第99話 記憶喪失の女
前回のあらすじ)リズは遂にゼノスと対面し、お互いを認識した
貧民街の孤児院には子供のため、という言葉は存在しない。
無骨な石が剥き出した狭い小部屋に何人もの子供達が詰め込まれ、手足すら自由に伸ばせずに丸くなって眠っている。
辺りは暗く、冷たい床が横たわった身体を芯まで凍えさせた。
「ううぅ」
背中のほうで誰かが泣いている。
「……」
ゼノスは紙のような薄い毛布にくるまったまま身体の向きを変えた。
泣いていたのはジーナ、というまだ幼い少女だ。
小さな子供には、ここの環境はあまりにも過酷だった。
「誰か、泣いてる?」
「ジーナだ」
ゼノスは壁際にいる別の子供の声に答えた。
その子供は続けて言った。
「声を立てると怒られるよ」
「わかってるよ、ヴェリトラ。ジーナ大丈夫か?」
小声で尋ねるが、ジーナはしくしくと泣いているだけだ。
「寒いのかも。ボクの毛布を使いなよ」
「そうだな。俺のも渡そう」
奥の子供から毛布を受け取り、ゼノスは自分のと合わせてジーナにかける。
ようやく落ち着いたのか、ジーナはそのまま寝息を立て始めた。
だが――
「こらぁっ、今声出したのは誰だっ!」
監視の大人が大声をあげてやってきた。
荒々しく鉄格子を引き開けると、手にしたこん棒を壁に叩きつける。
「ダリッツ孤児院規則その十五。私語は禁ず。違反者は処罰の対象だ」
怒気をはらませる大人の勢いに、部屋の中は沈黙に包まれる。
「誰が話したっ、名乗りでろっ」
「あの、違うんです。教官」
恐る恐る少女の声が上がった。
ここでは大人達のことは教官、と呼ばなければならない。
身体を起こしたのは紫色の髪の少女だ。
「貴様は班長のリズか。何が違うんだ、あぁ?」
「今のは寝言なんです」
「寝言だとぉ?」
「はい、疲れているとうちの子達寝言が増えるんです。その分、お昼に頑張ってますから」
「……」
教官は手元の紙をぺらりとめくると、苦々しく鼻を鳴らした。
「……ふん、確かにこの班は、仕事の出来は悪くない」
「はい、明日も頑張ります」
「今後は寝言にも気を付けろ」
無茶苦茶な注文をして、教官は部屋を出て行った。
教官の気配が消えると、ゼノスは少女に囁き声をかけた。
「ありがとう、リズ姉」
リズという班長には、いつも助けてもらっている。
「ううん、ジーナのことは姉の私が面倒みないといけないのに、みんなの迷惑になっちゃいけないと思って声がかけられなかった。ゼノスちゃん、ヴェリトラちゃん、ありがとうね」
優しげな声が鼓膜をくすぐった。
――……
「ゼノス……ちゃん」
そして、今、治療院のベッドにはあの時の少女がいる。
いや、少女というよりは、大人の女性といった出で立ちにはなっているが。
彼女は驚いた様子で、両目を見開いていた。
「本当に……ゼノスちゃんなの?」
「ああ。雰囲気が変わってるから人違いかとも思ったけどやっぱりリズ姉か」
ゼノスは嬉しそうに言った。
清楚で優しげな雰囲気だったが、今はどことなく妖艶さが漂っている。
身を硬くしたままリズは口を開く。
「あのゼノスちゃんが、支配者……?」
「……支配者? 何の話だ?」
「あ、いや、なんでもないわ」
リズは若干の困惑を浮かべて、首を横に振った。
「影で動いている以上、そう簡単に白状する気はないってことか……でも、まさか……あのゼノスちゃんが支配者で、女好きで、人体実験にふける変態だったなんて……」
そして、なにかをよくわからないことをぶつぶつと呟いている。
どうやら混乱しているようだ。
気絶するほどショックなことがあったようだから仕方ないかもしれない。
ゼノスは懐かしい面影を眺めて言った。
「それにしても廃墟街の道端で倒れるなんて、何があったんだ、リズ姉」
「それは、ええと……」
言い淀むリズに、ゼノスは穏やかに笑いかける。
「まあ、言いたくないなら聞かないが。とりあえず身体は大丈夫だから、もう帰っても問題ないと思うぞ」
するとリズは更に驚いた顔をした。
「え? せっかく捕えた女を帰すの?」
「……は?」
「まさか、この私が不合格ってこと?」
「不合格……って、何?」
リズはさっきからよくわからないことを口にしている。
目覚めたばかりで意識が曖昧なのだろうか。
「うーん……一人で帰すのはちょっと心配だな。念のため家まで送ろうか。今どこに住んでるんだ?」
「……」
リズはしばらく黙った後、何かを考えるように顎に手を当てた。
やがて、うつむき気味に頭を押さえて言った。
「ごめんなさい……それが、思い出せないの」
「思い出せない?」
「ええ、記憶がぽっかり抜けているみたいで」
「でも、俺のことは覚えてるんだよな」
「その……昔のことは、断片的に覚えてるんだけど……」
「一時的な記憶障害、か?」
<診断>では脳へのダメージはなさそうだった。
ただ、精神的なショックからそういう症状が出る例は聞いたことがある。
リズは目を潤ませて手を合わせた。
「だから、その不安で……。ゼノスちゃんが良かったら、記憶が戻るまでここに置いてくれないかしら」
「え……?」
紅茶を盆に乗せたリリが、驚いたような声を上げる。
ゼノスは腕を組んで、困ったように呟いた。
「まあ……家の場所もわからないってんなら、帰るに帰れないよな……」
「お願い、ゼノスちゃん。落ち着くまででいいから」
リズは上目遣いで懇願してくる。
ちらりとリリを見ると、泣きそうな顔をしながらも自身に言い聞かせるように言った。
「リリはい、い、いいと思うっ。困ってるんだから、助けないとっ」
くくく、女の鑑……という忍び笑いが二階から聞こえた。




