2.5-5
クロが向かった先は喫茶店からさほど遠くない、第一区画の住宅地にある緑の多い公園だった。大聖堂が近いためか、風に乗って微かに賛美歌が聞こえてくる。クロは木陰に隠れ、大通りを挟んだ向かいに建つ一軒の民家に目を向けた。
「見えるかい? あの家だ」
クロの指し示した家は一見したところでは何の変哲も無いごく普通の民家だ。二階建て、白い壁に白い屋根。耳を澄ませれば中からはかすかに幼い笑い声が聞こえてくる。
「……あれが何だと言うんだ」
怪訝さに眉間にしわを寄せた私に対し、クロは鞄から大きな瓶を取り出してみせる。瓶の中には白っぽくきめ細かな砂が入っていた。
「それは……」
私は目を見開く。クロが瓶を開けると、砂はひとりでに動き出し、ものの数秒で件の民家の精巧なミニチュアを形成した。ジーナもいつも使っていた魔術装具、“写し砂”だ。対象の構造や内部の動きをリアルタイムで複製する優れものだが、この装具は確か『聖歌隊』の隊員のみに与えられる門外不出の代物だったはずだ。
「……どうしてお前がそれを持っている?」
「如月さん、ご覧」
私の質問をまるきり無視し、クロは砂を操作する。砂の壁の一部が開き、家の中の様子が見て取れるようになる。
“写し砂”は内部の家具や調度品なども正確に複製するが、それらをまじまじと観察しても武器が隠されていたり、何かを密造していたりといった不審な様子は無い。家の中には比較的大きな人影が二つと、小さな人影が一つ。おそらく両親とその子供だろう。これも別段、妙なところは見受けられなかった。
「何か変わったところは?」
「また謎かけか? ……分からない、私には普通の家と家族に見える」
「そうさ、正解だよ。この家はごく普通の家さ」
「お前、馬鹿にしてるのか……」
文句を言おうと顔を上げると、クロが私をじっと見据えていた。その表情がいやに真剣で、私は言葉を詰まらせた。
「如月さん、約束してほしい。これから何があろうと、決してここから動かないと。いいかい、何があろうとだ」
「何を……」
「約束しておくれ。何があっても、決してここから離れないでほしい」
「……ああ……」
クロの気迫に思わず気圧され、意味が分からないまま不承不承に頷いた。クロは白い家に顔を向け、辺りを憚る小声で、
「今日これからあの家で、『聖歌隊』の悪魔狩りが行われる」
「……何故お前が、それを知っている?」
思わず目を剥いた。『聖歌隊』の出動予定は、任務の性質上当然のことながら外部には極秘である。今の話はここ数日の間隊から離れていた私も知らなかったものだ。ましてや部外者であるクロが知っているはずがない。
「本当に秘密にしておけることなんてひとつだって無いのさ、世の中にはね。……おっと、来たよ」
クロの視線の先には、件の家を包囲せんとする聖歌隊服姿の数人の影があった。遠目からでも分かる。つい先程、私と街中で出くわした少女達の隊だ。出会った時、これから任務があると話していたことを思い出す。
「あれは……」
“写し砂”に目を落とす。家の中の人━━いや、悪魔のミニチュアには異変に気付いた様子は無い。会話までは複製できないが、見た限り全員で食卓を囲んでいるようだ。楽しそうにはしゃぐ小さな子供を見守る両親の図。その様は、まるで悪魔のものとは思えなかった。
ざわり、と不意に心が波打った。
「……悪魔、なんだよな……?」
クロは黙して答えない。焦燥に似た感覚が強まっていく。そうしている間にも、『聖歌隊』の少女達は各々家を取り囲み、突入の準備を完了しようとしていた。私の鼓動は徐々に速くなっていく。
「おい……! 答えろ! 中にいるのは悪魔なんだな? 間違いないんだな!?」
