肆
「鬼南さん、あなた、何でもすると言いましたわね?」
「あぁ、ウチ、嘘はいわんー 好きにしたらええー」
「では私が何をしても、我慢する事がお出来になると?」
「おー、何でも我慢しちゃる」
瀬羅はその言葉が終わるのを待たずに、煌火の頭を足蹴にした。道場内とはいっても、ゴツゴツとした岩に頭を力いっぱい踏みつけられると、額が岩にゴリゴリと押し付けられ、すぐに赤い血が染み出してきた。
クックッという瀬羅の含み笑い、煌火のくぐもった声が僅かに漏れる。
「あら、可笑しいですわね。あなたにもそんな赤くて綺麗な血が流れているとは。私、あなたってもしかしたら、その体中には汚らしい汚穢が流れているものかと思っていましたのよ。だってあなたの通われてる高校が汚泥学園、何てあなたに、汚らわしいあなたに相応しい学校なのかしらと思いましたの」
瀬羅の足に力が入る。グリッ。血の染みが、大きく広がる。
「けれど何よりあなたを許せないのは、こんなにも私の心を穢した事。あなたの顔を見るだけで、あなたの声を聞くだけで、私の心はどんどんと穢れていく。それはあなたのその偽られた血の為せる業なのでしょうね。ねぇ、嘘つきで愚かな赤鬼さん?」
「た、頼む、ら、雷児の……」
瀬羅が激しく煌火の顔面を蹴り上げた。
鼻から夥しい血が噴き出す。口から吐き出した血からは、コロリと折れた歯が数本転がった。間髪入れず、瀬羅の蹴りが何発も何発も煌火の頭を、体を捉える。
ドスッという、肉を打つ鈍い音が無音の道場に響く。極めつけの一発は、腹に入れた蹴りで、ひときわ大きな打撃音と共に煌火の体が数メートルも飛ばされる程の激しさだった。
「やめろーっ、止めてくれーーっ!」
腹を抱えてゲェーゲェーと血ヘドを吐く煌火の頭を、オレはしっかりと抱きしめた。良く見ると拳を固め、小さな体がブルブルと震えている。あれほど気の短い煌火、怒りを必死に抑えているのだろう。
「もういい、もういいよ煌火っ! オレのためにこんな事!」
「だからダメなんですよ、雷児さん。そんな女がどんなに痛めつけられようと、自分にとって都合が良いなら見て見ぬふりでいる。それくらいの心が無くて、何で鬼と言えましょう?」
「オレは、オレは……」
「それから先を言ってはいけません。それでは、その女がそこに転がっている意味が無くなってしまいますよ」
「な、なら…」
瀬羅は少し間をおくと、溜息まじりに答えた。
「いいでしょう。明日からここへ来る事を許します。ただし私の稽古が全て終わった後です。門徒として受け入れるわけにはいきません。鬼修道はしっかりと規律と統率の取れた組織です。それを乱す事は、たとえ時期当主たる私であっても、いえ私であるからこそ許される事ではありませんから。雷児さんは私の友人としてここへ招きます。友人との遊興、そんな事でしたら私が雷児さんに稽古をつけて差し上げる事が出来ますが、それで如何ですか?」
「そ、それでええ。のぉ、それでええじゃろう、雷児?」
「こ、煌火、いいのか? ホントにそれでいいのか?」
「あ、あぁ、それがえーんじゃ」
「そ、それでは、よ、よろしくお願いします」
オレは深く頭を下げた。もう瀬羅の顔には何の感情も浮かんでいなかったので、一体なぜ彼女がオレを受け入れてくれたのかはわからなかった。オレに同情したのか、煌火の心に打たれたのか、はたまた単なる気まぐれなのか。
そんな所へ、先程の門徒の一人が慌てて駆け込んできた。
「大変です、先程突然落雷があり、呼流荘から火が出ています!」
「わかりました、すぐに行きます。鬼南さん、雷児さん、今聞いた通りです。私は急ぎここを離れなければなりません。お見送りは出来ませんので、どうぞご自由にお引き取り下さい」
それだけ告げると、瀬羅は足早にオレたちの元からは走り去っていった。
北鬼の道場からの帰り、オレの心はやはり乱れていた。
全てはオレが弱いため招いた事だった。煌火にあんな真似をさせてしまったのも、無関係な北鬼瀬羅に世話になるのも。
しかし気になるのは、あの戦いの最中で見せられた幻影。あれはオレの心なのか? 母さんや父さんへの思い、野球への執着。オレは、それを奪われる事をあんなにも怖れているのだろうか? 確かにそれは考えるだけで心が痛む事だけれど。
「今晩もてごいーせんで、ママさんにゃ悪い事したのぉー。晩御飯、何じゃろぉーか? 腹減ったのぉー」
原型を留めないほどに腫れた顔で、それでも何事もなかったようにご機嫌な様子の煌火。
オレに気を使ってくれているのだろう。ありがたいやら情けないやら、オレはまともに煌火の目を見る事が出来ない。
「ありがとう、煌火。オレのために土下座までしてくれて、本当にありがとう」
「アホかぁ、鬼が頭なんて下げるわけなかろぉがぁ」
「だってキミ、一生懸命、頭下げてくれたじゃないか」
「ウチ、頭なんて下げちょらん。ただ一時、ちーと眠くなったんで、うたた寝しとっただけじゃ。くたぶれちょったんかのぉ」
「はぁ? うたた寝してた?」
「ほーじゃ。なんじゃ寝とった間に、あの女が勝手に勘違いしよって、雷児に稽古つけちゃるゆーたんで、ウチ、ほんに驚いたわぁ」
「え、でも」
「何じゃ、雷児まで勘違いしちょるんか? ウチ、ちーともはぐいー事はないけぇ、心配いらん」
「でも煌火、あそこまでして北鬼瀬羅に無理して頼まなくても、オレ、煌火と一緒に練習していれば…」
煌火は真面目な顔に戻ると、オレを見つめ言葉を繋ぐ。
「言うたじゃろぉ? 肉体的な鍛錬は、ウチがよぉーけぇー鍛えちゃる。じぇけんど心を鍛えるんわ、ウチとの練習だけじゃいけん。ウチと一緒に仲良ぉー学ぶもんじゃないんよ、鬼心ゆぅんは。その点、アイツはええ。ホンマの鬼じゃ。薄情で悪辣で冷酷で非情、ホンマ信用でける鬼じゃ」
それ以上は何も言わず、煌火はオレの手をギュッと握り、さっさと歩きだした。
その手は温かったけれど、あまりに強く握ってきたので、オレは痛みに耐え兼ね思わず悲鳴を上げそうになってしまった。
けれど、この強さが煌火の心なのだとしたら、オレはせめてそれくらいは黙って受け止めてあげようと、必死で痛みを堪え何とか平静さを保った。
見上げて見ればすでに空は真っ暗となっている。オレは脂汗を流しながら家路を急いだ。




