108話 捨てる 【園遊会 8時】
【午前八時・コゲ色アジト】
クロルがコゲ色アジトの玄関を開けると、ちょうどトリズが馬に乗って帰ってきたところだった。
「王城、見てきたよ~!」
「トリズ! 朝からありがとな。どうだった……?」
「バッチリ~。グランドは展示室に入った! デュールからの合図アリ!」
「まじか。うわぁ、上手くいったかー」
クロルは大きく息を吐き、天を仰いで脱力。最大の難所を突破したのだ。
「あー、心臓バクバク……生きた心地しねぇな、コレ」
「僕もホッとしたよ~。もしグランドが来なければ、大急ぎで他プランに移行だったもんね。デュールと掃除長のおばあちゃんの交渉が上手くいったみたい。てっぺんの監視棟で、オペラグラス片手に手を振ってくれたよ!」
「あいつこそが、高みの見物だったか。ははは」
さぞかし楽しい観劇なのだろう。デュールの高笑いが聞こえた気がした。
「あはは! 今まで、本丸グランドと自由人ブロンを相手に、一人で上手く立ち回ってたからね。超むずかしかったと思う。本当、よくやったよ~。ここからは、僕たちの仕事。高みの見物くらいさせてあげなきゃね!」
「……ほー、言われてみれば、たしかに」
こういうとき、二十九歳の先輩っぽいなぁと思ったりするクロル。
「ソワちゃんは起きた?」
「それ聞く? 六時に起きたけど、馬車の中で爆睡。面倒だったから担いで、ドレス工房に投げ置いてきた。たぶん寝たままメイクアップ中。俺も着替えるから、これから工房にもどる」
「あはは、お疲れさま~。僕は、エタンスと落ち合ってマークしておくね」
クロルとトリズは、そこで同時に拳を握りしめる。胸章の代わりに、心臓にそれを当てた。
「トリズ、必ず任務遂行しような」
「うん、必ず」
そう誓い合って、もう二度と戻ることはないコゲ色アジトを後にした。
◇◇◇
【午前九時・展示室内】
一方、グランドは一心不乱に床を掃除していた。
「え、ってかちょいちょいちょい! グランドさんすごくね?」
「馬鹿者。本名で呼ぶでない!」
「あ、ごめん。兄ちゃんすげー! 床がピッカピカじゃん! オレなんて、まだ鉄格子と壁掛け時計しか磨いてないよ。すげー早い! キレイ!」
「掃除に関して、私の右に出る者はいない」
「会長やってる場合じゃないじゃん。もったいねーよ。掃除スタッフになった方がいいって、絶対!」
「ふふん、そうであろう?」
なぜか自慢げなグランド。彼は使命を帯びたかのように真面目に働いていた。
展示室『赤の目覚め』を掃除できるかと思ったら、裏門に入る前に感じていた重だるい気持ちは吹っ飛び、隅々まで……それはもう、隅々までピッカピカに磨き上げた。正直、没頭した。
掃除長のおばあちゃんは口こそ閉ざしていたが、『この男、なかなかの腕前!』と、内心でグランドを認めつつあるようで、やたらと彼を見て頷いている。
グランドは悟った。きっと、この『赤の目覚め』を磨くために、掃除技術を磨いてきたに違いないと。よし、床も脳みそもいい感じにツルツルだ。
「グラ……兄ちゃん」
「なんであるか、弟よ」
「九時すぎたし、そろそろ壁画ウォッチングしにいこーぜ ?」
「壁画……そうであった! 床に散らばる謎の木くずに夢中になっていたぞ」
それはクロルが一生懸命に蹴散らしていた天窓の木くずじゃないか。こんな運命の出会いがあるとは。証拠隠滅ありがとう。
木くずを片付けたグランドがチラリと小部屋のドアを見ると、ブロンも小声で「うーん、あのドアかな?」と聞いてくる。
「あのドアであろうな」
勝手口と正面扉を除けば、ドアは一つだけ。金髪兄弟はこくりと頷き合い、ドアへと近付いた。
ここで掃除長を確認すると、先ほどまでグランドをチラチラ見ていたはずなのに、どういうわけか壁を掃除し始めていた。他の使用人も、掃除長に命じられて一心不乱に壁の掃除。どこもかしこも死角だらけじゃないか。
金髪兄弟は知らぬことだが、おばあちゃんはお馬鹿な孫娘リナちゃんのために、泣く泣く魂を売ったのだ。
今日は魂の特売日。魂を売る原因となったのは、孫娘に手引きをさせたブロンとデュールだし、魂を買ったのはやっぱりデュールだし。全く最低な男ばかりだ!