クロの肩を荒っぽく掴み、揺さぶる。だが彼女は私に顔さえ向けず、白い家と『聖歌隊』を食い入るように見つめていた。
「……始まった」
扉を破り、窓を割り開け、少女達が家に突入する。“写し砂”のミニチュア上にも複数の武装した聖歌隊員が形作られ、内部の人影が慌てふためくのが見て取れた。そして、間も無く悲鳴と怒号が私の耳に飛び込んでくる。どう聞いても人間のものだ。悪魔の掠れた金切り声ではない。
「何てことだ……!!」
すぐさま立ち上がろうとした私の腕を、クロが掴んだ。
「どうするつもりだい?」
「離せ! 見れば分かるだろうあれは人間だ! 何かの間違いだ! 助けないと……!」
「いいや、悪魔だよ。彼女達にとってはね」
「何を言って……!」
掴まれた腕を振り払おうとしたが、クロはさらに強い力で私を引き寄せた。
「ここから離れないと約束しただろう? それに、家族のことを考えなよ。君が『聖歌隊』の任務の邪魔をすれば、君の家族はどうなると思う?」
クロのその言葉に、脳裏に妹と両親の顔が浮かぶ。ここで悪魔狩りを妨げれば、『聖歌隊』は私を悪魔に唆された反乱分子と見做し、家族も無事では済まないだろう。
しかし、だからと言って――。
私が戸惑い躊躇っている間に、銃声が響く。“写し砂”は屋内で比較的大きな影――おそらくは父親が頭を撃ち抜かれ倒れる様子を克明に描き出した。同時に耳に届く、悲鳴。
「……悪魔……悪魔なんだな……? あれは……人間じゃない……そうなんだよな……?」
震える声で、縋るようにクロに問い掛ける。クロは何も答えない。
その時女の叫び声が聞こえ、私はハッとして“写し砂”に目を落とす。家の中では母親であろう影が、『聖歌隊』達に身を呈して摑みかかろうとしていた。そして同時に、その背後の小さな影が窓辺へと必死に走る。『聖歌隊』達は銃を構える。
再びの銃声。母親らしき影が倒れ、小さな影は“写し砂”のミニチュア上から消えた。
私は慌てて顔を上げる。見ると大通りに面した窓から、小さな人影が飛び出してくるところだった。涙を浮かべた幼い顔立ちには角も牙も無く、その背には翼など無い。短い手足で必死にこちらに駆けてくる様は、紛れもなく――
「ッ……人間だ!!」
即座に立ち上がり子供――少女だ――に駆け寄ろうとして、私は背に強い衝撃を感じて地面に突っ伏した。クロの手で殴打され叩き伏せられたと、すぐには理解できなかった。
「お前ッ……! 何を……!」
圧し潰すかのように押さえ付けてくるクロから逃れようと必死に足掻き、地面を引っ掻く。視界の中では逃げる少女を追って聖歌隊員が窓から出てくる。その手には拳銃。
「離せ……離せこの馬鹿女ッ!! やめろ……はやく……はやく……!!」
小さな身体ながら、少女は必死にこちらへ走ってくる。嗚咽を漏らし、足を縺れさせながらも大通りを渡るその顔は、私の妹とほとんど同年代のそれだった。
その眉間に、小さな穴が空いた。
つんのめるようにして少女は倒れた。うつ伏せになったその頭から、ゆっくりと路上に血溜まりが広がっていく。
「あ……あ……ああああ……あ……」
私の口から、声にならない声が漏れる。クロの腕はもう離れていたが、起き上がることは出来なかった。路上では『聖歌隊』が倒れた少女の身体にさらに二度、銃弾を撃ち込んだ。念入りな死亡確認は隊員の基礎だ。隊員はさして感慨に浸る様子も無く、踵を返した。
「ここから離れよう。すぐに処理班がやって来る」
私はクロに手を引かれ、半ば放心状態でふらふらと歩き出した。少女の死に顔が目蓋の裏に焼き付いて、いつまでも離れなかった。
◯
クロが足を止めたのは、先日見た壁の穴にほど近い廃屋だった。随分前から放置されているらしく、中は埃と黴の匂いが充満していた。
