47ページ/目覚め
八神麗緒は、姉の言葉が耳から離れなかった。
『死ねばいいのよっ! お前なんか、役立たずのお前なんか生まれてこなければよかったのよっ! お前のせいで私の人生が……』
頭の中で、何度も何度もリピート再生される。馬乗りされて苦しかった腹部より、ずっとずっと重くのしかかる……。
わけが分からなかった。自転車のチェーンを外したところで、いきなり『お前なんか……』と低く唸るような女の声が聞こえた。すぐに姉の声だと分かった。
顔を上げたと同時に突き飛ばされた。ペダルに足を取られてよろめくと、麗美が腹に乗ってきた。後頭部を強く打ち、意識が飛びそうになった。
麗美の手の中で何かが鈍く光ったのが見えた。果物ナイフだ。背筋に冷たいものが落ちていくのを感じた。意識を飛ばしている場合じゃないと思った。
抵抗しようにも、右手は麗美の左膝で押さえ付けられていて動かせなかった。振り下ろされるナイフを左手だけで押さえ、どうにか抜け出そうと必死にもがいた。
だが、体重をかけて振り下ろされるナイフは、容赦なく頬や肩をかすめていった。氷のように冷たいナイフに切られる度、冷たさは熱さに変わっていった。そこから生暖かいものが流れていくのを感じた。麗美は明らかに頸動脈や心臓を狙っていた。致命傷を受けないよう避けるだけで精一杯だった。
麗美は頻りに何かを叫んでいた。奇声に近かったので全ては聞き取れなかったが、妹を罵倒する言葉と、存在を否定する言葉を繰り返していた。
ハンニャのような形相であったが、麗美は号泣していた。真っ赤に充血している目玉から、麗緒の胸元や首筋にぽたぽたと涙を落としていた。マスカラやアイラインが落ちて目の周りは真っ黒だった。
あぁ、姉はかわいそうなほどに妹を憎んでしまったんだ……。
麗緒は同情すら覚えた。何をきっかけにこうなったかは分からないが、幼い頃からそうだったように、きっと落ちこぼれで厄介者な自分が悪いのだろう。
黙っていれば奇麗な顔立ちの姉が、こんなにも酷い形相になるほど取り乱しているのだ。自分がお望み通り殺されてあげれば、姉は元のちやほやされる生活に戻れるのか……。
ならば、いっそ……。
何時間もそうして抵抗し続けていた気がする。腹部は圧迫で苦しく、膝に踏まれている右手はすでに中手骨が折れているだろう。左腕も麗美の体重を支え続けてしびれてきた。容赦ない攻撃に死を覚悟しかけた時、「何してるんだ!」という見知らぬ男性の声が聞こえた。
男性が麗美を羽交い締めにし、麗緒から下ろしてくれた。身体が軽くなった。それでもわめき暴れる麗美は罵声を浴びせ続けてきた。痛みと恐怖で起き上がることができなかった。
女性が声を震わせながら「大丈夫ですか?」と話しかけてきた。全然大丈夫なんかじゃないのに、口からは「はい……」と出てしまった。
警察と救急車を呼ぶと言われ、麗緒は躊躇った。大ごとにしてしまったら、麗美は医師としての仕事を失うかもしれないと思ったからだ。そうなれば麗美だけでなく、両親にも恨まれてしまう……。
いや、どうせ自分は八神家の厄介者なのだ。いっそこれをきっかけに絶縁してもらったほうがお互いのために……。
しっかりしてくださいねと隣で励ましてくれる女性が電話をかけ始めた。通報するのだ。もう悩んでいる暇はない。まだ奇声を発している麗美のわめき声を聞きながら顔を上げると、五階の自室のカーテンから光が漏れているのが見えた。
待望の塩レモン鍋を楽しみにしていた血の繋がらないかわいい妹の笑顔を思い出し、ごめんね……と心の中で謝罪すると、麗緒の瞼はゆっくり閉じていった。
*
次に瞼を開けると白い天井が見えた。
懐かしい匂いがする。消毒剤の匂いだ。どこだろう……。頭の下に冷たい感触がする。あちこちが痛い。浅い瞬きをぱちぱちし、そっと見渡した。
「お? 目ぇ覚めた?」
左側から聞き慣れた声がした。頭を向けようとすると後頭部がずきんと痛んだ。
「おっと、まだ動かさないほうがいいよ?」
色白でぽちゃっとした、マシュマロみたいな女性が覗き込んできた。
「……伊織?」
口を開けたら頬がぴきっと痛んだ。懐かしいナース姿の伊織は「中身は大丈夫そうね」と言ってむふっと笑った。
「病院……?」
「そ。たまたま夜勤だったんだけど、びっくりしたわよぉ、救急患者の名前聞いたら麗緒だったんだもん。意識ないって言うから私泣きそうだったんだからね? ナース五年目にして、私この仕事むいてないのかもって思っちゃった」
伊織がそっと手を重ねてきた。自分なんかよりもはるかに強いメンタルの持ち主だと思っていた伊織だが、うっすらと目に光るものがあった。
「あたし、生きてたんだ……。姉に殺されたかと思った……」