そんな死角だらけの状況の中、二人は小部屋のドアに向かい合う。
「そもそも、ここって開けていいドアなのかなー?」
「王族の御尊顔だぞ? ダメに決まっている」
「じゃあ、ドアを開けたらパッと入って、すぐに閉める作戦にしよーぜ!」
作戦というほどの内容ではない。
「まぁ……それがよかろう」
グランドは『はて? 鍵は開いているのだろうか』と思ったが、ブロンがドアノブを回すと、鍵はすでに開いていた。
ちなみに、複製した鍵をクロルから渡されていたブロン。グランドが床を磨いてる間に、素知らぬ顔で解錠済みだ。
二人はスルリと小部屋に入り、瞬時に閉めた。作戦成功。
バタン。
「……って、暗すぎて何も見えないじゃん!」
真っ暗だった。小部屋には窓なんてないわけで、暗くて当然。唯一、鍵穴からわずかに差し込む光くらいだ。これでは暗闇の中で見えない壁画をウォッチングするという、謎のイマジネーションイベントになってしまう。
ブロンのぶつくさボイスを聞きつつ、グランドは『なんの用意もせずに、ここに誘ったのか』と少し呆れた。
「仕方あるまい。しばし待て」
グランドは靴底からマッチ棒を一本取り、それを靴底に擦り付けて火を付けた。ぼんやりと灯るマッチの火。
「うお、びびったぁ。なに? どっからマッチ出したの?」
「常日頃から靴底に隠してあるのだ。火は人類の英知。身を守るためにも、敵を追い払うためにも、いかなる時も火を用いるのが人類の嗜みであろう?」
「へー、初耳の嗜み」
「それよりも、早く壁掛けランプを開けよ」
「あ、こんなところに」
ブロンがランプをパカッと開けてくれたので、グランドはそこにあるロウソクに火を灯した。マッチが焦げる香りと共に、ゆらりと小部屋が明るくなる。
目を閉じて深く呼吸をする。ゆっくりと目を開けると、そこには愛おしい人の笑顔があった。
「……アンテ王女」
「おぉ、マジでオレじゃん! え、え、ちょっと怖いんだけどナニコレ」
ブロンがあーだこーだ小声で騒いでいたが、グランドは無音の世界に入り込んでいた。
普通の恋愛であれば普通に見られるだろう、愛する人の笑顔。グランドにとって、それは罪を犯さなければ見ることが出来ないもの。心の中で彼女に謝りながらも、会いに来られて良かったとも思った。
「ブロン。ここに連れてきてくれたこと、感謝する」
「グランドさん……うん、一緒に来られてよかったよかった! ……ってかさ、ちょっと騒がしくない?」
そのとき、やっとグランドの耳が外の喧騒をとらえた。うっかりと壁画に夢中になっていたのだ。
「なんの騒ぎだろ?」
ブロンがドアを開けようとしたのを、手で制す。「静かにせよ」と言いながら、鍵穴から展示室を覗いた。
―― 使用人がいない、とな?
先ほどまで一心不乱に壁を磨いていた使用人たちがいない。代わりに、赤い絨毯が敷かれて準備万端という状態になっていた。
―― もう撤収の時間か?
腕時計を見ようとしたが、手首は空っぽ。そうだった、ロイヤルガーデンに入る前に預けてしまったのだ。
そこでもう一度、展示室を覗くと、ちょうど壁掛け時計が見える。時刻は午前九時四十五分。あと十五分で、秋の園遊会が始まる時間ではないか。
これは早く撤退せねばと思ったが、どうやら展示室の外、勝手口付近で揉め事が起きているようだ。なんだろうかと、ピタリとドアに耳をくっつけた瞬間、鳥肌が立った。嫌悪している、あの声が耳を劈いたのだ。
「第一騎士団だ! 使用人にまぎれ、身分を偽り入場した者がいるという通報があった。取り調べに、ご協力頂きたい!」
ゾワリとした。押し付けがましい正義に、気色悪さが背中を伝う。同時に、跳ね上がる心臓。ドクンドクンと、耳のすぐそばで鼓動が聞こえた。
―― これはまずい。大変にまずいぞ
ブロンをチラリと見ると、耳を塞ぐようにして縮こまっていた。どうやら騎士が好きではないらしい。
「……グランドさん、これってオレたちのことかな?」
「そうであろうな」
「マジ? これやばい状況?」
「相当に、まずい状況であろう」
「ひぇ、マジ? え、捕まったらどうなんの?」
「害がないと証明できれば、数年で出所できるであろう。しかし、ここは王族専用のロイヤルガーデン。国への背信行為と取られたならば、良くて無期懲役。悪くて処刑であろうな」
「……マジ?」
「マジ、である」
