参
ポンッ!
瀬羅の手を叩いた音が道場内に響いた途端、その空気は一変した。
空気が暗く、重く感じる、緊張感で息も出来ない。オレはとりあえず手にした刀を振りかぶり、瀬羅へとにじり寄った。
瀬羅の目がスゥと細まり、その瞳が不気味に光る。無意識に背筋が冷え、震えが襲ってきた。刀を持つ手がガタガタと震える。必死で抑えようとするが、震えは止まらない。
オレはどんどんと膨らむ恐怖心をかなぐり捨て、瀬羅へ突進し刀を振り下ろした。
しかし、切先が虚しく空を切った瞬間、オレは水を浴びせられたような冷たさを感じた。違和感を感じて見たオレの腕が、オレの右腕が切られていた。
肘から先が、鮮やかな切断面を見せ、骨から切り取られてた。
「ぎゃぁーーー!」
オレは襲ってきた激痛に思わず叫んだ。声に誘われたかの様に血が激しく噴き出す。激しい痛みと体を貫く冷たさ、オレは為す術なく恐怖に呑まれていった。
なんで、なんで切られたんだーっ? 瀬羅は何処だっ? 気を付けろ! 気を付けろ! 右腕の次は、右腕の次は!
「そう。次は左腕をいただきます。あなたの大切な」
瀬羅の顔が、あの冷たい無表情な顔がオレのすぐ横にあった。「ひぃー」、女のような情けない悲鳴を漏らしながら、オレは何とか逃れようと必死で逃げた。逃げるしか出来なかった。
執拗に瀬羅の顔は付きまとい、逃げても逃げてもオレの耳元に冷たい息を吹きかけてくる。
しかし、良く良く見てみるとそれは、瀬羅の首に似せて作られた作り物だった。その作り物の首が、オレの襟元にぶら下がっていただけだったのだ。
ホッと胸を撫でおろした途端、その首が俄かに暴れ出し、オレの左腕に食いつき凄い力で食い千切ると、血が噴き出す左腕を咥えたまま、暗い空へと吸い込まれていってしまった。
「ひゃぁぁーーっ!」
オレは両腕を失い、地に這いつくばり咽び泣いた。オレの左腕がっ! もうボールが投げられない! 野球が出来ない!
悲しくて辛くて、胸が張り裂けそうだった。
そんな絶望に咽び泣くオレの耳に、暖かい声が聞こえた。
「……雷児、雷児?」
「母さん? 母さんだね? 助けて、オレ、オレの腕、腕が無くなって…」
「腕失くしたら、父さんの夢、どうするの? あなた、父さんの夢を引き継ぐっていたでしょう?」
「か、母さん?」
「お前、何をやっているんだ? その腕、どうした?」
誰? え!? も、もしかして…。
「と、父さん? 父さんなんだね!? オレ、腕、腕が……」
「そんな腕で野球が出来るのか? 野球が出来なくて俺の子だなんて言えるのか?」
「オ、オレは、父さんの…」
「野球の出来ないヤツなど、俺の子じゃない」
「と、父さんっ! そんな事言わないで! オレ、オレはーーっ!」
「お前には、本当に呆れたよ」
「母さん、母さーん、父さん、父さーん! くそーーっ、オレの腕を返せーーっ! 父さんをー、母さんをーーっ!」
「……せー!」
「ぅおおぉぉーーーーー」
「…目ぇ……覚ませー! 目ぇ覚ませ、雷児ぃーー!」
「ぐぬぁーーあーーー!」
「目を覚ますんじゃ、雷児っ!」
バッチーーッン!
猛烈な音が鼓膜を震わせた。
それと同時に、頬に激しい痛みを感じ、オレはハッとなり周りを見回した。そこは、さっき通された北鬼の道場に他ならなかった。
オレは目の間にある煌火の顔をみた途端、全てを思い出し煌火に抱きついた。
「煌火! オレ、腕を、腕を奪われてしまった! もうピッチャーを、ピッチャーを…」
「腕がどがーした、いうんじゃ?」
「え?」
確かに腕はなんともない。煌火に抱きつけているのは、紛れもないオレの腕だ。
側には瀬羅が立っている。オレは先程の残像が蘇り、思わず身を竦めてしまった。相変わらず能面の様な瀬羅の顔に、僅かな笑みが見て取れる。
「よかったですね、腕がご無事で。なんなら本当に落として差し上げる事も可能でしたが、あまりに雷児さんが哀れで、私とした事が、思わぬ情をかけてしまいました」
「お、おどれーっ!」
「私にお怒りになるのは筋違いではございませんこと、鬼南さん? あなた、おっしゃったでしょう、私程度の鬼に雷児さんは簡単には負けないと? 確かに勝てませんわね。だって余りにお可哀そうで。あんな立派な殿方にお泣かれになられたら、私、困ってしまいますもの。止めをさすなんて事、とても出来ませんわ。そういう意味では鬼南さん、あなたはとても雷児さんを理解していた、という事ですわね」
煌火のギリギリと歯を噛む音が、オレの耳にまで届いた。もちろんオレも悔しい。けれど、情けをかけてしまう程に弱い、それがオレの現実なんだと認識しなければならない。
弱いのはオレのせいであって、決して瀬羅のせいではない。
「お二人は勘違いされている様ですね。鬼の本質は畏れ、それは鬼修道においても根幹を為すのもの一つです。むしろ剣術の部分は後付けの様なものなのです。私が雷児さんに行った事は、畏れを与えただけ。畏れとは心に巣食うものです。心がいかなる揺さぶりや干渉にも耐える事が出来なくて、なんで敵と対峙する事が出来ましょう。雷児さんはまずは己の心を鍛える事ですね。そうでないと、拳をぶつけ合うことも、刀で打ち合う事も出来ません」
瀬羅の顔に浮かぶのは、哀れみに他ならない。
「雷児さん、あなたには鬼心がまったく見えません。あなたの心はまるで人間のよう。優しくて小さくて哀しくて、そしてあまりにも弱い」
ドキリとした。オレがつい一昨日まで人間だったのを見透かされたようで、どうしたら良いのかと煌火の表情を横目で追ってみた。
以外な事に、煌火はさっきまでとは違いすっかり落ち着いた表情で、静かに瀬羅を見つめていた。何かを思案している様にも見えたが、瀬羅がオレたちに道場を去るよう命じた時、思いがけない行動に出た。
「もうこれで十分でしょう。お帰りなさい。ここはあなたたちの来る所ではありません」
「頼む! 雷児を、ここの門弟として、迎い入れてやってつかぁーさい!」
瀬羅の前に進み出て、突然土下座をする煌火。
瀬羅の表情が強張る。初めて見せる、動揺の証とも言える。ただしそれも一瞬の事、また元の無表情に戻りつつ、それでも瀬羅の言葉には若干の興奮が感じられた。
「鬼南さん、あなた、あれだけ不遜な態度を取っておきながら、この私によくもそんな図々しいお願いが出来たものですね?」
「図々しいんわ、ウチの一番の長所じぇけぇ」
「そんな事をされたくらいで、私がすんなりと受け入れると思われるのですか?」
「思わんけぇ、何でも言うて欲しいんじゃ。ウチ、雷児に鬼修道学ばせてもらえるんじゃったら、何でもするけぇ!」
瀬羅の顔に明らに感情が走った。それは喜び、もしくは蔑み?
しかしすぐに瀬羅は、自分の感情を悟られるのを隠すかのように大きな声で笑いだした。もっとも、高らかに笑いながらも目だけは酷薄さを増し、その形相たるや総毛立つほどに恐ろしかった。




