第61話 お犬様のお世話係
前回のあらすじ)ゴルドラン教授の食事会に呼ばれるのが次の目標になった
「遅えぞ。どこで油を売ってやがった」
ベッカーとの話を終えたゼノスが研究棟に向かうと、クレソンが腕組みをして待ち構えていた。
「まだ時間になってないと思うが」
「お前は一番下っ端なんだから、俺より早く来なきゃならねえんだよ」
「そうか……それで俺は何をすればいいんだ?」
ゼノスは頭をかいて言った。
午後からはゴルドラン研究室の所属員としての業務が始まるらしい。
「くくく、お前には栄誉ある俺様の仕事を少しだけ手伝わせてやるよ」
クレソンは勝ち誇ったように含み笑いをする。
一体、どんな仕事だろうか。
ここが王立治療院であることを考えると、何らかの研究の手伝い、もしくは治療業務だろうか。
さすがに教育側にまわることはないだろうが。
そんなことを考えていると、クレソンは自信満々にこう続けた。
「それは、教授の愛犬の世話だ」
+++
その後――クレソンとゼノスは教授の愛犬を連れて、王立治療院の広場に向かった。
「手伝わせるとは言ったが、お前は見てるだけだ。これは俺の特権なんだからな」
「お、おう……」
ミルク、という名前の教授の犬は、長い銀色の毛並みが美しく、見るからに高貴な雰囲気を漂わせている。
リードを握ったクレソンは、得意げに胸を張り、緑豊かな広場を闊歩していた。
「なあ、研究室でのあんたの仕事って、まさかこれだけじゃないよな?」
「何言ってやがんだ。当たり前だろ」
「それならいいが……」
「勿論、散歩だけじゃねえ。ミルク様のご飯をあげたり、身体を洗ったり、毛並みを整えたりとやることはまだまだあるぜ」
「まじか! そういうことじゃなくてな」
「くくく、ひがむな、ひがむな。羨ましいのはわかるがな」
「いや、俺が言うのもなんだが、もっと他にやるべきことがあるんじゃないのか?」
「はあ、なんでだよ? 俺だからこそこんな大きな仕事を任されてるんだぞ」
なんて前向きな奴だ。
クレソンは意気揚々と話を続ける。
「いいか、教授はミルク様をそれはそれは大事にしてるんだ。世話を任されるなんて、それだけ俺が信用されてるってことだろ」
「本当にそうか……?」
「そうに決まってんだろ。教授は今日、懇意にしてる七大貴族に呼び出されているらしいぜ。大貴族と会食とかまじで憧れるよなぁ」
クレソンは青空を仰ぎ見て、羨ましそうに言った。
「ま、俺がこのまま出世街道を爆進すれば、その場に呼ばれるのもそう遠い日じゃねえけどな」
「あんたは出世がしたいのか?」
「はあ? 当たり前だろ。えらくなって、上級国民の仲間入りをして、いいもん食って、いい女を手に入れて、部下を顎で使って。そのために治癒師を頑張ってんだ」
「そうなのか? 治癒師ってのは誰かを治癒するから治癒師なんじゃないのか?」
「……」
クレソンは立ち止まった。
少し黙った後、ゼノスに向かって肩をすくめた。
「……はっ、そりゃ綺麗ごとだよ。そりゃあ昔は多くの命を救いたいとか、難病を俺が治すとか思ってた時もあったがよ。だが、治癒魔法ってのは万能じゃねえ。できることにゃあ限りがあるし、できねえものはできねえし、それよりやっぱ金と権力だよ」
「ふぅん……」
「な、なんだよ……」
クレソンが何かを続けて言おうと口を開いた時、前方から声をかけられた。
「おい、クレソン。今日もゴルドランのお犬様の世話がんばってんのかぁ」
「あ、ボンズさん。どうも、頑張ってます」
そこにいたのは、顔がうっすら赤い中年の男だった。
無精ひげを生やした粗野な雰囲気で、右手には酒瓶を持っている。
ボンズと呼ばれた男は、教授の愛犬をじろりと睨んだ。
「犬の分際で澄ました顔しやがって。気に食わねえ」
「ボンズさん。そんなこと教授に聞かれたら……」
「けっ、顔色ばっかうかがってんじゃねえよ」
