第97話 この館はなにかがおかしい【後】
前回のあらすじ)一人残されたリズは、秘密の入り口を見つけ出すため治療院の二階へと家探しに向かうのだった
「さあ、急いで二階を調べなきゃ」
支配者の館に一人残されたリズは、階段に足をかけたまま視線を上に向けた。
一階には地下への入り口は見当たらなかった。
ということは、何かあるとすれば二階だろう。
足を一歩乗せるたびに、きぃぃと階段が軋む。
まるで何年もの間、誰もここに足を乗せていないかのようだ。
「そんなはずはないと思うけど……」
だとしたら、ガイオンが見たという二階の女は一体何だということになる。
一段。一段。
なぜか上がるたびに、どんどん寒気が強くなる。
凍えるような冷たい圧に、押し返されそうになる。
「私を、甘く見るなって、言うの」
リズは重たい冷気に抗うように、足を上げ続けた。
そして、遂に二階へと辿り着く。
「なんなのよ、これ」
リズは辺りを見渡して、絶句した。
漆黒。
二階の空間は墨を煮詰めたように真っ暗で、何も見えない。
寒気が強く、奥歯がかちかちと打ち鳴らされる。
人、どころか生けるものの気配をまるで感じない。
ただ、凍えるような冷たい闇と、無にすら近い静寂に支配された空間。
「う、ぐ……」
呼吸が早くなっているのを感じる。
根源的な忌避感。
圧倒的な恐怖感。
体にねっとりとへばりつく死の香り。
ここには地下の深淵にも勝る黒い瘴気が渦を巻いている。
「一体、ここで、何があったのよ……」
呻くようにリズは言った。
怖い。
今すぐ引き返せ、と本能が告げている。
それでも、リズは折れそうな膝を必死に伸ばした。
地下の世界は面子が全て。
怯えてのこのこと引き返せば、あらゆるものを失う。
視界はいまだ闇に閉ざされているが、どうやら廊下のような場所にいるらしい。
手を冷たい壁にそわせながら、ゆっくりと進んだ。
どうやら廊下に沿って部屋が幾つかあるようだ。
「誰か、いる?」
当然、返事はない。
リズは手前の部屋のドアを押し開けた。
中は更に暗かった。
どこかすえた香の匂いが立ち昇っている。
壁に手を当てながら進んだが、何かに引っかかって転びそうになった。
触ってみるとざらついた杖のような形をしている。
他にも色々な物が雑然と置いてあるようだ。
物置き、だろうか。
慎重に進むと、奥の壁には額縁のような手触りのものがあった。
触れた感じからすると、どうやら絵のようだ。
ただ、辺りが暗いため、何が描かれているのかはわからない。
「……」
リズは少し迷って、絵を外してみることにした。
もしかしたら支配者の肖像画かもしれない。
事前に相手の顔を知っておけば多少有利に事が運べる。
暗くて何も見えないので、一度部屋を出て階段に向かうことにする。
そこなら多少の光があるはずだ。
「これは……」
急に光を浴びたので、まだ目がぼんやりしている。
ただ、絵は肖像画という感じではなく、複数の人物が描かれていた。
それに随分と古い。
目を細めて眺めるが、どれが支配者なのかわからない。
右端には黒装束の気だるげな美しい女の姿が――
「あまりそれに触れるな」
「え?」
ぞっとするような冷たい声が背後で響いた。
振り返ると、白い人影のようなものが視界の端をかすめる。
「誰っ!」
ガイオンが二階で見かけた女だろうか。
リズは絵を床に置いて影を追った。
影は廊下の奥の部屋へと消えていく。
すぐに後を追って飛び込むが、ここも真っ暗だ。
そして、なぜか人の気配はない。
「な、なんなのよ、もうっ……!」
冷え冷えとした闇に向け、リズは威勢を張るように声を荒げる。
だが――
ぴちょん。
「……え?」
音がした。
ぴちょん。
ぴちょん。
それは、まるで何かがしたたるような――
「ちょ、ちょっと……」
恐る恐る、リズは視線を持ち上げる。
ゆっくりと、見上げた先に、それはいた。
常闇の中で、天井から真っ白な顔がにゅうと逆さに覗いている。
口の端からつぅと垂れた赤い液体が、床にぽたりとしたたり落ちていた。
その瞳が突然くわっと開く。
「こーのーうーらーみー、はーらーさーでーおーくーべーきーかぁぁぁ」
「ぎゃあああああああああっ――!」
+++
その頃、合流したリリとゼノスは、治療院に急ぎ足で向かっていた。
「それで、リンガが連れてきた行き倒れっていうのはどんな状態なんだ?」
「若い女の人で、ゼノスを真似て簡単な診察はしたけど、呼吸とか脈は大丈夫そうなの。瞳孔の反射も問題なさそうだったし」
「それなのに意識が戻らないのか」
「うん……」
不安げに頷くリリの肩をゼノスは優しく叩いた。
「とりあえず診てみるか。治療院はすぐそこだ」
我が家に辿り着いた二人は、ドアを押し開く。
「この人なんだけど……」
リリの後についていくと、診察室のベッドに紫色の髪の女が横たわっていた。
長い前髪が顔を覆い隠しているが、隙間からは白目が覗いている。
「あれ、白目なんて剥いてたっけ……?」
首をひねるリリの横で、ゼノスは軽く診察をする。
「これは……!」
「え、やっぱり重症なの?」
不安げなリリに、淡々とゼノスは言った。
「いや……ただの気絶だな」




