五日目の夕張は想像以上に経済状況が深刻そうだ
さて五日目には夕張へ行って炭鉱産業の現在を学ぶことになる。
ああホテルの朝飯はまあアレだった。
こういうホテルの、食事が基本的に不味い、にはちゃんと理由はある。
基本的に修学旅行の宿泊料金は最低限に抑えられているが数だけは多い薄利多売の客だ。
そして飲食の料理の材料費というのはその料理の3割くらいが普通だがたとえば1泊2食で4万5千円の宿でも、その金額のうち調理場におりてくるのはせいぜい3割の1万5千円ほどで、材料費にかけられるのはさらにその3割の5千円ほど。
宿泊料金が1泊2食で1万2千円なら調理場におりてくるのは4千円ほどでくらいで、材料費は1200円くらい。
だとすると刺し身なんかは養殖の魚で調理済みの冷凍物を解凍したものを盛り付けたりしたものが中心になったりするわけだ。
マグロ、イカなんかはそういった冷凍物がたくさんあるからな。
オムレツだのポテトサラダだのも当然出来合いのものだったりするがこの頃の冷凍食品は20年後のものに比べれば冷凍技術がまだまだなのであまりうまくない。
そして宿泊客が多ければ厨房の人数は増やさざるをえない、調理場で調理をする人間だけでなく配膳をする仲居さんだって沢山雇う必要があるし、この頃はインターホンなどで調理場と繋げられるわけではないので、調理場と仲居さんの連絡をとって調整をする人も必要だ。
そしてホテルのシェフや板長の給料がすごく高く、シーズンオフだからと給料を下げることも出来ない。
まあバイトであればある程度は調整できるが。
逆に部屋数の少ない小さな旅館であれば、雇う従業員の数も少なくてすむし、シェフや板長もまともな人であれば、原価率を抑えつつ、おいしい料理を提供することを考えてくれるし、配膳などにそこまで大量の人数も必要でない。
たとえば農家と仲良くなって直接新鮮な美味しい野菜を手に入れる、山へ出かけて山菜やキノコを採ってくる、魚も自分で釣ってくるなどをするようなことをするだけでも原価は抑えられるし、漬物だって自分で作れば圧倒的にうまいはずだ。
しかし、何百人という客数をさばくには、仕込みだけでも時間がかかってしまい、自分で安く食材を手に入れてくるということはまず出来ない。
そして宿の経営者には卸がゴマをすっているからそういった購入ルートを変更するような経営者もほとんどいない。
刺し身が乾いていたり、天ぷら、煮物、ご飯が冷めていたりするのも、予め何百人分を作り置きしてそれをいっぺんに配膳するからだな。
ああ、ホテルでも温泉旅館でもスイートルームや特別室の客には別の特別室用の調理場で調理をして、盛りつける器も全く違い、最善の状態で食事を出したりするけどな。
俺たちが買い取った温泉旅館はそこまで規模は大きくないし料金は3万円台から5万円台とけっして安くはないが、その価格に見合う以上の料理を出したり、清掃や接客を徹底させたり、エステサービスをすることで比較的余裕がある家族客や親子連れなどに評判は良いし単独客でも同じように扱っている。
この時代は大人数の団体客相手の薄利多売のほうが有利だと思われているが、シーズンごとに客数の波が出やすい宿泊業界では忙しいときに合わせて客室数や従業員数を設定してしまうとシーズンオフはきついわけさ。
さらに言えばこの時代の北海道の米はまだまだ不味いので有名だったりもする。
だから修学旅行じゃなかなかうまい飯は食えないってわけさ。
一日目のフランス料理は金がかかっていたし、ジンギスカンはホテルで食ったわけじゃないからうまかったんだけど。
それはさておき札幌から夕張はバスで1時間半くらいなのでそこまで遠くはない。
