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女子校保健医さんの百合カルテ  作者: 芝井流歌


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30/50

30ページ/訣別

 


 八神麗緒は、玄関から一歩も動けなかった。

 リビングのソファでは、甘ったるい声で「怖かったよぉ、怖かったよぉ」と鼻をすする麗美の背を、もみじが優しく摩ってやっている。

 いつだってそうだ。いつもいつも、この女が現れてかき回して乱して壊していく……。

 以前もこうやって助けを求めて、結局数週間も図太く居座った。

 過去の自分と決別したくて抜け殻から顔を出しても、脱皮する前にすぐ押し戻されてしまう。いつまでたっても乗り越えられない壁が、麗緒の自尊心をビリビリにちぎり捨ててしまうのだ……。

 結局、甘え上手で図太いやつが勝つのだと思い知らされる……。

 親にも姉にも反抗できなかった少女時代。『帰ってよ』の一言がなかなか言えなかったのは、断るという選択枝を削られてしまうからだ。

 何をやってもダメな自分なのだから、せめて家族の役に立つことをしなくては……と思うようになってしまう。それは一種の洗脳かもしれない……。

 不思議と、ダイアナは麗美には懐かなかった。ご主人である麗緒の感情が伝わるらしく、麗美が帰ってきても知らんぷりだった。麗美も人間のオス以外は興味ないので、ダイアナに構うことは一切しなかった。

 ダイアナが「なーん」と見上げてきた。心臓以外動かない麗緒を心配しているのだろう。わけも分からず走り回っているコジローもかわいいが、心情を察してくれるダイアナは本当に愛おしい。

 このにゃんこたちとのにぎやかで愛おしい日常が、また麗美の乱入のせいで壊されていくのかと思うと……。

「お姉ちゃん……」

 麗緒はゆっくり振り返る。リビングの二人もこちらを向いた。

「帰ってくれない?」

 絞り出した声は、カサカサに乾いていた。リビングまで届いただろうか? それくらい微かにしか出なかった。だが、麗緒にとってはそれが精一杯だった。

「麗緒先生!」

 もみじが麗美をかばうように立ち上がった。

「ひどいです! お姉さん、こんなに震えているのに……。話しくらい聞いてあげてもいいじゃないですか!」

 あーやっぱり、そうだよねぇ……と麗緒は落胆のため息をついた。

 正義感が強く面倒見のいいもみじのことだ、誤解を生むに決まっている。目尻を尖らせて麗緒の訂正を待っているようだ。コジローがもみじの周りを無邪気にぐるぐる回っている。

 だが、言うなら今しかない。今言わなければ、また麗美のやりたい放題に巻き込まれてしまう。麗緒はもみじから目を逸らした。

「悪いけど、もみじさんには関係ないでしょ……? ここはあたしんちなんだから黙っててよ……」

 唸るように低く突き放した言葉に、さすがのもみじも押し黙った。だが視線だけは挑戦的で、隙あらば聖技の鉄槌を振り下ろされそうだ。

「ちょっとぉ、もみじちゃんだっけ? もっと言ってやってよー! 薄情者の妹は私が怖い思いしてきたのに、匿ってくれるつもりないみたいなのよー?」

 麗美は猫撫で声でもみじにすがった。依然としてもみじはキュッと口を結んだまま麗緒を一直線に睨んでいる。あくまで口は出さないが、あまりにも感情が表情に出過ぎているので、中立ではないことは明白だ。

 足元のダイアナが踝に頭を擦りつけてきた。『わたしは味方だよ』と言っているようだ。

「なによ、二人して黙っちゃってぇ。麗緒? お友達に嫌われたくなかったら黙ってろなんて言っちゃダメよ! あんたは勉強だけじゃなくて、人付き合いもまともにできないのねー。かわいそーう。あはははは!」

 今まで泣いていた鬼ババアが一転笑い出した。今度は意地悪魔女のようだ。

 この女はいつも、両親のいないところでこんな風に自分を馬鹿にして笑っていた。親の前ではいい子ぶっていたが、二人の時はいつもこうして見下して楽しんでいた……。

 もみじが麗美に向き直った。ミニスカートから延びる細い足をバタつかせ大笑いし出した麗美の姿を。じっと真実を見定めているような目で……。

「ふんっ、なにが『麗緒先生』よ。医学部すら入れなかったくせに! 調子に乗っちゃってちょーウケるんですけどーぉ」

「……教員だって先生だもの。医者になんかなれなくったって、あたしはやり甲斐のある仕事に就いた。今は胸を張っていられるわよ」

「胸を張っていられるー? ぷははははっ! 笑わせないでよ! 私に何一つ勝てなかったくせに、あんたになんの価値があるって言うの? パパもママも、あんたになんか一つも期待してなかったじゃない。こんな落ちこぼれが妹だなんて、私の人生の汚点でしかなかった。八神家の恥よ! よくもまぁのうのうと恥さらしながら生きていられるわね! あはははは!」

