策謀
「こんなことが……こんな馬鹿げたことがあってたまるか! なぜ逃げ支度のはずであった奴らが、我が軍中枢に迫っているのだ!」
目を見開き信じられぬという思いで、クルスターンはそう吐き捨てる。
もちろんクルスターンとて理屈ではわかっていた。
しかし理解したくはなかった。
自らのほんの僅かばかりの逡巡が、決定的な隙を生み出したという事実を。
「とにかく追い払うのだ。敵は少数に過ぎぬ」
「それはどうかな?」
突然耳に飛び込んできた声。
それは明らかに彼の部下によるものではなかった。
「貴様は……誰だ!?」
突然眼前に姿を現し、堂々と彼を見つめてくる銀髪の男。
その人物を前にして、クルスターンは戸惑いと困惑を覚えながらそう問いかける。
すると、銀髪の男は一切表情を変えること無く、淡々とその口を開いた。
「クラリス軍副指揮官、リュート・ハンネブルグだ。すでに貴様らは我らの制圧下にある」
「ふ、ふざけるな! 少数で乗り込んできた貴様らの何が制圧だ!」
怒りと苛立ち、それが思わずクルスターンの口から吐き出される。
そう、たしかに敵が中枢に乗り込んできたことは事実であった。
だがそれはわずかに虚を突かれた結果に過ぎない。
逃げ支度のはずであった敵軍の奇策が成功したことは、クルスターンとて苦々しい思いとともに認めはする。
しかし”制圧”の二文字は、理屈の上でもとても許容し得る言葉ではなかった。
そんな彼の持つ理屈……そして常識。
それを覆す返答が、すぐさま目の前の男の口から紡ぎ出された。
「ふん、周りを見てみるのだな」
「周り? こ、これは!?」
困惑の思いとともに、周囲を見回すクルスターン。
いや、この時点で少なからぬ違和感を彼は覚え始めていた。
確かに敵の反転攻勢は有効であった。
だが局地戦としては数で上回っているはずの自軍が、こうも動揺し今なお混乱に襲われているのはそれだけでは説明がつかない。
その事実を受け入れたその瞬間、彼の目には自軍の周囲を半包囲しかける敵軍の姿が映し出された。
「我が軍はすでに貴様らの包囲を完成させつつある。貴公も指揮官であるならば、降伏を選択するべきだろう」
「ばかな、こんなことあり得ぬ。貴様らの半数以上は河を渡り――」
「戻ってきた……ただそれだけの話だ」
極めて事務的な口調で銀髪の指揮官……リュートはあっさりとそう告げる。
途端、クルスターンの両目は大きく見開かれた。
「戻ってきた……だと。まさかあの狼煙は!?」
「そう、船を使い貴様らの背後を取ったアレックスと帝国兵が手配したものだ。貴様らの教皇の協力のもとにな」
「教皇の協力……まさか猊下が裏切ったと言うのか!」
信じられないと言う思い……そして同時に否定できない感情がクルスターンの中に存在した。
確かに教皇は彼らと思いを完全に共にしているわけではない。
しかしながらこの軍の大半が決起を決意したのは、彼の存在があったからこそであった。
その当人たる教皇が裏切りを成す。
たとえ目の前の現実がそれを指し示していようとも、彼にはそれを受け入れることはできなかった。
一方、そんなクルスターンの感傷などなんの興味も持たぬリュートは、改めてその口を開く。
「貴公らは我らが橋を増設したのを退却のためと考えたのだろうが、答えはこのとおりだ」
「逃げるためではなく、速やかに反転攻勢を行う為の橋……そういうことか」
悔しさと腹立たしさを飲み込みながら、震える口調でクルスターンはそう問いかける。
それに対しリュートは小さく一度首を縦に振った。
「行動の邪魔となる武装は陣地内に残し、軽武装でゆっくりと河を渡る。そして合図とともに本来の速度で行動を開始する……そう、全てはこの瞬間のためにあいつが仕組んだ策なのだからな」
「あいつ? やはり貴公たちの軍を率いているのは……」
リュートの言葉を耳にした瞬間、クルスターンの脳裏には一人の人物の名がよぎった。
そしてそれが正しいとばかりに、リュートは改めて最後通告を彼へと突きつける。
「そうだ、現場を俺に委ね今頃仕上げをしている頃だろう。だからこそ改めて俺の口から告げさせてもらう……すでに勝敗は決した。さあ、潔く降伏しろ」
***
「どこへ行くつもりかな?」
突然向けられた声であった。
その声を耳にした瞬間、ヤーマンは思わずその場に立ち止まり、後ろを振り返ること無く言葉を返す。
「どこへと言われても、ここではないどこかとしか言えませんね」
「君たちに付き従い、こんな戦場に来てしまった信者の方たちを置き去りにしてまでかい?」
重ねての問いかけ。
それに対し、ヤーマンはわずかに苦笑を浮かべると、ようやく振り返り自らを詰問する男へと視線を向ける。
「ええ、そのとおりです。きっと彼らはその生命を失っても、神の身元に行くことが出来るでしょう。素晴らしいことだと思いませんか、英雄どの」
「なるほど、しかし彼らは君たちもご一緒するものだと考えていると推察するんだけど」
「そうかも知れませんね。ですが、私にはそのつもりがない」
何のためらいもなく、はっきりとした口調で告げられたその言葉。
それに対し、黒髪の男はわずかに眉間にシワを寄せると改めて問いかける。
「身勝手なものだね。同僚であるクルスターンも置き去りにし、信者も見捨て、自分だけ戦場を後にするとは」
「身勝手……ですか。貴方に言われるといささか思うところはありますが、いずれにせよ見解の相違ですね。私は自らの役目を正しく行っているだけですので」
小さくと息を吐き出すと、一切の躊躇なくヤーマンはそう告げる。
そんな彼に対し、黒髪の男は重ねて言葉を向けた。
「こうして負け戦の責任を取らず逃げることが役目……か」
「いえ、違いますよ。勝利を手にしたと慢心した英雄殿を釣り出す……その役目です!」
言葉とともに、突然黒髪の男の頭上から、黒き影が迫る。
「悪鬼ユウナが息子ユイ・イスターツ……その生命、貰い受ける!」