夕張市は夕張メロンの産地として知られ、優良な製鉄用コークスの原料炭を産出し、最盛期の1960年代には炭鉱数は20前後を数え人口116,908人を記録したが、1970年代以降には度重なるガス爆発や海外炭の普及、石油へのエネルギー転換などにより競争力を失い次々閉山に追いやられ、昭和56年(1981年)の北炭夕張新炭鉱ガス突出事故、昭和60年(1985年)の三菱南大夕張炭鉱ガス爆発事故発生でそれぞれ死者がでたのが止めとなり、北炭夕張新炭鉱ガス突出事故発生時の昭和56年(1981年)には北炭夕張新炭鉱、北炭真谷地炭鉱・三菱南大夕張炭鉱の3つ、翌年の昭和57年(1982年)に北炭夕張新炭鉱が閉山すると北炭真谷地炭鉱・三菱南大夕張炭鉱の2つになっており、この二つの閉山もほぼ決定的な状況だった。
しかし夕張は元々炭鉱の開発により山合いに開かれた街であったため、農業に向く平坦地が少なく石炭産業以外の産業基盤がほぼ無いために、福島がハワイアンセンターで雇用を創出したようなことも出来ず、働き手の若者が札幌や東京へ流出し、人口が激減し街には高齢者だけが残る結果となり、急速に少子高齢化が進んでもいる。
そのために観光地としてアピールしていこうと昭和57年(1983年)‘石炭の歴史村’をオープンしたが雪に閉ざされて冬には営業できないテーマパークが黒字になるわけもなかった。
”前”では更に、炭鉱閉山の後処理や映画産業、観光産業の不振が市の財政を圧迫した結果、平成19年(2007年)には財政再建団体として指定を受け、事実上財政破綻し、人口は1万人にまで減ってしまっていた場所だ。
夕張の財務が悪化したのは必ずしも夕張市だけの責任ではない。
昭和57年(1982年)に北炭が所有していた夕張炭鉱病院を市立病院に移管したが、その際に市は40億円を負担し、さらに北炭は、夕張新炭鉱での事故を理由に、鉱産税61億円を未払いのまま撤退。
また、北炭・三菱は炭鉱住宅5000戸や上下水道設備などを夕張市に買収してもらい、その額は151億円に達した結果「炭鉱閉山処理対策費」は総額583億円に達した。
施設は地元企業の利益のためと建設費が相当高く設定され、観光客誘致よりも雇用確保を優先したため、各施設が余剰人員を多く抱えていたこともあって、どこも赤字だらけだった。
すでに昭和57年(1982年)12月20日の『北海道新聞』では「夕張市は財政再建団体への転落必至」と報じられており、自治省(後の総務省)は財政緊縮を強く指導したが、市はそれに従わなかったのも収支悪化の原因だった。
‘石炭の歴史村’は模擬坑のある「夕張市石炭博物館」を中心に、等身大の人形を用いて炭鉱住宅街の様子を再現した「炭鉱生活館」、大観覧車やジェットコースターなどがある遊園地「アドベンチャー・ファミリー」、2万本以上のバラが咲き乱れる「ローズガーデン」の他にも夕張ロボット大科学館、ゆうばり化石館、夕張キネマ館、コンサート用の野外ステージであるグリーン大劇場なども併設されており、年間200万人の観光客招致を目指した夕張市の「炭鉱から観光へ」の象徴であったのだが、内容に一貫性があまりない事もあって集客は伸び悩んだ。
いやどことなく谷津遊園にも似ている気もするからあまり他所のことは言えないが。
あと夕張には‘冷水山スキー場’もあるが、こちらはまだゲレンデがオープンしていない。
まず夕張市石炭博物館を見て回り、炭鉱生活館も見て、遊園地のアドベンチャー・ファミリーでも遊んだが実はそんなに悪くはない割には閑散としている気がする。
「なんか色々惜しいよなここ」
「宣伝不足なのかしら?」
「‘いわみざわ公園のグリーンランド’っていう遊園地のほうが札幌から近いからそっちに行ちゃうのかもな」
さらにルスツにも遊園地はあるんで意外と北海道の遊園地競争は厳しいかもしれないが、たとえば札幌や千歳空港から送迎バスがあれば変わってくるかもしれない。
夕張はもともと貧しかったものの炭鉱産業で突然豊かになった。
だが、それが唐突に終わりを告げたのに、それを受け入れられないで、旧来からの方向転換も進まないという意味では日本そのものにも重なるものがあるな。
それなりに金をかけて再開発してみれば日本の将来を変えるためのモデルケースに出来るかもしれない。




