捌
一体ここはどこだ? 確かオレは瀬羅の心への接触を試みたはずだが…。
今オレがいるのは、ボンヤリと仄かに明るい霧の中とでも言おか、暗くはないが、何も見えない不確かな場所。
〈心会術〉とは、自らの魂を肉体から放ち、相手の魂と一体化させる技らしい。もちろん、それは後から瀬羅に聞いて知った事なのだが。
つまりその時オレは、瀬羅の心の中へと踏み入っていたわかだ。
しばらくの間、何も見えない霧の中をただ闇雲に彷徨い続けていたオレは、その中に浮かび上がる一人の人影に気がついた。
目を凝らしてみるとそれは黒髪の少女で、すぐに瀬羅だとはわかったが、今の瀬羅よりは随分と幼く見える。
幼い瀬羅は、道場を臨むあの寂れた庭で一人佇み、池をボンヤリと見つめていた。
その様子はとても寂し気で、不安げで、今の瀬羅からは想像も出来ない程に儚げだった。
「どうしたんだい? なぜそんなに悲しそうなんだ?」
「私、お父様のご期待に沿えないのが悲しいの。今日の試合、私なりに頑張ったのだけれど」
「試合で負けたのなら、次に勝てばいいじゃないか」
「試合には勝ったわ。でも、その勝ち方がお父様のお気に召すものではなかったの。お父様は、私の血が原因、そうおっしゃっている」
「君の血? どういう事なんだい?」
「私のお母様には人間の血が混じっている。その人間の血が、私の戦い方に水を差しているとおっしゃるの」
「え! 君に人間の血が?」
「ええ。私の立会いは美しくない、穢れていると。きっとお父様は、私の中にあるお母様の血を憎んでいらっしゃるのよ」
「でも、それは君の父親だって、知っての事じゃなかったのかい?」
「お母様はある術を使い身の上を偽ってお父様と交い、そして私を授かったの。それはお父様にとって許し難い屈辱だったのよ。私はお父様にとって恥ずべき存在、消したい過ちの残滓でしかない」
「そんな馬鹿な事があるはずない! 仮にも君の父親は君の母さんと愛し合い、それで君が生まれたんだ。恥ずべき存在だなんて言うもんじゃないよ!」
「私のお母様が、お父様の手に掛かり死んだのだとしても?」
「え?」
小さな瀬羅がオレを見上げる。真っ黒な瞳に溜まった涙が、キラキラと光りを集めていた。
「お母様は嘘をつき私を身ごもった咎で、お父様の手に掛かり殺された。その時、お腹にいた私は奇跡的に生き残り、お母様の親、つまり人間であるお爺様とお婆様の元で十歳まで育ったの。今こうして北鬼家の跡取りとして私が北鬼家の名を名乗っていられるのも、二人いたお兄様が相次いで亡くなったから。それどころか、跡取りにと考えた者は、ことごとく不審な死を遂げてしまう。北鬼には私しか、この穢れた血の私しか跡取りになる者がいなくなってしまったのよ。その事は北鬼家の血筋の者からは穢血の呪い、お母様の呪いと信じられ、私は北鬼の呪子として忌み嫌われている」
「その事は?」
「もちろん北鬼家の者しか知らない事。間違っても外に知られてはいけない事」
幼い瀬羅の目からは、泉の様に涙が溢れ出ていた。それはオレの知っている、能面の様に無表情で凍てつく様な冷たい瀬羅の姿ではなく、哀しくて弱々しい、幼い少女の心からの嘆きの様に思われた。これが、瀬羅の真の心なのだろうか?
