな……?
なぜ知らないのかは分からない。旗の色を間違えたのか、何か行き違いがあったのか。でも、それを考える時間はない。今は、この事態をどうするかだ。
ここで出て行けば、騎士トリズに捕縛される。どうにか逃げおおせたとしても、それはエタンスが全力でグランドを逃がして達成できることだろう。
であれば、エタンスとグランドの関係は、トリズに知られてしまう。どのみち、地の果てまで追いかけられ、いつか捕縛される。逃亡するだけの人生だ。
ここでサブリエ首領とバレて捕縛されるよりも、園遊会終了後に素直に名乗り出て、展示室に忍び込んだ罪だけで捕まるべきか。
ならば、国宝は……王女の懐中時計はどうなる? 諦めるしかないのだろうか。ここまできて撤退しろと?
しかし、何よりも……。グランドは、真っ暗な中、アンテ王女の壁画に視線を向けた。ここで捕縛されるなど、耐え難い屈辱。到底、小部屋から出ることはできなかった。
展示室からは、クロルの美しい声が聞こえる。
「エタンス、宿屋に行け!」
その言葉に頷いて、エタンスはゆっくりと後ずさる。そして、彼の足が通路に入った瞬間、懐中時計に背を向けて駆け出した。勝手口から飛び出して、展示室を出て行ってしまったのだ。
当然ながら、それを見逃す騎士などいない。
「待て! 逃がさない!」
「トリ、行かせない!」
クロルは容赦ない蹴りを入れる。その蹴りは異常な反射神経で避けられ、失速したところで脚を掴まれる。そのまま、肋骨を折り曲げる勢いで拳が突き出された。
「くっ……!」
クロルは、避けきれないながらも、身体を捻ってダメージ最小限に留める。しかし、よろけてバランスを崩してしまい、床に膝をついた。
「僕の強さ、知ってるでしょ? 首領クロル・ロージュ、人々の大切なものを奪った罪を、ここで償え」
吐き捨てるように、紫頭の騎士はそう言う。
その言葉と共に、クロルの頭を目掛けて強烈な蹴りを入れてくるが、寸でのところで転がるように避け切った。
起き上がる勢いを利用して、トリズに跳び蹴りを食らわすが、腕だけで防がれてしまう。顔に似合わず、本当に強い! しかし、その蹴りは思いのほか重かったのだろう。トリズは「ぐっ」と声を出していた。それでも、間髪入れずに次の攻撃を出してくる。
まさに、死闘。お互いに一線も引かぬ戦い。
時計は、十一時五十六分を差す。
―― あと四分
グランドがそう思ったとき、クロルはポケットから何かを取り出した。残った武器は、ナイフ一本だけ。
「トリ!」
それがナイフであると分かったのだろう、トリズは目の色を変えた。クロルが突き刺す瞬間、トリズは身体を反転させる。紙一重でそれをかわされ、小柄な身体から繰り出される全力の蹴りが、クロルの横腹に入る。さらに、もう一発、膝蹴りを叩き入れられる。
カラン、ドサッと音を立て、ナイフとクロルが同時に床に落ちる。首領クロルは意識を失い、鉄格子の手前に横たわった。冷たい、床に。
「くっ、危な……。はぁ、手こずった~。すぐに応援を呼んでくるから、そこに転がってて。あの眼鏡野郎を捕まえたら、まとめて牢屋に入れてやる」
そう言うと、トリズは首領クロルに手枷をはめ、エタンスを追いかけて行った。
―― 首領クロルが、負けた……
グランドは、小部屋の中で震えた。三人の騎士相手に勝ち星をあげたクロルが、たった一人、細くて小柄な騎士トリズに負けたのだ。なんたる強さ。
いや、その前に三人の騎士と戦っていたのが悪かったのかもしれない。そう思って軽く口の端を噛む。
そこで、ふと気付く。
―― 今しかないではないか
勝手口にも裏門にも、騎士も誰もいない。エタンスとトリズが出て行ったときに、誰の声も聞こえなかったからだ。
グランドが小部屋にいることは、誰も知らないのだ。仮に裏庭に騎士がいたとしても、首領クロルを捕縛した今、その全員はエタンスを追いかけているはず。使用人として、素知らぬ顔で裏門を通れば……逃げきれる。
時計の針は、午前十一時五十七分を指し示す。あと三分で、展示室の正面扉が開けられる。逃げるなら今だ。
グランドは慎重に小部屋のドアを開けた。足音が響かないように歩く。靴底が床に触れるたびに、心臓がドクンドクンと跳ね上がる。床だけを見て、真っ直ぐに勝手口へと向かう。
すると、どうしたって、赤い絨毯に目がいってしまう。
それは、幸運の道しるべ。たどるように視線を歩かせれば、大切なお姫様を守っている鉄格子がある。その向こう側には、光を透して輝く美しいガラスケース。そして、その中には……赤い台座に座る可憐な懐中時計。
鍵は、一つもかかっていない。
―― あぁ、アンテ王女
グランドは吸い込まれるように鉄格子に近付いた。近付いてみると、もっと近付きたくなる。
―― 欲しい
今、この場にいるのは、意識のない首領クロルと、グランド。二人だけ。
ここで盗んでも、目撃者はいない。首領クロルは目を閉じたままピクリとも動かない。連行するために応援の騎士が来るかもしれないが、その前に懐中時計を持って逃げてしまえば。
―― あぁ、欲しい……
グランドは鉄格子の中に入った。ガラスケースに手を伸ばす。盗むしかない。奪うしかない。
懐中時計まで、あと一センチ。
でも、そこでまたもや。グランドは小部屋の方を見る。ドアは閉めてある。閉めてはあるけれど、グランドが鍵穴からずっとこちらを見ていたように、あの小部屋からはこちらが見えてしまうのだ。
もし彼女が見ていたとしたら、今の自分をどう思うのだろうか。愛か、欲か。そのどちらを優先させるのか。
カチカチと響く時計の音が、ひどく焦らせる。その焦りは、心臓を黒く焦がして、欲を焚き付けられた。
―― ……生涯、大切にする。どうか許してくれ
王女の微笑みを思い出し、それを許しの笑みだと思い込み、グランドは震える手をギュッと握り締めた。
時計の針が十二時を差す、その一分前。
その一センチを越えて、懐中時計を盗んだ。
この瞬間、彼はとうとう自分の手を汚してしまった。懐中時計は、フラム・グランドが盗み取ったのだ。
グランドは懐中時計を握りしめ、すぐに鉄格子を出た。ドクンと脈打つ心臓を手で押さえ、小部屋を振り返ることなく勝手口まで走った。足音なんか気にしていられなかった。とにかく走った。
身体が重くて仕方がない。それでも、もう戻ることはできない。振り切るように、ドアに手を伸ばす。
「あらまあ、大変。そこから出たら捕縛されるわよ?」
突然、声が降ってきた。驚きで思わず叫び出しそうになったが、声を飲み込み、バッと振り向く。
すると、白いドレスの裾をヒラリヒラリと羽ばたかせながら、天窓から降りてくる女がいた。
女は妖艶に微笑み、華麗に着地をする。
それは、目覚めるような赤い髪の女だった。