ぎしぎしと床を軋ませながら、クロは慣れた様子で屋内を歩く。水筒の水を渡してくるが、受け取る気にはなれなかった。
「……いつからだ」
震え、掠れる声で問う。
「今回だけじゃ……ないんだろう……? ずっと……? 『聖歌隊』はずっと……人間を殺してきたのか……!?」
「そうだよ」
クロは鷹揚に頷いてみせた。
「何故だ……!」私は頭を抱え、蹲る。「確かに悪魔だった! 悪魔だったはずなんだ! 角も牙も尻尾もあった! 言葉なんて通じなかった! だから私は……私達は……!」
私は駄々をこねる子供のように自らの身体を抱き、廃墟の床で縮こまる。これまでに殺してきた数十、数百の悪魔達の顔、額に穴の空いた少女の顔と、両親と妹の顔とが重なって見えた。縋り付くように聖書を胸に抱く。
「『祝福』だよ」
頭上から聞こえた思いもよらない言葉に、顔を上げる。
「なにが……」
「『聖歌隊』は任務の前に必ずラジエルの『祝福』を受けるだろう? 人間が悪魔に見えていたのはその所為さ。それがラジエルの持つ力だ。人の認識と記憶を書き換え、上書きする力……。君が一度は部下の死の真相を忘れようとしていたのも、その力の為さ」
ラジエルの『祝福』。悪魔狩りに臨む隊員にラジエルが直接触れ、守護の祝福を授けるというその儀式は、任務の前に欠かしたことは一度たりとも無かった。
そして私が部下を屍者として失い、その記憶を何故か都合のいいように忘れていた時。そうだ。あの時も確か、審問中にラジエルに触れられ、意識が遠退いたのだ。
「……そ……それなら、何故私は書き換えられた記憶を思い出せたんだ……?」
「ラジエルの力は強力だが、破るのは簡単だ。書き換えられた認識や記憶に齟齬を見つけ、違和感を抱けば解けてしまう。最初に会った時に僕のことは内緒だと言って、君もそれを守っただろう? それでラジエルは僕のことまでは記憶を改竄できなかった。僕に出会ったことで、君は記憶と現実に強烈な違和感を抱き、改竄を破ったんだ」
喫茶店で偶然クロに出くわした時、私は強い頭痛と共に忘れていた記憶を思い出した。もしクロに出会わなければ、私は改竄された記憶のまま、部下達は任務中にただ死亡したものだと信じて疑うことなど無かっただろう。
「ラジエルの力は街全体に及んでいる。彼女ら天使に都合のいいように人々の意識を補正し、多くの信仰を集めるためにね」
「街って……カルィベーリ全体にか!? ちょっと待て、今お前が言っただろう、ラジエル……様、の力はすぐに解けてしまうと! この街の住人は膨大だぞ、書き換えられた認識に違和感を持つ人もいくらでも……」
「ああ、中にはいるだろうね。この街の仕組みに疑問を抱く人々が。だからこそ、君達『聖歌隊』がいる」
「…………!」
私は思わず総毛立つ。
「天使の与えた環境に疑問を抱き、改竄を破った人間は……。……悪魔として処理される……か……?」
「その通り。仮初めの『敵』を用意することで、民衆の結束も高まる。実に無駄が無い」
点と点の情報が、線で繋がった気がした。反吐が出るような仕組みだ。人間を単なる駒としてしか見ていない。
「それに、常識を疑える者はそう多くはない。僕達のような若い世代は生まれた時から天使達の造った環境で、天使達の施す教育を受けて育ってきた。君の持ってるその聖書……いつ作られたものだと思う?」
「え……」
そんなことは考えたことも無かった。
幼い頃に与えられてから、肌身離さず持ち歩いていた古ぼけた聖書。それは信仰の証であり、正しさの印だった。道理や判断に迷った時は、いつでも聖書を読み解けば正答を得られた。
