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町は雨にて2

 (けい)は傘は持っていた。ただ折りたたみ式ではあまりにも小さすぎる。


「ごめんね、なんか傘持たせてる見たいになって」


 小雨程度であれば問題なかっただろうが、横から吹き荒れる暴風雨はどうやっても濡れてしまう。2人並ぶと肩どころか胸元あたりまで濡れてしまうので傾けて慧を守るように傘を差す。


「忘れた俺が悪い。濡れないか?」


「おかげさまで。でもこんなに濡れて帰ったら怒られない?おばさん厳しい人なんでしょ」


「まあ、こればっかりは仕方ない」


 昭穂は明澄に進学するに当たって実家を出て、親戚の家に引っ越した。厳しい人たちではあるが、粗雑に扱われることもなく家族として受け入れてもらっている。


「テストで1位取ったときの貯金があるから、そこまで言われることはないだろうけど、傘を忘れたことはいろいろ言われるだろうな」


「え、なんて言いました?」


 車が通るたび、水の跳ねる音で声が聞こえなくなる。バツバツと傘を響かせる雨音からも雨粒は大きく、会話なんてできる環境でないことは確かだ。


 そこで会話は途切れた。ただ無心で昭穂は歩みを進める。


 天気に反して上機嫌な慧は、その軽やかな足取りで水たまりをバシバシしばいている。もうここまで酷い雨だと靴を履いているもはいていないも一緒だ。


 町は水没したみたいだ。街灯もそろぞろと明かりを点し、その姿を現す。民家の風見鶏が回って軋む音、水田に広がる水紋、車のテールランプが連れているあの霞の先、鳴り響くクラクション…幼い頃感じたあのすべてが洗われていくような感覚をもう一度手にしてみたかった。心が溶けてできた泥濘が綺麗さっぱりなくなるのを期待する。


 昭穂はそうやって思考を無限の彼方に飛ばした。彼の思考の先には常に(まゆずみ)清司郎がいた。彼に伝うのは雨音とそれに付属する環境音と雨粒の冷たさだけであった。そこに1つの温度が伝わる。慧の腕が触れている。


「狭いか」

 昭穂は傘をより慧の方に傾ける。


「違います」


「じゃあなんだ」


「意識がどっかいってたんで。ほら、信号ですよ」


 ああ、そっか。最近疲れているのだろうか。それとも日に日に近づくあの日を、自分は恐れているのだろうか。

「久しぶりに見ますね、昭穂くんの学ランじゃない制服姿」


「そうだな、慧の白シャツも久々だ。5月までは生徒会に合わせて上着着用だったから、開放感がすごいよ」


「もう夏も近いですからね。女子も男子も露出アップの素晴らしい季節到来ですね」


 女子は日焼けを気にして隠すものなのでは。実際に慧は長袖のシャツを捲り、その柔らかい腕を曝していた。そして遠慮なくぶつけてくる。


「なあ、もう前見てるから腕ぶつけるのやめてくれないか」


「というか、女子と肌触れあってドキドキとかしないんですか」


「その男心を慮れるのなら早急にやめるべきだな」


「優しさでやってるんですから。嬉しいんでしょ」


 意識しないと言ったら嘘になる。こういうことを感じると嫌でも慧を女子だと意識してしまう。そうするとなんだか自分のいるこの位置がすごく場違いに感じて、そしてその度に慧を遠くに感じてしまう。だから、その肌のぬくもりは近くにいてくれている証左でもあって、なんだか安心する。そして、いつかなくなってしまう寂しさを、鋭く研いでいる。その音もまた心地よいのだ。


 半分どころか、ほとんど慧しか傘に入っていないのでいっそう話し声は聞こえづらくなっていた。昭穂が腰を曲げ、慧の口元に耳を持っていってやっと会話は成立した。それを慧は面白がっていた。


「昭穂くん、チキンレースしましょう」

ゼロ距離で言うものだから、その冷めた外気に存在できた吐息に過敏になった神経は反応してしまう。


「内容は簡単。こっから私の家まで、相手に聞かれたら駄目なことをそこそこな声量で言い合います。聞こえてたらデコピン一発!」


 わざわざ遺恨が残りそうなゲームをなぜ仕向けてくる。慧は遊びたがりの子どものようにいろいろ思いついては昭穂を巻き添えにする。そのコミュニケーションは昭穂にとって面倒ではあるものの楽しくもあった。そして慧の方も、それができる相手が昭穂と少しの友だちしかいないことから、純粋な楽しみを抱いていた。



                  でも今日は少しだけ違った。




 ゲームは始まっていた。

「慧が作詞作曲した校長へのラブソング『ウマヅラハギの煮付けの作り方』の音声データ持ってる」

 ほんとである。どうしてか彼女のクラスで回されていたのを昭穂が回収した逸品。確かにギターを持っているのだろうけど流れてくる音は琵琶のようであり、そのビブラートとも珍妙な生物の断末魔とも呼べそうなふざけた歌声で、校長の悪態をつきながら味噌漬けの作り方を教えている。きっと家庭科の3分クッキングの課題で提出したのだろう。


「・・・・・!」


 本当になにも聞こえない。彼女の口ははっきりと動いているが、そこから音は聞こえない。いや微かに聞こえるのだけど、それを言葉と認識できない。


 これはいい。思う存分悪口を言える…と思ったが、慧に対して吐ける悪態などなかった。強いて言えばうるさいぐらいで、それもこの雨音じゃ特段言うべきではない。

 ふっと息を吐くとどこか淋しい気持ちになって、無性に先ほどまで感じていた心の汚れを洗い流したいと思った。


「お前は、いつも優しいよな」


 言葉になって初めて分かった。汚れだと思っていたそれは、根腐れした心の一部だ。


「うらやましい。俺にはできない」


 ずっと憧れたその強かさ。笑顔でいること、バカでいること、そのすべてが生まれながらのものだとは思わなかった。ずっとあのテンションの人間がいる訳がないことを、人付き合いの少ない昭穂でも知っている。


「遠いままだ。お前も、黛さんも」


 ずっと言いたかったその言葉

 紡いでいく

 2人を

 ずっと…



「…あ♧ほ、す○×よ、だか*…」


 思考の間隙を縫って電撃のような衝撃を伴ったその言葉は確かなものだっただろうか。昭穂はすぐに振り向きそうになった。ただ、それは、なんというのだろう、慧の言葉で言うとレギュレーション違反な気がした。笑ってデコピンをしてくれるのならそれもよかったのだろうがそれを笑顔で受けられるか自信がなかった。聞き間違いの可能性、断片的な音は雨音と重なり、頭の中で再生不能になってしまっていた。焼き切れたフィルムを何度もまき直しても、先がないのと同じで、その言葉があったであろう根拠はこの跳ね回る心臓以外何一つとしてなかった。


 少し、身体を寄せてみた。そこから何か答えが返ってくると思ったからだ。


 でも違った。車通りの少なくなった住宅街で、慧の声はしっかりと聞こえた。


「やっぱり、変わらないの」

 …


「うん」


「そっか」

 パチン!眉間に走る衝撃と水玉。はっとしてそこで正面に回り込んでいた慧の顔をやっと見る。

 いつもと同じ。ただ前髪が雨で張り付いて、どこか無防備な感じがして、脆さと、あどけなさが顕在していた。かわいかった。


「はい!昭穂くんの負けです。そしてもう私の家です!勝ち逃げさせていただきます」


 ドアが閉まり慧の姿が見えなくなるまで、昭穂は固まっていた。

 傘を借りたままだというのに気がついたのは、家について、叔母に言われてからだった。


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