昭穂と先輩2
数学の授業は滞りなく進む。
教師の中にも思想むき出しのアホもいれば、そうでないものもいるので当たり外れが大きい。それもこれも教師に卒業生が多いからだ。自分の青春が展開されたその場所に対して愛着を抱いているに過ぎず、思い出のよすがとして相乗りしているに過ぎない。2度目の青春とでも言うべきだろうか気色悪い。似たようにOBOGが学校のあれこれによく口を挟む。特に明澄の名誉に関することには。
明澄は思い出の地であり、強固なバックグラウンドにもなる。世の中のお偉いさんには明澄出身者が多くいるからだ。いろんな思惑があって、みんな明澄に縋る。
あれとにている。来場者数が減ったために閉館を余儀なくされた地域文化を扱う博物館などに対して、「日本文化の喪失」だとか「もったいない」だとか言うだけの奴らと似ている。そこにいる人たちはどうでもいいのだ。アイデンティティとして、大枠で見たときの自分の利益として、声を上げる人と同じだ。
チャイムが鳴った。結局、この授業で出会ったのは卑屈な自分だけであった。いい加減、勝手に敵を見つけては文句をつけるこの性格をどうにかしたと昭穂は切に思った。
4限終わりの教室はとても騒がしかった。
「あきほくん」
クラスメイトが机の前にいる。
「なに」
いつもの調子で応えると少しだけ相手が身構えるのが分かった。その瞬間先ほどまでなかった壁が瞬時に生まれる。いつもそいつに拒まれて、まともに会話ができない。
「あ、あの、有坂さんが呼んでるよ」
「慧が?わかった、ありがとう」
席を立つ。出入り口に慧がいる。まん丸な目を遠慮なくこちらに向けて、その瞳の真ん中に昭穂を受け入れる。
「あのさ」
先ほどのクラスメイトがもの言いたげに引き留める。
「なに」
「怒ってるの」
またそれだ。人生で何度言われればいいのだろう。
「怒ってない」
そのあとに安心させる言葉をつけるべきだっただろうか。そうすればもう少し見られ方は変わるだろうか。いや無駄であろう。もう諦めがついている。
「お疲れ~。部室いこ」
「それはいいが、呼びに来たのは何か用があってじゃないか」
「用事って程でもないよ。クラスメイトと上手くやれているのか見に来ただけ。名前は覚えられているみたいで安心したよ」
「呆れた」
「あとくせ毛の観察」
「もっと呆れた」
慧と廊下を歩くとあまりいいことはない。周りからじろじろ見られるからだ。彼女ばかり顔が売れ、放送部としてのアイコンとして人気が出てしまった。その横にいる昭穂はどちらかと言えば用心棒的な、脇役的な目で見られている。そもそもなぜあいつが放送部にと言われる始末である。
もっともだ。そして昭穂はそのポジションに満足いっている。
むかしから、主役よりも脇役が好きだった。死ぬかどうか分からない。未来不確定のポジションは作者の都合で生きながらえている主人公よりも魅力的に映った。トリックスター、スーパーサブ、ジョーカー。ゲームチェンジャーはいつも物語を面白くする。活躍の場は主人公よりも少ない。でも確かな輝きを残すことができる。そしていつだって死ぬことができる。だから脇役が好きだった。
問題は自分という人間の受け取られ方である。それで慧の印象が悪くなるのだけは勘弁だ。
「昭穂くんは相変わらずみんなから距離を取られているね」
放送部に着くなり、慧はセンシティブな話題を口にする。
「そうだよ」
組み立て式の机に弁当を置き、椅子を放送ブースから拝借する。どうせ慧は立ったまま放送するのだから問題ないだろう。程なくして、涙と姿見も合流する。
「面白い話でもしているんですか」
涙のセンサーは今日も研ぎ澄まされている。
「そう、昭穂くんのコンプレックス雑談」
「聞かせていただけます」
「どうぞー」
昭穂の了承もなく、オーディエンスが増える。
「その女の子が後ずさりしたのがどうしてか、ってものはまあ、考えなくても分かるね」
お弁当をかき込みながら慧は話を続ける。
「どうせ声と目つきだろ。生まれながらのものにどうしろって言うんだ」
昭穂は声の低さ、そして目つきの悪さがコンプレックスであった。
それは遡ること小学生時代。忘れ物をしたクラスの女子に声をかけられたときのことだ。