「五十年前だ。この街が造られた時、天使によって統治に都合のいいように編纂された。外の時間で言えば……五年前だ」
「……は……。……ははっ……」
乾いた笑いが溢れた。
「ははは……ははははは……! あははははははは……!」
何もかもが馬鹿らしかった。私の歩いてきた道も、信じていたものも、全て出鱈目で、無価値で、空っぽだ。目からは熱い雫が溢れていたが、喉の奥から溢れる笑いは止まらなかった。クロはそんな私を、ただ黙って見つめていた。
いつしか陽は傾き、街は夕陽に照らされていた。夕陽と言っても、ただのそれらしい照明だ。この街に本当の空は無い。いや、本当のことなどこの街にはひとつも無いのかもしれない。
「……天使達がそうまでして隠したいものとは、何なんだ」
床に座って膝を抱え、同じく腰を下ろしたクロに問い掛ける。
「都合の悪いこと、何もかもさ。外の世界のこと、天使のこと、この街のこと……。でも一番は、屍者のことだろうね」
「屍者……」
「天使達の教えでは、悪魔に唆され信仰を失った者だけが死後屍者として蘇ると言われているけれど……本当は違う。信仰なんて関係なく、全ての人間は死ねば屍者として蘇る。僕や君もね」
「全て……?」
「そうさ。そんなことが公になれば民衆は死を恐れ、疑心と不安に駆られ、安定した統治は難しくなる。それに一度屍者が発生すれば被害は大きく、最悪街の全滅もあり得る。屍者の発生を防ぐため、天使は細心の注意を払っている。不慮の事故はともかく、老人や病人はすぐに隔離されるようになっている」
老人や病人。それを聞いて、シスター・アビゲイルの顔が浮かんだ。高齢者が送られる報労特区。聞こえこそ良いが実際のところはどうなのか。中の様子は一切外部には明かされない。連絡も取れない。特区に入った途端に殺されている可能性すらあるだろう。
「でも……そうか……全て、か……。……良かった……」
私の言葉に、クロは怪訝な顔を浮かべた。
「私の部下は……皆信念を抱いたまま死んだんだな……」
ずっと気にしていたことだった。部下達が屍者となって死んだのは、死の間際にこの街や天使、『聖歌隊』への恨みを抱いて憎悪の内に死んでいったからなのではないかと。だが、違った。たとえ全てが嘘だったとしても、彼らは自らの信仰を抱いたままに逝ったのだ。そう思うと、ほんの少し安心できた。
クロは何か思うところがあったのか少し俯いて、それから意を決したように私を見据えた。
「僕が何者なのか、君は何度も訊いたね」
何を考えているのかまるで読めなかったクロの瞳に、今は明確な感情が見て取れた。それは深い哀しみと、憂いと、怒りだった。
「僕は君と同じだよ。かつて『聖歌隊』として、大勢の無辜の人々を殺した」
「…………」
半ば想像はしていたことだった。戦闘や諜報の技術は『聖歌隊』として培ったものなのだろう。元隊員という立場であれば、隊内や街の内情を探るのもそう困難なことではないはずだ。
「僕はラジエルの呪縛から抜け出し、街の中と外を行き来しながら情報を集めた。そうして時が来るのを待った」
「ラジエルの力から……自力でか?」
「自力、と言っていいものか……」
クロは目を伏せ、溜息をついた。
「僕は部下達を屍者として失った。いくら上書きされようと決して消えないその痛みが、僕を現実へと引き戻したんだ」
「部下……? ……もしかして、お前……」
私は息を呑んだ。今の『聖歌隊』第一部隊隊長はこの私だ。その激務ゆえ、先代、先々代の隊長は任務中に死亡したと聞いている。
だが、その前は、確か――。
「そう。僕は君の、三代前の第一部隊隊長さ」
「…………。 ……重荷に堪え兼ねて失踪したと聞いていたが……」
