第16話 廃墟街の夜【前】
廃墟街に夜の帳が降り、周囲は静かな虫の音に包まれる。
食卓に灯したランプの明かりに、クリシュナの金髪が浮かび上がった。
「夜は一段と静かだな、ゼノス氏」
「廃墟街だからな」
「ふむ、思ったより居心地がよさそうではないか」
「任務が終わったらちゃんと帰れよ?」
と言っても、任務は"仲裁者"のゼノスを捕獲すること。
任務の終了 = 闇ヒーラー業の終了とも言えるので、なんとかしなければならない。
クリシュナは窓の外の暗闇を眺めた。
「しかし、こういう場所はアンデッドが出たりしないのか」
「出るかもなぁ。レイスが出たりするかもなぁ」
「レイスが……?」
「怖いだろ? 帰ったほうがいいんじゃないか?」
「やけに帰らせようとするな。心配せずとも、レイスはアンデッド系最上位の魔物。そうそう出会うものじゃないさ」
毎日会ってるけどな。
なんなら、今後ろの天井板から顔を出しているし。
カーミラの協力を得て、脅かして追い出す手も考えたが、後で近衛師団を引き連れて駆除に来られても厄介だ。
今のところ最も現実的な対策は、クリシュナが調査で留守の間に引っ越すことだが、この朽ちかけた建物に結構な愛着を持ってしまっているのが悩ましい点である。
「粗茶ですが」
横からリリが、どんっと紅茶カップを置いた。
なんだかむすぅとしているように見える。
「これは、すまないな」
クリシュナはカップを手に取り、おもむろに口に運んだ。
「あはふぅっ」
「え?」
「いや、失礼。実は猫舌なのが私の唯一の弱点なのだ」
「意外と弱点多いな?」
「何を言う。私の弱点は一つだけだ」
「そうか……」
その後もクリシュナは、カップにふーふーと息を吹きかけ、恐る恐る口に運んでは「あふぁぅっ」と悶えている。
「むむぅ……」
「どうしたんだ、リリ?」
「ゼノス、膝」
リリは憮然と言い放ち、ゼノスの膝の上に登ってきた。
ぺたん、とゼノスにくっついて、ちらりとクリシュナに視線を送る。
「ゼノス、いつもの」
「いつもの……?」
「い・つ・も・の」
頭を小さく振り振りするので、ブロンドの髪を撫でてやると、リリはぴくぴくと耳を動かした。
腕を組んで、得意げに顎をくいと上げる。
「ふふんっ」
……なんだろう?
リリがいつも以上に甘えたがりな気がする。
「嫉妬じゃ」
「うわ、びっくりした」
「どうした、ゼノス氏?」
「いや、なんでもない」
急に耳元で囁かれたので、思わず声が出てしまった。
今の声はカーミラか?
「くくく……その通り。姿を消して耳元で囁いておる」
普通に心臓に悪いからやめて欲しい。
この状態だと物には触れず、視界も悪いので、普段はあまりやらないのだとカーミラは言った。
ゼノスは小声で返す。
「なんで、リリが嫉妬するんだ」
「突然の押しかけ女に、マウントを取っておるのじゃ。あなたなんかより私の方がゼノスと親しいのよ、とな。亜人の女共とは仲良くしているようじゃが、魔法銃をぶっ放した上に、図々しくベッドまで借りようとする女のことなど到底認められない訳じゃ。しかも、そんな無粋な女が、実は猫舌だったというギャップ萌えで攻めてきおった。心中はさぞや穏やかではなかろうて。さあ、どうする? 自分は何ができる? 女のプライドを賭けた戦い、いざ開幕ゥゥゥ……!!!」
「うるさい」
前から思っていたが、この最上位クラスのアンデッドはなんでそんなに俗っぽいの。
ひーっひっひ……という声が、耳元で段々小さくなっていく。
しかし、確かにカーミラの言う通り、リリは今日に限ってやたらペタペタしてくる。
「ゼノス、紅茶まだ熱いから。リリがふぅふぅしてあげる」
「ゼノス、髪が跳ねてるよ。リリが直してあげる」
「ゼノス、リンゴだよ。リリが食べさせてあげる」
謎の対抗意識を燃やしているのか、やけに甲斐甲斐しい。
だが、対面のクリシュナは完全に無反応で、何か考え事をしている様子だ。
「む、むむぅ……こ、こうなったら……リリは……奥の手を、出すっ……!」
遂にしびれを切らしたのか、リリは顔面を真っ赤にして、両手でゼノスの頬をむにと押さえた。
「ぜ……ゼノス、こ、ここ、今夜は、リリが、寝かさないからっ!」
……。
……。
……。
「すぴー……」
寝た。
「エルフの子、よく寝ているな」
「ああ、そうだな……」
寝かさないと宣言した数秒後、リリはゼノスの膝の上で健やかな寝息を立てていた。
お子様だから、夜が早いのだ。
寝室に運んで、リビングに戻ると、クリシュナはまだ考え事をしているようだった。
「どうした?」
「ああ、あのエルフの子だが、奴隷商に捕まっていたと言っていたな」
「そうだ」
「奴隷商の素性はわかるか?」
「いや、わからないな」
接触したのはわずかな時間だったし、すぐにどこかに行ってしまった。
あの時は、リリの治療を優先する必要があったから、後をつけるような真似もしていない。
「そうか。どうやら取引所を通さない子供の不正売買の温床がどこかにあるようなのだ」
今回の任務の前は、その事件を調査中だったとクリシュナは言った。
「だから、いきなり俺を撃ってきたのか」
「本当にすまなかった。"仲裁者"と同じくなかなか尻尾を掴ませず、いつも惜しいところで逃げられてしまうのだ。今度こそ逃げられないようにと反射的にな」
隠れ家のような場所に、エルフの子供を連れた人間がこっそり住んでいた。確かに状況だけ見れば、相当怪しく思えるかもしれない。
「短気なのが私の唯一の弱点だからな」
「やっぱり弱点多くない?」
「何を言う。私の弱点は一つだけだ」
「まあ、いいんだけど」
「私はあらゆる事件を片付けてきた。<石の淑女>は完璧な近衛兵であり、市民にとってのヒーローでなくてはならない。弱点などあったとしても、せいぜい一つしか許されないのだ」
「……」
クリシュナの無表情の奥に、もう一つの表情が垣間見えたような気がした。
すぴー……。
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