50ページ/新たな生活
八神麗緒は目をひんむいた。
振り返るともみじの顔はすぐ横にあった。首を傾げて麗緒の返事を待っている。突然のことに動揺した麗緒は、慌てて顔を背けた。
「イヤですか?」
「あぁ、その……イヤとかじゃなくて……」
麗緒は戸惑っている。麗美がいつかまた、このマンションに襲撃してくるかもしれないからだ。考えたくはないが、そんなことがあれば今度はもみじを巻き込むかもしれない……。
申し出は嬉しい。そばにいて頼もしいもみじやかわいいにゃんこらと楽しい生活を送れる
なんて、嬉しくないわけがない。だが、どうしても迷惑だけはかけたくないのだ。
もみじの顔は視野の外にあるが、少しずつ近付いてきているのが分かる。麗緒は唸ることしかできない。濡れたままの髪がジャージの肩を濡らしていく。
「私は麗緒さんのお姉ちゃんです。お姉ちゃんと妹が一緒に住むのは自然なことでしょう?」
「あー、まぁ、それは……」
もみじの柔らかな手が、麗緒の長い髪を手櫛で鋤く。ゆっくり、ゆっくりと、麗緒の動揺を治めるかのように。
それでも言葉に詰っている麗緒を、もみじは背後からそっと抱きしめた。二つの柔らかな膨らみの感触が麗緒の鼓動を速める。
「私は麗緒さんを救えませんでした……。でも、今度は麗緒さんを守ります。お引っ越しして……そうですね、今度はお互いの職場が近いとこがいいですよね。星花の近くでにゃんこ可のマンションを探しましょ?」
最後にもみじはふふっと笑った。物件探しを想像してうきうきしてきたのだろう。そんなもみじの腕を払い、麗緒はゆっくり振り返った。
「もみじさん、何言ってんですか?」
「え……」
真剣な表情でもみじに向き合う。今度はもみじが動揺する番だった。
「お姉ちゃんはあたしだって言ってるでしょ? だからあたしがもみじさんを守ります。ストーカーからも、いかれた女からもね」
そして麗緒も、最後にふふっと笑った。もみじの硬直した顔がぱあっと花開く。
「もーっ! 真面目な顔するからびっくりしたじゃないですかぁ! よかった、フラれちゃうかと思いましたよー」
「ちょっとぉ、あたしが真面目な顔したらおかしいんですか? あたしはいつも真面目でしょーが」
「お姉ちゃんをからかわないでください! さっ、風邪ひかないうちに乾かしますよ?」
「だからあたしがおね……」
麗緒の反論はドライヤーの騒音によってかき消された。しぶしぶ背を向け、おとなしくされるがままに委ねる。お互いの表情が見えないのをいいことに、二人とも頬が緩みっぱなしだった。胸の中がくすぐったい。
「麗緒さんの退院祝いは塩レモン鍋でもいいですか?」
ドライヤーのスイッチを切り、丁寧にブラシで仕上げる。騒音に迷惑そうにしていたにゃんこらがリビングへ戻ってきた。
「もちろん。でも材料は買い直さないとね。一緒に行きますよ」
「年末の買い出しでスーパーはごった返してるでしょうけど……しょうがないから連れてってあげます。でもお菓子はダメですよ?」
「なんですかその言い方ーぁ!」
ツッコミを入れて気が付いた。麗緒は右手がハンドルを握れないので愛チャリには乗れない。買い物に行くとなると徒歩になる。もみじにサッと買ってきてもらったほうが断然早いが、一緒に行っていいと言ってくれるもみじも二人でいたいと思ってくれているのだろう。
「年末ってスーパーは混んでるけど、コンビニってスカスカなんです。だからうちは毎年、大晦日は夜九時で閉店して、年始は三日の朝七時に開店するんです。だから年越しそばもおせちも一緒に食べれますよ?」
もみじの早口からわくわくが伝わってくる。ダイアナ以外の誰かと年越しするのは何年ぶりだろう。まだ余熱の残る洗い立ての髪に触れながら、「そうなんですね」と冷静を装った。続いて自分の髪も乾かし出したもみじ。にゃんこらが再び逃げ去っていく。
