第95話 この館はなにかがおかしい【前】
前回のあらすじ)支配者の館に行き倒れを装って侵入したリズだったが、リリの診察の餌食になっていた
――男……男はどこ……?
相も変わらず治療院のベッドに寝かされたリズは、目を閉じたまま額に汗を滲ませる。
エルフの少女に全身を舐めるように観察され、あちこちをべたべた触られ、挙句の果てにいきなり瞼をこじ開けられて光を注がれた。
――な、なんなのよ、この館は……。
護衛の男が現れれば、サキュバスの血で手駒にする予定なのに、一向に男が姿を見せない。
「うーん、瞳孔の反射は問題なさそう……後は、えっと何をすればいいんだっけ……」
エルフの娘はリズを見下ろしながら、ぶつぶつと呟いていた。
「あ、そうだ! 意識不明の時は、どの程度の意識レベルかを調べるようにゼノス言ってた……!」
ごそごそと何かを準備している音が聞こえる。
「昏睡の程度を把握するために、痛みを与えてみるんだったっけ……よ、よし……じゃあ、まずは爪を圧し潰して」
「ちょ、ちょちょちょちょぉぉっ!」
「え、起きた?」
「す、すぴー……」
「あれ、寝てる? リリの勘違い……?」
――や、やばい……やばい場所だわ、ここ。
リズのこめかみを汗がつぅと流れる。
支配者の館は思っていたより数倍やばかった。
単身で乗り込んだのは、少し早まったかもしれない。なんせ単なる世話係に見えたエルフの幼女が、いきなり拷問官のような真似を平然とやってくるのだ。
ここは地下ギルドの深部にも勝るとも劣らない無法地帯。
異常者の楽園。
さすが混沌とした貧民街を統一しただけのことはある。
――い、いい加減、目覚めないとまずいかもしれない……。
このままでは何をされるかわからない。
正直、命の危険を感じている。
目を覚まして暴れれば、さすがに男の警備兵の一人や二人やってくるはず。
その瞬間が狙い目だ。
おもむろに目を開けようとしたところ――
「先生、いるかいっ」
何者かが建物に入ってきて、リズは慌てて目を閉じる。
――男、来た?
薄目を開いて、来訪者を眺めるが――
「あ、ゾフィアさん。ゼノスは今日往診の日だよ」
「あぁ、そうか。そういえばそうだったね」
エルフの娘の言葉に、黒髪を後ろで束ねた来訪者は残念そうに答える。
――ちっ、また女か。
ゾフィア、という名前には聞き覚えがある。
確か貧民街のリザードマンを束ねている人物だ。
ゾフィアはベッド上のリズに気づいて言った。
「ん、病人かい?」
「うん、リンガさんが連れてきたの。なかなか意識が戻らなくて……」
「ふぅん、顔色は良さそうだけど、本当に病気なのかねぇ」
ぎく、とリズの内心で音が鳴る。
「まあ、いいさ。ちょっといい肉が手に入ったんで差し入れを持ってきたんだ」
「えー、いつも悪いよ」
「世話になってるんだから当然さ。じゃあ、ここに置いとくよ」
「う、うんっ、ありがとう」
ゾフィアは荷物を机に置いて去っていった。
どうやら上納品を持ってきたようだ。
しかし、仮病を見破られそうになって一瞬焦った。
貧民街の三大勢力の一角というのは伊達ではないようだ。
「ゼノス、いるか」
再びの来客。
今度こそ男かと薄目を開けるが、立っていたのは上背のある褐色肌の女だった。
――また、またっ……また女っ……!
「あ、レーヴェさん、今日ゼノスは往診だよ」
「おお、そうだったな。無念だ」
レーヴェというのはおそらくオーク族の首領だろう。
ベッド上のリズに目を向けて一言。
「ん、侵入者か?」
ぎくぅ。
ぴくぴくと眉の端が痙攣してしまう。
エルフの少女が首を振って言った。
「ううん、行き倒れの人だって。リンガさんが連れてきたんだけど、目が覚めなくて……」
「ほう、目覚めないか……どれ、我が思い切り腹パンしてみるか」
――ちょ、ちょちょちょちょぉぉっ!
無茶苦茶なことをさらりと口にする。
どうやらここには本当に異常者しか現れないようだ。
「駄目だよ、レーヴェさん。病人なんだから」
「む、そうか。部下が気絶した時は大体我の腹パンで目が覚めるのだが、まあいい。それじゃあまた」
「うん、ばいばい」
レーヴェが出て行くと、再び室内に静寂が訪れた。
しかし……と、リズは思う。
――男が、いない……。
来ないのだ。
男が。
本当に。まじで、男が現れない。
この館には支配者以外に男がいないのではないかと訝しんでしまうほどだ。
護衛や力仕事も必要だろうし、さすがにそんなはずはないと思うが……。
出方を思案していると、エルフの少女が困ったように言った。
「うーん、どうしよう。全然目が覚めない……」
そして、ふと思いついたようにリズの肩を叩く。
「あ、そうだ! ちょっと待っててね。そろそろゼノスが帰ってくるからリリ迎えに行ってくる」
そう言って、ぱたぱたとドアから駆け出して行った。
――え、外に行った……?
何かの用事だろうか。迎えがどうのこうの呟いていたが。
「でも、これはチャンスだわ」
目を開けたリズは、ベッドの上でゆっくり身を起こす。
世話係と審査官と拷問官を兼ねている少女が姿を消した。
人の気配も今は感じない。
この機会に家探しをして、支配者の居室がある地下空間への入り口を見つけておくべきだ。
「……ふん。少し手間取ったけど、我慢した甲斐があったわ。最後に勝つのは私よ」
言いながらリズは反射的に首筋に手を当てる。
なんだか、ふいに悪寒が走った気がしたのだ。
「誰もいない……はずよね?」
異常者が集う館で、今、最大非常識的存在が降臨する――