「まあ、あながち間違ってもいないさ」
クロはあっけらかんと言う。あまりに予想外の事ばかり聞かされすぎて、私は大きく息を吐いた。
「……もう一つ、疑問がある」
「何かな」
「何故、私なんだ」
「……何故、とは?」
「私以外にも『聖歌隊』は大勢いる。それこそ先代、先々代の隊長でもよかったはずだ。何故今、私に接触して真実を明かした?」
クロは難しそうに眉間にしわを寄せ、頭を掻いた。そして後ろめたそうに――あるいは癒えぬ傷を引きずるかのように、重い口を開いた。
「……僕が失った部下の一人は、僕の最愛の友人だった。彼女がいたからこそ、彼女を失ったからこそ、僕はその痛みで天使の呪縛から逃れることができた」
クロは私を見据えて言う。
「如月菜乃。君の姉だ」
〇
既に陽は落ちかけ、宵闇が迫ってきていた。廃屋に灯りはなく、室内はほとんど真っ暗だ。一瞬、クロの瞳だけが僅かな光を反射して、猫のそれのように光って見えた。
「明日、天使から今後の処遇の通達があると言っていたね」
「……そうだ」
「もう一度ラジエルに会えば、君の記憶と認識は君個人に合わせたチューニングを施された、さらに強力な力で改竄されるだろう。そうなれば、また改竄を破れるかは……分からない」
「……改竄されたら、私はどうなる?」
「これまでと何も変わらないだろうね。僕と話した全てを忘れ、この街の為に『聖歌隊』として悪魔を狩り続ける……それだけだ」
私は奥歯を噛み締める。それはつまり、罪の自覚すら無しに無辜の人々を殺し続けることと同義だった。
「君には二つの道がある。一つはこのまま街へ戻り、何もかも忘れてこれまでの生活へ戻ること……」
「……もう一つは?」
「……もう一つは、僕と一緒に来ることだ」
クロが一歩踏み出すと、窓から差し込む僅かな光に照らされ、その顔が青白く浮かび上がって見えた。
「……行って、どうする」
「天使を滅ぼす」
クロはそう言い切ってみせた。途方も無い目標。遥か遠大な夢物語だ。しかしその言葉には、確かな決意と覚悟が籠っていた。
「天使も悪魔も屍者も、何もかも滅ぼし尽くして、人間の自由を取り戻す。それが僕の目的だ」
「……私に、それに加われと?」
「強制はしない。選ぶのは君だ」
「…………。……家族を、置いてはいけない」
私がいなければ、家族は満足に暮らしていけないだろう。市民としての等級は下げられ、過酷な環境に置かれることになってしまう。そんなのは、耐えられなかった。
「……悪魔によって殺された……とされる聖歌隊員の家族は、一時降級が猶予される……という制度は知っているかい?」
クロの言葉に、私は顔を上げる。
「……何?」
「まあ、表向き公開されている制度ではないからね。それまで働き尽くしてきた娘が死ねば即降格……というのでは民衆の印象も良くないだろう? 君のお姉さんが死んでから、君の家族が降級されずに済んだのもその制度のお陰だろうね。
……私の仲間に、偽装工作に長けた子がいてね。第一分隊の隊長である君の死ともなれば……まず、十年は大丈夫だろう」
「……十年……。……外の時間にすれば、ほんの一年だろう? そんな時間で、何が出来る?」
「出来るさ。君がいればね。……少なくとも、この街を根底からひっくり返すくらいはね」
私はしばし黙り込み、目を逸らした。
「……お前の道が正しいという保証はあるのか」
私は闇の中でクロを睨み、
「私のこれまでは全て虚構だった。信じていた道程は全てが誤りだった。お前の歩む道はそうでないという保証はあるのか」
「無いよ」
取り繕うともせずクロは答えた。
「保証なんて何も無い。僕だって今も不安なくらいさ。ただ……」
クロは私に、静かに手を差し伸べた。
