壱
伝説。
その言葉はその男にこそ相応しかった。
スタンドを埋め尽くす満員の観衆、興奮に沸き返るスタジアム。そして、惜しみない拍手と喝采を独り占めにするその男を、人々は〈東の雷鬼〉と呼んだ。
バッターを睨みつけマウンドに仁王立ちするその姿は、まさに鬼そのものだった。
鬼が投げる稲妻のような直球は、並み居る強打者のバットをへし折り、同時にバッターの心まで粉々に打ち砕いた。
生涯、負ける事を知らず、一度としてマウンドを人に譲る事なく球歴を終えた〈東の雷鬼〉は、野球を愛する人々に鮮烈な記憶を植え付けた。
決して色褪せる事の無い伝説として。
「じゃあ、父さん、行ってくるよ」
机の上に置かれた古いグローブ。数々の栄冠を勝ち得てきた親父のグローブ。オレはそれにそっと触れ、いつもの挨拶を終える。
母さんは朝五時には仕事に向う。そんな忙しい時間を縫って用意してくれた朝食を一人ありがたく食らうと、足早に家を出た。ドキドキと胸が高まる。
オレは念願の高校への入学を果たし、今日は入学式なのだ。
私立御出井学園。関東では名の知れた野球の名門、甲子園の常連校。
中学では全国大会には手が届かなかった、そんなオレを評価し、声を掛けてくれた学校。オレの実力を、野球の能力を評価してくれたはずだ。
それでも世間の目はそうは見てくれない。親の七光り、そんな陰口が密かに囁かれるのを何度も耳にした。
〈東の雷鬼〉木藤雷太の息子。伝説の忘れ形見。
その大きすぎる名前がどれほど重くオレを苦しめても、必死に抗い血色の汗と涙を流し、オレはオレなりに頑張ってきたつもりだ。
決して追いつける背中ではない。けれど短い野球人生ではあるけれど、オレは唯一父さんと同じ勲章を手にした。
一度上ったマウンドを、一度たりとも誰にもゆずらなかったという勲章。
きっと父さんは褒めてくれるはずだ。父さんだけはちゃんと評価してくれるはずだ。
「だろう? なあ、父さん?」
そんな俺の新たな野球人生が始まる、大切な日。晴れやかな入学式になるはずだった。だが…。
思えば最初からどうも様子がおかしかった
校長の話を全く聞かずに奇声を発する新入生も、その新入生を手荒に簀巻きにして連れ去る上級生も、高校とはこんなものだろうと考えた。
ありえない程の巨体なヤツ、体中毛むくじゃらなヤツ、講堂の天井に張り付いて歌っているヤツもいた。流石に東京だ、どんでもないヤツがいるもんだと、受け入れようとした。
いや、受け入れるというよりは無視を決め込んでいただけなのだが。
そもそもオレの頭には野球の事しかなく、普段から野球以外、なるべく余計な事は考えまいとしていた。
それにしたって、余りに奇異な生徒たちは嫌でも目に入ってくる。
御出井学園、確かに学力に関してはそれほど良い評判は聞かない。それにしても、これは幾ら何でも酷くないか?
奇声と怒号の飛び交う混沌とした雰囲気の中、ようやく入学式が終わった。
入学式が終わり次第すぐに野球部のグランドに来るようにと事前に言われていたので、オレは騒然とする講堂をさっさと出ると、校舎に隣接するグランドを目指した。
野球さえ出来れば、それでいい。些末な事は考えまい。
そんなオレの前を歩く、小さな後ろ姿が目に入った。
赤い帽子を被った新入生の女子の様だが、肩から大きなバッグを下げ、背にもバッドケースを担いでいる。オレと同じ出で立ちだ。
最近でこそ、男子に交じって女子が野球をやる学校もあるとは聞くが、御出井学園は甲子園常連の名門校、女子部員がいるなんて話は聞いていない。きっとマネージャー希望か何かなのだろう。
その女子だが、近づいてみると被っている赤い帽子には、同じく真っ赤な角が付いているのがわかった。
なにかのコスプレか? 高校生にもなって、ずいぶんと幼いマネするんだなと思ったものの、とりあえず「チッス」と小声で挨拶して通り過ぎようとした時、後ろからその子に声を掛けられた。
「ちぃと待ちんさい」
「え、オレ?」
「なぁアンタ、ウチの顔に見覚えないかのぉ?」
「え、ゴ、ゴメン。わからない。だ、誰だっけ?」
どうやらオレを知っているようだが、オレには心当たりがない。
「ほーか、なら、ええ。ウチ、鬼南煌火ゆうんじゃ、よろしゅうのう」
その子はそう言って微笑んだ。可愛らしいその口元から見えたのが、なんという歯並びの悪さ! ギザ歯っていうのだろうか? まるで牙の様なその歯に思わずギョッとしてしまった。
「あ、うん。オ、オレは木藤雷児。よろしく」
見てはいけないものを見てしまったような、妙な罪悪感。
「ウチ、アンタの父ちゃんの事はよぉ知っちょる。東の雷鬼じゃろぉ? ぶちスゴイ鬼じゃったらしいのぉ。鬼の子は鬼、ウチ、アンタと一緒に野球やれるの、よぉけぇ楽しみにしとったんじゃ」
その子が続けた言葉に、オレは、あぁまたか、とガッカリする。
いつだってそうだ。
オレの名を聞くと、必ず誰しもが驚き、歓喜する。
ええっ、あの〈東の雷鬼〉木藤の倅! え、君も野球をしている、しかもピッチャー? それはスゴイ!
何がスゴイんだっ! オレの投げる球を見た事があるのかっ! スゴイのは父さんであって、オレじゃない!
オレはオレであって、父さんではない。ごく普通の人間だ。だから、死ぬ気で努力し、父さんと同じように人に鬼と呼ばれる様な、そんなスゴイ選手になろうとしている。
でも、今のオレは全然スゴくない。鬼だなんて奥がましい。
「悪いけど、オレは鬼じゃないから」
「なに、ゆぅとんじゃ? アンタ、鬼じゃろうが」
「オレは木藤雷児だ、木藤雷太じゃない!」
「ほうじゃ。アンタは雷児じゃろ? 言わんでもわかるわ」
「え…。そ、そうなんだ? オレの事を知ってるの? 父さん、じゃなくて?」
「当たり前じゃ。まぁ、そがーな事はええーけぇ、早ぉグランドへ行こーや」
その子は迷う事無くオレの手を引くと、スタスタと歩きだした。