男が悪態をつきながら立ち去った後、ゼノスは横のクレソンに尋ねた。
「あれは誰だ?」
「ありゃあゴルドラン教授の第一秘書だ」
「第一秘書? あれが?」
「信じられねえだろ。教授の昔の知り合いらしいけどな。ろくに働かねえし、昼間から酒ばっか飲んでるし、幾ら昔のよしみだからって、あんなのに第一秘書のポストを用意しなくていいのによぉ」
クレソンは眉間に皺を寄せて、男の悪口を言う。
すると、少し離れた場所で第一秘書が呼びかけてきた。
「おーい、クレソン」
「あ、はいっ、お呼びでしょうかっ」
クレソンは笑顔で振り返る。
この変わり身だけは尊敬に値するほどの素早さである。
「この酒、やるよ」
「え、わっ」
第一秘書は持っていた酒瓶を投げて寄越した。
放物線を描いたそれは、教授の愛犬のすぐそばに落下し、がしゃんと音を立てて割れる。
きゃうん、と犬が鳴き、驚いたクレソンはリードを手放してしまう。
「し、しまった。ミルク様がっ」
第一秘書のぎゃはははという笑い声を背に、クレソンは逃げ出した犬を追って駆け出す。
広場を通り過ぎ、王立治療院の巨大ホールを抜けていった。
そして――ぎゃんっと甲高い鳴き声が響いた。
「ミ、ミルクっ、ミルクぅぅっ!」
「どうした?」
少し遅れておいついたゼノスが見ると、玄関ホールの前でクレソンが膝をついていた。
抱き上げているのは、教授の愛犬だ。ぐったりしており、胴体が赤く染まっている。
すぐそばには馬車が停まっていた。
「まさか、馬車にひかれたのか?」
「そ、その犬が急に飛び出してくるから悪いんですっ」
馬車の御者が言い訳をするのを、クレソンは呆然と聞いていた。
ゼノスはクレソンの肩に手を置く。
「おい、まだ息がある。早く治療したほうがいい。あんたが世話係なんだろ」
「あ、ああ」
クレソンは青ざめた顔で、犬に両手をかざした。
「《高度治癒》」
淡い光が犬の胴体を包み、出血は徐々におさまっていく。
しかし、クレソンは焦った声を上げた。
「だ、駄目だっ」
「ん? 出血さえ止めれば命には問題ないと思うぞ」
「それじゃ駄目なんだよ。跡が残っちまってる……!」
皮膚はふさがったが、大きな傷だったためか、傷跡がわずかに歪な状態になっている。
長い銀色の毛もはぎとられ、肌があちこち露出していた。
「教授はミルク様の綺麗な毛並みが大のお気に入りなんだ。これじゃあ……」
クレソンは石畳にがっくりと手をついた。
「終わりだ……ははっ、ずっと下働きを頑張ってきたのに……もう俺は終わりだ……」
「……」
ゼノスは少し黙った後、犬に向かって手をかざした。
「《治癒》」
「おい、特別研修生、何やってる?」
「見ての通り、回復魔法をかけている」
「無駄だ。お前がいかにゾンビキングを倒せるくらいの魔法出力があっても、精巧な皮膚の再生まではぁぁっ?」
クレソンは絶叫して、ミルクの全身を何度も眺めた。
「な、治ってる。傷跡が、まったくわからねえ。毛並みまで……な、なんで……」
「というか、治癒ってそういう魔法じゃないのか」
「……」
「ついでに、ひびの入った骨も治しといたから散歩は続けられるが、一応今日は休ませたほうがいいかもな」
ゼノスはそう言うと、犬を抱えて玄関ホールへと戻っていく。
くぅんと鳴くミルクの甘えた声を耳にしながら、クレソンはその背中を呆然と眺めていた。
「治癒……って、そういう魔法じゃねえよ……。特級が言うような台詞吐きやがって……」
かすれた声でつぶやいた後、クレソンは立ち上がり、ゼノスを追って駆け出した。
「待てよ、特別研修生っ。ミルク様のお世話は俺の仕事だっ」
そして、この小さな出来事が、運命の歯車をまた一つ進めることになるのだった。
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