「僕は君に、決して嘘偽りはしない。それだけは誓おう」
闇に浮かぶ白い掌を、私は無言で見つめた。
まるで、悪魔だ。天使の騙った偽りではない、美しい姿と蠱惑的な言葉で人を人ならぬ道に誘う、本当の悪魔。
「……お前は卑怯だ」
私は嘲るように笑う。
「私に選ばせるだと? ……選択肢など、無いじゃないか」
目頭が熱くなる。必死に堪えようとした涙が溢れ落ちてしまうと、あとはもう止められなかった。
「お前となんて、出会わなければよかった。何も知らない私のまま、生きて、生きて、生きて……。……死にたかった……」
クロは何も答えない。その表情は陰になって窺い知れない。私はその手を、強く握り締めた。
「……やってやる。ああ、やってやるさ。今更過ちは拭えないが、その罪を忘れることなど許される筈がない。お前の口車に乗ってやる。全ての天使に、人を弄んだ報いを受けさせてやる……!」
クロはその端正な口を、三日月の形に歪ませた。
「……ありがとう、如月さん。ここからだ。僕達の戦いは、今ここから始まる」
夜はその深さを増し、いつしか私の身体までも闇色に塗りつぶしていた。
どこかから私の耳に、美しい賛美歌が聞こえてきた。それはきっと、気のせいだろうと思った。
◯
見渡す限り、一面の荒野。
まばらに残る廃墟達はどれも半ばから崩れ、かつての戦火をまざまざと物語っている。かつて焼き尽くされ瓦礫に埋もれたであろう地面には、今は背の低い草花が生い茂っていた。風は冷たく、身体の芯まで凍えるようだ。こんな寒さも、これまでは味わったこともなかった。
振り返れば、カルィベーリの荘厳な威容が遠くに見えた。天使の箱庭。虚飾に満ちた街。私のすべてだった場所。私が今、捨てようとしているもの。
「……家族が心配だ」
ぼそりと呟いた私に、クロは厚手のコートをひらりと翻した。
「帰るかい?」
「今すぐにでも帰りたいよ」
「同感だね」
クロは冗談っぽく、しかしどこか寂しげに言った。そういえばこいつにも家族がいるのだろうか、と思ったが、訊くのはやめた。どうせまともに答えはしない。
家族の顔が頭から離れなかった。私がいなくなって、両親と妹はどう思うだろう。悲しむだろうか。怒るだろうか。私無しで、暮らしていけるのだろうか――。
消せども消えぬ未練の念から目を背けるべく、歩を速める。クロからは非難の声が上がった。
ぬかるんだ草原に道など無く、私は何度も足を取られそうになる。こんな風に歩くのも初めてのことだった。むせ返る草の匂い。裾を濡らす露。虫達のさざめき。遥か上空を飛ぶ鳥の群れ。何もかもが新鮮だった。
「一つ、訊いていいか」
「何だい?」
「……私の姉は、どんな人だった?」
背後のクロは一瞬、ぴたりと足を止めた。だが私が振り向くより前に、すぐまた歩き出した。
「君のお姉さんはね……」
「…………」
「……すごく可愛かったよ」
「…………」
「本当の事さ」
「…………」
「君に声をかけたのも、可愛かったからだしね」
「…………」
「ちょっと! 今のは半分冗談……待っておくれよ!」
私は憮然として早足で歩いた。
「……そういえばお前、一体いくつなんだ?」
「中と外を行ったり来たりしてたからね。実年齢は丁度君と同じくらいかな」
「へえ……若作りしてるんじゃなかったのか」
「君は僕への容赦というものが無いのかな?」
私はクロと並び、真っ直ぐ前を見て歩いた。もう後ろは振り向かなかった。今振り向けば、きっときつく結んだばかりの覚悟も容易く解けてしまうと思った。
頭上には厚い雲がかかり、遠からず雨も降り出しそうだった。御世辞にも美しいとは言えない空だ。
けれど確かに、本当の空だった。




