第74話 命の選択【中】
前回のあらすじ)ゴルドランの院長就任前祝いで、参加者が毒を盛られて倒れた。十五年前の被害者に婚約者がいたとベッカーは言う。
*後書きに書籍情報あります
「命の選択、だと……」
ゴルドランは自分を見下ろすベッカーに、かすれた声で言った。
院長選挙に向けた派閥の決起集会。
その実は就任前祝い会。
栄光の頂点で、予想もしない悪夢にみまわれた。
「毒を盛るなど……貴様、何を考え――」
そこでゴルドランは、はっと顔を上げる。
「そうだ。どうせ、解毒剤があるのだろう。さっさと出せ。そうすれば罪は軽くしてやる。ふざけた真似はやめて――」
「私は大真面目ですよ、ゴルドラン教授」
ベッカーは冷たい声で言って、テーブルの上のワインを口に含んだ。
ごほごほと何度かむせる。
「なにを……」
「意識を保てる程度の量を飲みましたが、思ったより効きますね。これで私の命もいずれ毒に侵されるでしょう」
「どういう、ことだ」
「さあ、選択肢が増えました。解毒剤を持っていると信じて、私を助けてもいいですよ」
ゴルドランは拳を、床に打ち付ける。
「こんな真似をして、ただですむと……」
「あまり無駄話をしている時間はありませんよ」
「なん、だと」
「迷えば迷うほど毒の浸食が進み、あなたが搾取したい生命力は少なくなります」
ベッカーの声はどこまでも平坦だ。冗談でないことは確かだろう。
十五年前の事件の亡霊が、まさか今になって足を掴んでこようとは。
「おの、れ……」
ゴルドランは手を床について、よろよろと立ち上がる。
体の麻痺が強い。外に助けを求めにいくのは難しいだろう。
――だが、落ち着け。
まだ時間はあるのだ。
優先順位を考えろ。
誰を助ける?
ゴルドランは自身を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
まずは自分だ。自分が死ねば全ての意味がなくなる。
あと少しで栄光に手が届くというのに、こんなところで命を落とす訳にはいかない。
そして、次はフェンネル卿。
院長になれば貴族入りの資格は得られるが、最終的な貴族入りには推薦者が必要だ。
フェンネル卿の後押しは必須である。
後は解毒剤を持っていると信じてベッカーを助けるか。
いや、確証はないし、持っていたところで提供するとも限らない。
この男は放っておくしかない。
その上で、やはり犠牲にすべきは派閥員ということになる。
ゴルドランはステージ上から、昏倒している派閥員達を見下ろし、震える手で魔法陣を描く。
「なるほど、それがあなたの選択ですか」
「派閥員の義務は、ワシのために尽くす、ことだ」
だが……、と手が止まる。
毒の侵攻に打ち勝つには、どれくらいの生命力が必要になるのだろう。
派閥員の数を減らしすぎると、選挙の得票数で他の派閥に負けてしまうかもしれない。
しかし、背に腹は代えられない。
ここで死ねば全てが終わりなのだ。
ゴルドランは転移治癒魔法を発動させるべく、詠唱を開始した。
幾重もの光の糸が、倒れた派閥員達の背中へと伸びていく。
「残念です。ゴルドラン教授」
ベッカーの声が耳に入る。
「私は言いましたよ。あなたの毒だけ効果を薄めてある、と」
「それが、どうした」
「つまり、毒を飲んだ中で、最も生命力が残っているのはあなたなのです。あなたの命を使えば、一番多くの人間を助けられるはずなのに」
「価値が、違うのだ。わしと、一介の治癒師どもとはなっ」
ゴルドランは吐き捨てるように言った。
「命の価値は平等ではない、と?」
「同じ硬貨でも、金貨もあれば、銅貨もあるっ……命も、同じだっ」
「……十五年前と、同じ選択をする訳ですね。派閥員が今の言葉を聞いたら、さぞや悲しむでしょうね」
「はっ……価値ある者を生かすのが、当然だっ」
「……」
ベッカーは憐むような視線をゴルドランに向け、ごほっとむせ、手を口にやった。
吐き出した一部のワインが手の平にはりつき、まるで血糊のように見える。
「毒……」
何かを言いかけた時、ホールの入り口のドアが勢いよく開いた。
「ベッカー先生っ!」
見ると、眼鏡をかけた少女が、肩で息をしながら立っている。