麗緒のアドバイスに沿って、もみじは器用にガーゼや包帯を取り替えてくれた。いそいそと洗濯物を干す姿を目で追い、麗緒は左手で甘々ベトナムコーヒーをジョッキで飲む。
自分がしてあげられることはなんだろう、と考えながら……。
「おまたせしました。さっ、お買い物行きましょ?」
お気に入りのダウンコートを羽織り、もみじがマスクを装着した。しかしあることを思い出した麗緒は、なかなか立ち上がろうとしない。不思議に思ったもみじは「どうしました?」と見下ろす。
「あの、非常に申し訳ないんですけど……ホック、止めてもらえません……?」
おずおずとブラジャーを差し出す麗緒。厚めのジャージを着ていたので気付かなかったもみじが「あー」と口角を上げる。
「付けてあげるのは全然構わないですけど、コート着ちゃえばノーブラなんてバレませんよ!」
「えぇー! い、イヤですよノーブラでスーパー行くなんてーぇ」
「大丈夫大丈夫! あ、じゃあ私のダウン貸してあげますね? 私は麗緒さんの上着、何か借りて行きますんで」
「いやいや、厚さの問題じゃなくて……」
訴えも聞かず、もみじは麗緒にダウンを羽織らせる。自分はクローゼットを勝手にあさり、「あっ、これ素敵ぃ」とジャケットを拝借し、とっとと玄関を出て行った。
いつも身に付けているものがなくスカスカする違和感とノーブラで外出する羞恥心で、靴を履く足取りが急に重くなった麗緒。「なーん」と呼び止められて振り返ると、ダイアナがご飯の器の前で座っていた。
「あぁ、朝ご飯まだだったか……。ごめん、帰ったらあげるからね?」
一撫ですると、もう一度「なーん」と鳴いてごろごろ喉を鳴らした。にゃんこらと長く一緒に住んでいるもみじなら、この子たちのおせちも作れるだろうか。頬の傷を隠すためにマスクをし、腹をくくり玄関を出る。
エレベーターの扉を押さえ、「早く早く」と手招きするもみじ。小走りで駆け込み、一階のボタンを押した。
エントランスを抜けると、真冬の太陽がてっぺんまで昇っていた。見事な快晴が眩しい。実家へ帰省しているのかすでに家族団欒中なのか、真昼だというのに人っ子一人いない。
「麗緒さんは年越しそば、ざる派? それともきつね派ですか?」
「てんぷらそばって選択枝はありですか?」
「いいですね! じゃあエビも買って帰りましょ?」
足取り軽く半歩前を歩くもみじが不意に立ち止まった。振り返り、我がマンションを見上げ出す。
「どうしたんですか?」
もみじの視線を辿る。五階の麗緒の部屋に向いていた。
「後を付けられてる気がするって押しかけて、慰めてもらって、あれからここで色んなことがあったなーって思って……」
「……そうでしたね。もみじさんとこうして仲良くなったのは、あの日からでしたね」
二人の思い出が走馬灯のように駆け抜けていく。笑える話しもそうでない話しも、今となっては全てが二人の絆を深めたスパイスだ。
「でも、まだ思い出に浸るのは早いですよ? 引っ越し先が決まらなければ、何ヶ月もここにいることになるかもしれないんだし」
「そうですね。ネットでいくつか候補を見つけておきますから、年が明けたら一緒に内見行きましょうね! あぁ、楽しみぃ。三月には引っ越し業者も物件も押さえられないかもしれないから、できれば一月中に決めて二月には引っ越したいですね。そうそう、麗緒さんはここの解約手続きしといてくださいよ?」
「確かに。一月下旬にはギブスも取れるでしょうから、少しずつ荷造りしないとですね」
郵便配達員のバイクが通りかかった。お揃いのマスクをし道のど真ん中で立ち尽くしている二人をちらりと一瞥する。麗緒が「行きましょうか」と言うと、もみじも頷き歩き出した。