オレは思わず瀬羅を抱きしめた。幼い瀬羅は棒きれのように細く固く、オレの腕の中で小刻みに震えていた。
「君は何も怖れなくてもいい。君には力がある。鬼として優れた力だ、いつか君は北鬼の、鬼修道の継承者として恥ずかしくない者となる。君に流れる君の母さんの血は、決して君を陥れる様な事はせず正しい方向へ導いてくれるはずだ」
「なぜ、なぜそんな事がわかるの?」
「オレは知っているからだ。迷いの無いキミの強さを」
瀬羅の喜びとも悲しみともつかない、細く長い叫び声がオレの耳を貫いた。それを合図に、オレは現実へと引き戻された。
幻想の中から目覚めたオレは、ガンガンと痛む頭を抱えつつ、目の前の瀬羅の姿を捉え、今までと違うその姿に驚いた。
瀬羅は顔を青くし、息を荒らげ、オレを例の冷たい視線で見つめていた。
「オレは、キミの心を捉えていたんだろうか? オレは〈心会術〉を、少しくらいは使えたんだろうか?」
「あなたは、何を見たのです?」
「幼い頃の君だ。君は自分の生まれについて、とても苦しんで…」
「止めて下さい!」
「え?」
「驚きました。〈心会術〉、あなたは私が考えていた以上に早く会得出来たようですね。〈心会術〉によって心に踏み入る事は決して容易な事ではありません。私がお教えした手法も、実際には才有る者が長い修行期間があってこそ会得するのが本当なのです。しかし、あなたは初めて試みたにも関わらず、それを会得してしまった。しかも、決して届くはずがないはずの心の深い部分にまであなたは踏み入った」
その言葉は震え、今まで見た事がないほど動揺する瀬羅がそこに居た。
必死にそれを隠そうと無表情を貫く瀬羅の心情を窺う事は難しかったけれど、言葉の端々から感じるのは、決して不機嫌でも怒っているわけでもないという事だった。
「心を見る〈心会術〉は心を開かせる事で心を捉える呪術で、自らの魂を肉体と切り離す、とても難しい術なのです。一度離した魂が肉体に戻れなくなる事すらある、危険な術でもあります。また心を開かせると簡単に言っても、相手を信頼する、愛する、そんな感情下において心は開き易くなるものと考えられており、それこそが私たち鬼にとって最も難儀なものであり、それ故に特別な才を持った者しか心を開かせる事が出来ないのが現実なのです。けれどあなたの中にある、人間の心、それが〈心会術〉を行う上で、有効だったのではないかと私は考えます」
「キミが見ていたのは、オレの記憶だけではなかった。オレの本当の心を見ていたんだね? その心が人間だと思うんだね?」
「なぜ純潔の鬼のあなたに人間の心が棲むのか、私にはわかりません。けれど、会ってすぐに私にはわかりました。あなたの心は人間なのだと」
才有る者にしか出来ない事がオレには簡単に出来た。きっとそれは魂を切り離すという難しい作業が、本来人間であるオレの魂と鬼であるこの肉体とは別物だから、思いがけず簡単に出来てしまった。
瀬羅が言っている事は、的を得ている様に思う。
「鬼であって人間の心を持つ、そんな中途半端なオレに、なぜキミは鬼修道を教えてくれると言うんだ?」
「どうでしょう。私があなたに大変興味を持った、そういう事なのかもしれませんね。けれど、あなたが〈東の雷鬼〉である事は確かですから。それと、一度お請けした約束を反故にする事は私の信条に一致しません。明日からは稽古の内容を剣術を交えたものへと変更しましょう」
瀬羅は一礼すると、道場を後にした。オレも瀬羅の厚意に感謝し、その姿が見えなくなるまで深くお辞儀をした。
そしてオレはある事にハッとする。
瀬羅は、オレの心にある人間に気が付いていた。自分の心にオレが踏み入る事が出来る可能性があると踏んでいた。例え時間がかかっても。にもかかわらず、その術をオレに教え、心に踏み入る様に促した。
それは、本来ならば絶対に隠しておかなければならない自分の秘密を、瀬羅はあえてオレに晒したという事になるのでは?
だとしたら、それには一体どういう意図があるのだろうか?