まだ実感がない。襲われたのが夢だったような気もするし、今が夢なのかもしれない。怖い夢であってほしかったが、あちこちの痛みが現実を受け入れろと教えてくる。
「殺されたかったわけぇ? 冗談じゃないわよ、麗緒が死んじゃったら誰と飲みに行けばいいのよ。寿命縮んだかもしれないから、お詫びに今度焼き肉おごってよね?」
伊織らしい冗談に、あぁやはり現実なんだな……と落胆しそうになる。それでも、目覚めに伊織がいてくれていなければ、きっともっと沈んだままだっただろう。
「ははっ……そうさせてもらいますよ」
「ふふっ、じゃあ早く左手でお箸使えるようにならないとね」
鼻をすすりつつ、伊織は点滴をいじりだした。左腕に繋がっている。鎮痛剤だろうか。あと少しで終わりそうだ。交換のタイミングで病室に来たところだったのだろう。
「伊織、姉は……」
手を止め、伊織は口を引き結んだ。
「……もち警察署でしょうよ。麗緒、あんたこんなことまでされといて、まだ『姉』とか言ってんの? どんだけお人好しのおバカちゃんなのよ!」
そうは言っても姉は姉だ。伊織がどこまで知っているのか分からないが、麗美に襲われたことは知っているらしい。
「それはそうと、さっき妹ちゃんが着替え持ってきてくれたわよ? またあとで来るって。それと、同じマンションのご夫婦が通報してくれたみたい。退院したら御礼言っときなね」
「妹……? あー……そっか……うん」
もみじが来てくれた……。きっと心配しただろう。目が覚めなくて不安に思っただろう。塩レモン鍋もお預けになってしまった。悪いことをしてしまったな……と眉を寄せた。
「ねぇ、今何時?」
「二九日の朝八時。半日寝てたね。後頭部にでっかいたんこぶできてて脳内出血心配したけど、CTは異常なしだから今のところ安心していいよ。念のためもう一泊しろってドクターに言われると思う。左肩と上腕は結構ぱっくりいってたからそれぞれ縫ってる。右の中手骨が二本折れてたから固定してるよ。ほっぺと耳はそこまで深くないから、跡は残らないかな。あー、高そうなコートと髪はご愁傷様だけど、コートがスタンドカラーじゃなければもっと危なかったかも。不幸中の幸いだね」
どうりであちこち痛いわけだ。早口でテキパキと説明され、麗緒はふーっと長いため息を吐いた。やはり頸動脈を狙っていたのだ。恐怖心が蘇る。
「そっか……ありがと。学校が年末休みで良かったよ」
「おバカ! なーんもよくないよっ! 私もう上がりだし、ドクター呼んで日勤と交代したら着替えて戻ってくるから!」
点滴を交換し、伊織はぷりぷりと病室を出て行った。途端に沈黙に包まれる。
退職して以来一度も訪れていなかった元職場にいるのはなんだか気まずい。せめてもの救いは、麗緒は小児科勤務だったので、知っているドクターには会わずにすみそうだということだけ。
案の定、担当医は知らない若い医師だった。検査結果とケガの状態は、伊織と同じことを説明してくれた。念のためもう一泊しろとも言われた。
担当医が付け加えたのは、廊下で刑事が待っているということ。医師の許可がなければ事情聴取はできない。担当医は神妙な面持ちで「もうちょっと落ち着いてからと言いましょうか?」と気遣ってくれた。
医師の言うようにもう少し落ち着いてからのほうがいいような、だけど早く吐き出してしまうほうがいいようなという葛藤のすえ、麗緒は後者を選んだ。担当医同席のもと、刑事を招き入れた。
男性と女性の刑事が二人で入ってきた。主に女性刑事が尋ねてきた。やんわりと、だけど突っ込んだ質問ばかりだった。病院勤務時代にこういう光景を見たことがあったが、あの時はまさか自分が当事者に置かれるとは思ってもみなかった。
少しずつだが、思い出しながら一つ一つ答えていった。刑事たちは時折さらさらと手帳に書き留めた。昔から仲は良くなかったが、今回のように理由も分からず襲われたのは初めてだと話した。
麗緒への質問が終わると、通報者は麗美が一方的に攻撃していたと供述し、麗美も自分が妹を刺したと認めていると教えてくれた。理由についてはまだ口を噤んでいるらしい。
心当たりはないと言うと、刑事たちは困った顔を見合わせていたがまた来ますねと出て行った。担当医も「少し休みましょうね」と、顔の近くにナースコールボタンを置き直して出て行った。また沈黙が訪れた。
麗緒は瞼を閉じた。伊織が戻ってきたらどうせ小言を言われる。きっともみじにも怒られるだろう。やはり自分は周りに迷惑ばかりかけているんだな、と深いため息をついた。
病室の扉がスーッと滑る音がした。伊織が戻ってきたのだろう。視線を向けた。
「麗緒さん、おはようございます」
大きな紙袋を抱えたもみじが、にっこり微笑んだ。