「ウミン、どうしてここに……?」
「せ、先生の部屋で写真を見つけたんです。そこに昔の婚約者の人が写ってて。だから、嫌な予感がしてっ……」
「……この状況。毒を盛ったのか」
逆光の中、ウミンの後ろから黒い外套を羽織った男が姿を現す。
「……ゼノス君。君も来たんですか」
「ベッカー先生、どうしてこんなことをっ……」
ウミンが悲壮な声で叫ぶと、ベッカーはステージで膝をついたままのゴルドランに視線を移した。
そして、静かに語り出す。
「命の価値は平等なのか。私はずっとそれを考えていました」
「……」
「十五年前、私と婚約者は駆け出しの治癒師でした。彼女は多くの人間を救うために治癒師になったと目を輝かせて言っていました。そんな彼女がとてもまぶしく見えた」
ゆっくりと、足を引きずるようにベッカーはステージの上を歩く。
「そんな彼女が爆発事故に巻き込まれて命を落としたと聞いた時には、私は大いに嘆き悲しみました。彼女のような立派な人間にも、死は容赦なく訪れるのだと。なんと神は無慈悲なのだと」
天窓から差し込む陽射しを、ベッカーはどこか冷めた目で眺めた。
「その時は不慮の事故だと思っていたので、私は彼女の遺志をついで多くの人間を助けようと思いました。神が平等に死を与えるならば、私は平等に生を与えようと」
そして、実際に多くの薬を作った。
無理を言って貧民街にも流通させ、数多の命を救った。
「そうです。ベッカー先生はたくさんの命を救ってきたじゃないですか。それなのに――」
ウミンの叫びを遮るように、ベッカーは口を開いた。
「しかし、前回のゴルドラン教授の食事会の後、アフレッド君が私を訪ねて言ったのです。十五年前の爆発事件にゴルドランが関わっている。あれはただの事故ではない、と」
「え、そんなことがっ?」
「今思えばおそらく酔ったボンズ氏から聞いたのでしょうが、彼は詳しいことは話さず、その言葉を最後に姿を消しました。私は平静ではいられなくなりました。なぜなら、私の婚約者もその事故で命を落としたからです」
そして、こう思った。
「もしかして私の婚約者は、ただの事故ではなく、人為的に死んだのでは、と」
凍り付くような静寂がホールを包んだ。
「しかし、確証はなかった。アフレッド君の行方も掴めず詳しいことを聞き出すこともできない」
「それで、俺を雇ったのか」
「ええ、すいません。アフレッド君が見つかればよし、無理でも食事会に潜入して何か情報を得られればと思っていました。あなたは期待以上の働きをしてくれた」
ゼノスの言葉に、ベッカーは首を縦に振って答える。
ウミンが足を踏み出して声を上げた。
「でも、だからって――」
「迷惑をかけることになってすいません、ウミン。しかし、私は――」
「うるせえぇぇぇぇぇぇっ!」
空間に響き渡るような大声を出したのは、ゼノスの横に立っていた男だ。
「君は……確かクレソン君か」
ひととおりの事情は理解したようで、クレソンは拳を握りしめて言った。
「ああ、わかるよ。俺だって、もし恋人がそんな理不尽な目にあったら許しちゃおけねえ。って、恋人はいねえけどよ。確かに言えるのは、そこのゴルドランは間違いなく糞野郎だってことだ」
「き、貴様っ」
ゴルドランの額に青筋が浮かぶ。
だが、毒の浸食が徐々に進んでいるのか、覇気はほとんど感じられない。
「だけどよっ……」
クレソンはあえぐように言った。
「違うだろっ、そうじゃねえだろっ、無関係の奴らにまで毒を盛って復讐って、そうじゃねえだろっ」
だって――、とクレソンは涙混じりに声を荒げる。
「あんたは治癒師だろっ。俺達の仕事は人を救うことじゃねえのかよっ!」
「……」
悲痛なまでの叫びが、大気を揺らした。
ベッカーは無言のまま、眉を持ち上げる。
「よく言ったな、クレソン」
クレソンの肩に手を当てたゼノスは、一歩前に歩み出た。
「なあ、ベッカー。あんた前に俺に言ったよな。床に色んな硬貨が散らばった時、君ならどれを拾うかってな。あれは愚問だぞ、なんせこちとら貧民育ちなんだ」
特級治癒師の顔をひたと見据え、ゼノスはにやりと笑ってこう続けた。
「――当然、俺なら全部拾う」