他人が焦っているのを見ると、どういうわけか落ち着くという現象がある。まさに、冷や汗たらたらのブロンを見て、いくらか冷静になれたグランド。どうやって切り抜けるか、ずる賢い頭をフル回転させる。
勝手口付近にいる騎士は、どうやらこの小部屋のことを知らない様子。しかし、どのみち使用人たちが金髪兄弟の不在に気付き、告げ口をするに違いない。
しかし、頼みの綱はちゃんとある。グランドはエタンスに伝えてあるのだから、この状況をどこかで見ているはずだ。であれば、どうにか助けに来るだろう。旗は青色だったのだから。
時間さえ稼げれば、十一時半には首領クロルが勝手口も裏門も開き、共に脱出ができる。そのとき、グランドがサブリエ首領であることがバレてしまうだろうが、背に腹は代えられない。
グランドが助かるためには、時間稼ぎが必要だ。現在、十時前。残り一時間半をどう切り抜けるべきか。使える材料は全て使わなければ、切り抜けることはできない。
グランドは、もう一度アンテ王女の壁画を見て、そこから目をそらした。壁掛けランプの火をフッと消して、まるで王女の目を閉じるように、小部屋を暗闇で染める。
「……ブロン。きっと今すぐ出て行けば、処罰はされないはずだ。ボランティアでここに入ったと、私に説明したことをそのまま伝えるのだ。捕縛されたとて、後で弁護人を差し向けて助けてやろう」
「え、そうなの? じゃあすぐ行こうぜー?」
「私は行けぬ」
「なんで?」
「ブロンと違い、私はグランド商会のトップであるぞ? お咎めなしであったとしても、こんなところに忍び込んだことが世間に知れたならば、評判はがた落ち。であれば、どうなる? 商会の売上は落ち、スタッフたちの賃金は払えず、彼らを路頭に迷わせてしまうことになるではないか」
「はー、なるほどー?」
「ブロン。グランド商会を助けると思って、私のことは秘匿してほしい。せめて二時間はごまかして欲しいのだ」
「それはいいけど……グランドさんはどうすんの?」
「心配するでない。自力でどうにかする」
所詮、人形は人形でしかない。愛も、命も、全ては彼女に捧げるべきであり、人形ごときに捧げるものではない。
さすがは卑劣な男。この瞬間、グランドは可愛がっていたブロンでさえ切り捨てたのだ。
「……うん、わかった、グランドさんの言うとおりにする。元々、誘ったのはオレだし、責任取らないとな!」
「ブロン。感謝する」
「いいって! じゃ、お先ー!」
ブロンは内鍵を開けて、スルリと出て行った。すぐさま鍵をかけ直し、聞き耳を立てる。
「あのー、そこの騎士の人。すみません」
「うお!? 貴様、どこにいた!?」
「えーっと、展示室の床を磨いてたけど。なんか騒ぎっすか?」
「身分不詳の男がいると通報があった。もしやに、貴様か?」
「あ、たぶんオレっすね。ボランティアで掃除してたんだけど、ダメだった?」
「ボランティア!? か、軽い……。貴様、一人か?」
「あ、そっすね。ソロ活動っす」
「なにかと軽すぎる。捕縛だ、捕縛!」
「声デカ。怖ーい」
ガヤガヤと使用人たちの声が聞こえる。察するに、どうやらブロンが捕縛されたようだ。
「まもなく秋の園遊会の開催時間となります。他の使用人の方々も至急撤退し、職場にお戻り下さい! 後ほど事情聴取する可能性もありますので、ご協力お願い致します」
「はーい」
「貴様は返事をするな! 取り調べ室に来い!」
「えー? ひっでー!」
そうして、ブロンはぬるりと連行されていった。
―― ブロン……あぁ、首から上だけ保管しておけば良かったか。もったいないことだ。しかし、あの調子であれば、時間稼ぎは出来るであろう
哀れみの視線だけをドアの外に向ける。その瞳には、犯罪者のほの暗さがあった。彼は自分の手を一切汚さないが、正真正銘、犯罪者なのだ。
オルの時計店を破壊し、クロルの大切なものを踏み荒らし、時計を根こそぎ奪うように指示をしたのは、このフラム・グランドであることを忘れてはならない。
『赤の目覚め』に訪れた、本来の静寂。もう一本マッチを使い、ランプに火を灯す。
ここは、グランドにとって世界の中心。この狭い世界に、愛しい人と二人きり。残り一時間半の短いデートを楽しむことにしよう。
グランドは「お許しを」と一言添えて、壁画に触れた。彼の狂気も、なかなかのものだ。




