寄港地にて
「世の中全てこともなし……か」
それだけ口にすると、髭を蓄えた壮年男性は自らが腰掛ける椅子にゆっくりともたれこむ。
途端、彼の傍に控える秘書官は、困惑気味に言葉を向けた。
「よろしいのですか、ウィルベルト将軍。これ以上何らかの成果を出さない限り、我らが海軍の縮小は免れませんが」
「構いはしないさ。西方での争いはあらかた収まった。仕事がないところに予算は来ない。それはそれで妥当なことだ」
そこまで口にすると、壮年は軽く肩をすくめて見せる。
しかしそんな上官に対し、秘書官は眉間を軽く押さえながら抗議するかのように言葉を紡ぎ出した。
「とはいえ、あまり呆けているばかりもどうかと思いますが。ブリタニアの猛将の名が泣きますぞ」
「俺はフランツとは違う。戦いがなければ生きていけない男だ。ならばこそ、こんな平和な時代に不要な存在だからな」
女王の側に仕える忠臣の顔を思い浮かべながら、ウィルベルト・ノーレンフォーク公爵はどこか割り切った口調でそう告げる。
それに対し秘書官は、わずかに戸惑いながらも彼なりの考えをその口にする。
「とはいえ、混沌と混乱ばかりの時代よりは良いものかと思いますが」
「まあな。しかし平和とは案外つまらぬものだ。何か面白いことでも――」
「報告いたします。奇妙な船舶が突如湾内に出現した模様」
突然開け放たれた将軍室の扉。
そこから飛び込んできた兵士は、緊張気味の口調で一つの事実を報告する。
「奇妙な船舶? なんだどこかの国の船が迷い込みでもしたのか?」
「いえ、それがその見たこともない旗が船舶に掲げられておりまして……」
「見たこともない旗だと?」
そこまで口にしたところで、ウィルベルトはおいてある単眼鏡を手にする。そしてそのまま窓を開け放ち、湾内へと視線を動かしたところで、彼は部下の告げた船舶をその視野に捉える。
「……なるほど、そう来たか」
「閣下はあの旗をご存知なのですか?」
ウィルベルトの反応から、何かを察した兵士は思わずそう問いかける。
すると、ウィルベルトはニヤリと笑い、鷹揚にうなずいてみせた。
「ああ、ただどちらかというと私よりフランツの方がよく知っている国の旗だ」
「ウィレンハイム伯が?」
「そうだ。なにしろあの国は……いや、あの独立領は海を有していない。だからこそあの旗を知らなくとも無理はなかろう。しかしこれは面白くなってきた!」
そこまで口にしたところで、ウィルベルトは先程までの怠惰さを何処かに放り捨てたかのように、引き締まった表情となる。
「おまえら何をぼさっとしている。こんな場所で暇をつぶしている場合ではない、早速臨検に行くぞ!」
***
「以上が本日の報告事項となります。決済書類は後ほど執務室にお持ちいたしますのでよろしくお願いいたします」
そこまで告げると、眼の前の女性に仕える壮年男性は深々と頭を下げる。
それに対し返されたのは深い溜め息であった。
「ふむ、また書類の山をくれるというのか。そなたの方で処理してもらっても構わないが」
「私を試されるのはおやめ下さい。そのような形で、次第に決裁権を臣下が手にするのは後の世の動乱要因となりかねません」
男は持ち前の生真面目さから、間髪入れることなくそう言い切る。
それに対し彼の主君は、口元を歪めながら言葉を重ねてみせた。
「いや、本気で言っているのだがな。私の仕事は議会の相手だけで十分だろうに」
「西方が膠着状態となった以上、国力増加のために南方、そして東方地域への交易進出を決定されたのは陛下です。そのための法と制度の拡充はご責務のうちかと」
「そなたは正論がすぎる。もうすこしウィルベルトの柔軟性を真似ても良かろうに」
至尊の座に座る女性は、かつて戦場の猛将と呼ばれ同時に行政能力が皆無であることが知られる男性を比較に挙げ、目の前の男性に反論する。
すると、議論自体が目的でないことをようやく悟った壮年は、仕方なく女性の相手をすることとし彼女が喜びそうな反論を口にした。
「では私と彼との仕事を交換いたしますか? おそらく三日で宮中の決済処理速度が半減するでしょうが」
「悪いがそんな面倒事を間違っても受けるつもりはないぞ、フランツ」
それは完全に予期せぬ方向から向けられた言葉だった。
戸惑い驚いたフランツ・ウィレンハイム伯は、慌ててその場で振り返る。
すると、そこにはまさに話題にしていた髭を蓄えた壮年男性の姿があった。
「ノーレンフォーク公!? ど、どうしてここに?」
「ちょっとばかり陛下と貴公に会う必要ができたものでな」
髭の壮年はそれだけ答えると、軽く肩をすくめてみせる。
それに対し、平穏な日々に退屈さを感じていた女王は思いがけぬ男が姿を現したことにわずかに喜びを見せる。
「ほう、宮中に出仕するとは珍しいではないか、ウィルベルト。無聊を託っておったと思うとおったが?」
「ええ、前線なき今、どうにも現場仕事は退屈極まりないものでして……とはいえ、他に仕事もないので、特に配置換えを望むつもりもありませんが」
「ほう、それは思いがけぬ心がけじゃな。して、その心は?」
「今の職にあったほうが、これから楽しい仕事に取り組めそうだからでしょうか」
女王の問いかけに対し、ノーレンフォーク公はそんな言葉を返して見せる。
途端、ウィレンハイム伯は僅かに頬を引きつらせ、警戒を隠すことなくそのままに問いかけた。
「ものすごく悪い予感しかしないのだが、どんな厄介事を持ち込んできたのだ」
「意外と信頼されていないのではないですか、ノーレンフォーク公」
それは完全に死角から放たれた言葉であった。
その人物の来訪を知らなかった女王と忠臣は、彼の発言を耳にするなり大きくその目を見開く。
一方、そんな両名の反応に満足したノーレンフォーク公は、どこか嬉しそうに彼の軽口に付き合ってみせた。
「いつの時代も正直者は嫌われるのが常でな」
「なるほど、だとしたら私はよほど正直者なのでしょうね。この国での嫌われ具合は群を抜いているでしょうから」
「き、貴公がどうして!?」
天敵。
ノーレンフォーク公にとって、目の前の男は辛酸を嘗めさせられまさに天敵以外の言葉が存在しなかった。
そしてだからこそ、突然その人物が姿を現したことに、それ以上の言葉を見失う。
一方、その天敵とも言える当人は、まったくそんなノーレンフォーク公の心境に配慮することなく、軽い口調で挨拶を紡ぎ出す。
「どうもご無沙汰いたしております、ウィレンハイム伯そしてオリヴィア女王」
「……なるほど、これはまた最高の厄介事を持ち込んできたものだな、ノーレンフォーク公」
そこまで口にしたところで、ブリトニアを統べる女王オリヴィアは、のこのこと姿を現した黒髪の男へと強い視線を向ける。そして彼女はゆっくりと、その人物の名前を口にした。
「それで何のようだエイス・クローサー……いや、ユイ・イスターツ」