 頭に上っていた血液が、一気に引いていくのを感じた。寒くもないのに全身が震えてしまう。吐き気がしてきた。人間、怒りが頂点を超えるとこうなっていくものなのか……。

 視野の端に、俎板上の包丁が映った。震える手で掴む。キラリと光る刃先を向けられた麗美の顔色が一瞬にして変わった。

「そ、そんなの持ち出してなんのつもりっ? け、警察呼ぶわよ!」

「呼びたきゃ呼びなさいよ……。あたしには何もないんでしょ? だったら失うものだって何もないじゃない。父さんも母さんも、あたしがいなくなれば『恥さらし』がいなくなってせいせいするんじゃないの……?」

「や、やだぁ! とうとう頭おかしくなったわけぇ? きゃっ!」

 その時、もみじの周りを駆けずり回っていたコジローが麗美の足にかぷりとかじりついた。バタバタしていた足にじゃれたつもりだったのだろう。

「痛ーい! こんの、クソネコっ!」

 麗美は思い切り足を振り上げ、かぶりついていたコジローを吹っ飛ばした。慌てて手を延したもみじが間一髪抱き留める。そのまま飛んでいたら壁に激突していた。もみじは目を剥いて抗議した。

「お姉さん! なんてことするんですか! この子はまだ子供なんですよっ?」

「そいつが急に噛みついてきたんじゃない! なんなのよ、ネコの味方しちゃって! 心配するなら、噛みつかれた私のほうでしょー? 妹も馬鹿なら、そのネコも友達も馬鹿なのー?」

 麗緒の中で、とうとう何かが弾ける音がした。ぎゅっと包丁を握り直す。

「訂正して……。あたしのことはともかく、もみじさんやうちの子たちのことを馬鹿にしたこと謝って……」

「ちょ、ちょっとぉ! や、やめてよっ!」

 ゆっくり、一歩ずつ近付く。刃先から麗美までは三メートル程度。ソファで我が物顔していた麗美が、麗緒との距離を縮めまいとずりずり後ずさる。

「麗緒先生、ダメっ!」

 飛び込んできたもみじの手刀が、前腕伸筋群にヒットした。反射で勝手に手が開き、包丁を落としてしまう。なおも拾おうとした麗緒よりも先にもみじが蹴飛ばし、包丁は部屋の奥まで滑っていった。

「もみじさん! 口出さないでって言ったでしょ! どうして邪魔するのよ!」

「ダメっ! こんなのダメです、麗緒先生! 目を覚ましてください!」

 パシッと乾いた音が響いた。左頬がジンジンと熱くなってくるのを感じた。麗緒はこみ上げるものを必死で堪え、駄々っ子のようにぶんぶん頭を左右に振った。

「いいのっ! ほっといて! どうせあたしには何もない、何もないんだからっ!」

「そんなことないですっ! そんなこと言っちゃダメですっ! この子たちはどうするんですか! 生徒さんたちはどうするんですか! あなたが大切に守ってきたものを自分で壊すんですかっ? 先生でしょう? なりたくてなった保健医でしょう? なりたくてなった里親でしょう? もっと自信と責任を持ってください! あなたがいなくなったら悲しむ人がたくさんいます。あなたにはあなたの素敵なところたくさんあるの、いい加減分かってください!」

「だって、だってあたしは……あたしなんか、あたしなんか……」

 麗緒はへなへなとその場に座り込み、子供のように「うわぁぁぁぁん!」と大声で泣き崩れた。もみじは優しく抱きしめた。いつまでも涙の枯れない麗緒を、黙って抱きしめ続けた。

「あーぁ、馬鹿な妹に付き合ってたから、ダーリンからのメッセ見逃しちゃってたじゃない! 車で迎えに来てくれるって言うから、帰ってあげるわよ!」

 麗美はシラケたため息を吐き、リビングの入り口に座り込む麗緒の背をバッグで一発叩いてから出て行った。ピンヒールの音が、廊下で小さくなっていく。

 嵐の過ぎ去った部屋に、未だ涙の枯れない麗緒の嗚咽が響く。隣に座ったダイアナが、もみじを見上げた。目が合った。不安げにしている。

 もみじは麗緒を抱きしめたまま「大丈夫よ、ダイアナちゃん……」と切なく微笑んだ。



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