悪魔
「よし……危険を冒す必要はありません。このままこの距離を保ちながら、敵を一方的に蹂躙しなさい」
圧倒。
それが彼の前に存在する光景であった。
圧倒的な長距離から放たれる弾丸は、まさに戦況を一方的なものとしていた。
しかしその瞬間、想定外の存在が彼の前へと現れる。
「進め、進むのだ! 今こそ神の力を見せる時!」
戦場に突然現れた血気盛んな集団。
それは彼と同じ戦場で、同じ武装に身を包み、そして同じ神を信仰し、しかし全く異なる戦術意識を持つ者たちであった。
「クルスターン司教、どうしてここに!」
「ふん、この状況にありながら、貴様の動きがあまりに鈍いのでな」
困惑とともに問いかけるヤーマン司教に対し、クルスターン司教は不敵な笑みを浮かべながらそう告げる。
「もはや勝敗は決しました。ここであなた方が突進すれば、我らの銃撃に制限が……ただでさえ指揮系統が異なるのです。止めてください」
「愚か者。もはや殲滅戦だ。河を渡った敵が慌てて戻ろうとしようとも、橋には逃げようとする兵士で埋め尽くされている。銃の出番は終わりだ」
吐き捨てるような口調で、クルスターンは自らの確信とともにそう告げる。
だがそんな彼に向かい、ヤーマンは慌てて抑止の言葉を向けた。
「それは早計です。これは敵の全てを殲滅できる戦いではありません。できる限り被害を減らし、真綿で敵の首を絞めるように――」
「報告いたします。敵陣より謎の狼煙が上がった模様」
慌てて駆け込んできた部下による報告。
それを耳にするなり、両名は慌ててその視線を敵陣へと向ける。
「なんの合図……でしょうか」
「ふん、どうせすでに河を渡った者たちに助けを求めようとしているに決まっている。やはり敵は逃げ腰だ。全てを殲滅し、そのままの勢いでキスレチンを――」
「た、大変です! 後方が……後方が!」
次はクルスターンの言葉を遮る形で飛び込んできた新たなる部下。
その彼の言葉に、クルスターンはやや不快気な表情を浮かべつつ、敵陣の奥へとその視線を向ける。
「後方? 敵の後方に何ら変わりはないぞ。どうでもいいことを報告するな」
「違います。我が軍の後方に突如敵が姿を現しました」
その部下の報告に、ヤーマンとクルスターンは互いの顔を見つめ合う。
そして次の瞬間、クルスターンは首を左右に振り否定の言葉を吐き出した。
「ありえぬ! 我らはトルメニア側から進軍してきたのだ。どんな大回りを行おうとも、我らの後方に敵がいるはずがない!」
「で、ですが、プレメンス大司教の本陣は突如姿を現した黒色の帝国兵で混乱に陥り……し、しかも敵の指揮官は朱の悪魔である模様!」
***
「なんだ、何が起こったのだ。なぜ敵がここにいる!」
突如の混乱。
そう、まさにそれは一瞬のことであった。
戦場より遠く離れたはずの本陣に、突然として黒色の武装に身を包んだ者たちが姿を現したのは。
「わかりません。突然後方から帝国兵が姿を現し……とにかくお逃げください!」
「逃げると言って、どこへ逃げればよいのだ!」
「そ、それは……」
プレメンス大司教に対し逃亡を促さんとした司祭も、自らの突発的な言葉に対し思わずしどろもどろとなる。
いや、動転しているのは彼だけではなかった。
自陣に居た誰もが、完全なる想定外の事態にただただ戸惑うばかりであったのだから。
「敵は……敵は後方から姿を現した模様です。とにかくクルスターン司教やヤーマン司教と合流されるのが良いかと」
比較的早期に敵の襲撃を把握し、わずかばかり理性と平静を取り戻した部下の一人が、想定されうる最も安全な選択肢を提案する。
途端、プレメンスは苦々しい表情を浮かべながらも妥当な判断だと理解し、大きく一つ頷く。
「後方に敵がいるはずがない。しかし……そうだな。まずは奴らと合流する」
「おや、それは少しばかり困りますね」
それはその空間内に向けて、緩やかに発せられた言葉。
この状況にありながら、その声はあまりに緊張感が欠如し、そしてどこか苦笑の成分を含んだような口調であった
だからこそその声の主に気づいた瞬間、プレメンスは思わずその眉間にしわを寄せる
「何者だ……貴様?」
異様。
その男はあまりに異様だった。
戦場に存在するとは思えぬほどの軽装、そしてどこか作り物めいたほどに穏やかで柔らかな表情、だがそれに反するかのように彼の髪と同じ色をした液体が手にした剣からポタポタと流れていた。
そう、それはまるで異界の死神が突如彼らの前に姿を現したかのように、その空間と彼の存在はあまりにミスマッチ過ぎ、プレメンスは目の前の存在にどこか現実感を覚えることが出来なかった。
「ふふ、最近は名前を聞かれることも減りましたから少し新鮮ですね。まあ彼ほど知名度が無いことは事実でしょうが」
口元をわずかに緩め、男はゆっくりと一歩一歩前へと歩みながらそんなことを口にする。
そんな彼の姿を前に、その場に居た誰もが思わず後ずさる。
それはこの宗教軍の頂点に位置するプレメンスとて例外ではなかった。
「何を……何を言っている……いや、その赤い髪……まさか!?」
目を見開き、彼は信じがたいものを見るかのように思わず声を震わせる。そして現実を否定するかのように首を左右に振りながらも、彼はその男の名を口にした。
「朱の悪魔……アレックス・ヒューズ……」
プレメンスの言葉に、赤髪の男は口元を僅かに歪ませる。
そしてニコリと微笑むと次の瞬間、返事代わりに彼は手にした剣を一閃した。