「でも星花の近くに住むとなると、うちの生徒や先生方にすぐバレちゃいそうじゃないですか?」
「いいじゃないですか、別に。私はなーんにも困ることないですもん。もしも麗緒さんが星花をクビになったらニアマートで雇ってあげますよ?」
「いやいや、そーゆー問題じゃなくてっ」
分かってますよ、というように笑うもみじ。またからかわれたのだと気付き、麗緒は「真面目に言ってんのに……」と口を尖らす。
「でも、困ることないのは本当ですよ? 『私は八神先生の世話人ですから』って胸を張って言えますもん。なーんにもやましいことなんてないから、麗緒さんがクビになることもないでしょう?」
「またそーゆー言い方するー! あたし、これでも生徒たちを世話してる立場なんですけどー? プライベートではへなちょこだとか噂が立ったらどうするんですかー」
「うふふっ、それについては否定できないから、もしも聞かれたら一応ノーコメントということにしておきますね。それより、お部屋は二つ欲しいですか? 少なくとも1LDK、できればケンカした時のために2LDKは欲しいかなぁ」
麗緒は逸らされた話にツッコミを入れたいところだったが、想像して楽しそうなもみじの横顔を見たら、まぁいいやという気持ちになった。
大通りに近付くにつれ、人も車も少しずつ増えてきた。晦日の街を、みな急ぎ足で通り過ぎていく。
麗緒ともみじ。血の繋がりは一ミリリットルもない。だが、それ以上に強く二人を繋ぐ、真っ直ぐで歪みのない糸がある。
二十八年間鎧のように自分を覆っていたコンプレックスを脱ぎ捨てることは難しい。この顔や肩の傷よりも深い傷を、麗緒の人生と同じ年月分負ってきたのだ。
だけど、八神麗緒という一人の人間を認めてくれる存在ができた……。
「そうそう、麗緒さんのリング捨てちゃいましたけど、引っ越しとか新しい家具にお金かかるから、買いに行くのちょっと先でもいいですか?」
「あたしは全然! ネックレスも貰ったし、しばらくはリングどころか包帯してますから」
「あっ、でも、お正月のバーゲンセールならちょっと安いかな?」
「それ、なんかイヤです……」
「ふふっ、冗談ですよ」
「まったくもー……」
ご機嫌を隠しきれないもみじが、今にもスキップし出しそうに一歩前を歩く。やれやれと肩をすくめた麗緒は、ふと視線に気付き振り返った。
自室の窓からダイアナが覗いていた。二人を見守ってくれているのだろう。下から見ているせいか、ダイアナの口元が笑っているように見えた。
もうすぐ新しい年が来る。新たなスタートを新たな気持ちで迎えられそうだ。
もみじと、にゃんこらと、愛おしい同居人たちと共に……。
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ここまでお読みいただきありがとうございました。
この作品は昨年12月1日に連載スタートしまして、ちょうど1年での完結になります。
今まで学生百合しか書いたことのなかった芝井流歌にとって、麗緒ともみじのお話しは初めての社会人百合でした。
百合作品というよりはこれからって感じの2人ですので、もしかしたら外伝の短編や続編もあるかもしれません。
私としては大切なこの2人のお話しを書けなくなるのは寂しいのできっと書くと思います(笑)
最終話までお付き合いくださいました読者の皆様、そして糸崎もみじという愛らしいキャラクターを授けてくださった藤田大腸様、本当にどうもありがとうございました!
他作品もマイペースに執筆して参りますので、今後とも芝井流歌をどうぞよろしくお願い致します♪
2024/12/1 芝井流歌