『ごめん、教科書一緒に見せてくれない?』
授業中ということもあって先生にばれないようにしなくてはいけない。だから小声で返事をした。
『うん、どうぞ』
その返事に彼女は固まってしまった。訳が分からなかった。こちらは善意で見せてあげるというのにお礼の1つもないのだ。なんなら教科書を見てもいない。
『おい、どうした』
その声に彼女は苦笑いを浮かべた。大丈夫といって、そしてくっつけようとしていた机を元の位置に戻した。先生にバレたら怒られるだろうに変だなと思いつつ、昭穂の意識は授業に戻った。
案の定、先生に見つかりその子は立たされた。なんで忘れたことを言わなかったのか、授業を受ける気があるのかと詰問された。とたん、彼女は泣き出した。何をしてんのやらと、昭穂はただそれを眺めていた。そしたらその子は口を開いてこういった。
『あきほくんが、見せてっていっても嫌がって、だから、どうしようもなくて』
それは紛うことなき責任転嫁であった。そもそも忘れものを咎められているのに、見せてもらえなかったはなかなかに酷い。会話が成立していない。きっと教科書があっても授業を真面目に受けていなかっただろうと昭穂は思っていた。
そしたら彼女の思惑通り、先生の矛先は昭穂に向かった。
『あきほくん。忘れ物は誰しもがします。それを助け合うのが友だちでしょ』
おーまいがー。コミカルなツッコミが口先に出かかっていた。
そんなバカな話があるだろうか、そもそも忘れたやつが悪いんだから、見せようが拒否しようがそれは相手の勝手だろう。それに自分は見せる意思を示したではないか。なのに彼女がそれを断った。
昭穂は動揺してなにも言葉にできなかった。先ほどのツッコミだけがそこにいて、口を開けばそれが出そうでもあった。
『じゃあ、わかりました。今後あきほくんが忘れ物をしてもみなさん助けないように。人の痛みを分からないとあなたは成長できません』
勝手に悪者にされて、勝手に曝し上げられて、勝手に教室の難易度をハードにまであげられた。これは気まぐれなお戯れではすまされない。
それで、授業後に抗議しに行った。
そしたらその担任はこういった。
『あきほくん、君の声は怒っているように聞こえるの、あと目つきも。相手を不快にさせたんだから謝るのが先。悪気があってやったわけでなくても』
「おかげでその日から2週間ぐらいははぐれものにされるし、担任からはいちいち声のこと言われるしで最悪だった」
「それが今の昭穂くんのコンプレックスに繋がった訳ね」
話し終えると涙はハンカチを差し出してきた。
「泣いていいよ」
「10年前のことで今更泣けるか」
「ぼくは昭穂くんの声好きだけどね。男は結構憧れると思うよ。落ち着いているって言うか、叫んでも耳がキーンとならないし」
おいなんだこの天使は。昭穂は姿見をいれて大正解だったと今確信した。
「でも聞き取りづらいのは治らないんだよな。特に鼻炎が合わさると」
「まあ、一長一短ではあるよね」
慧は笑いながら放送ブースには入り、放送をつける。
「6月15日、お昼の放送をはじめます」
やっぱり慧の声は聞き心地がいい。昭穂が彼女を羨む理由の1つだ。声だけで安心できる。
実際問題、この事件以降昭穂は自分の声と目つきを気にするようになっていた。そこから派生した自己嫌悪や劣等感m卑屈さは、99%は自分のせいであろうが、始まりの1%は間違いなく蓄積された経験であった。
「でもさ、ならどうして放送部に入ったの」
先ほどまでの話を聞いたあとだと、気になるところであろう。まさか自分の声を好きになろうと前向きに入ったわけではない。しかし、その経緯を話すにはいろいろと前置きがあり、それの説明をしたら面倒なので適当な理由を答える。
「ヘッドハンティングされたから」
「有坂さんに?」
「まあ、そんなところ」
無事に放送を終え、慧が戻ってくる。
「私も昭穂くんの声、好きだよ」
「ありがとう」
「お世辞じゃないよ。好きだよ」
面と向かってそう言われると照れくさい。
「伝えたいことが伝わる声だって、確信してるもん」
慧に言われると、そう思えた。
その嬉しさもこれまでが消し去って、ただ残ったのはたため息1つだけだった。




