第15話 占い娘からのプレゼント4 仲直りの握手
――比入氷雨に、会いたい。
ファミレスの駐車場で口論になって以来、会えていない。
氷雨、氷雨、氷雨。
話がしたい。手を触れたい。時に骨を砕かれたり、空を飛ばされながら、笑い合いたい。
きっと最初から、世界で一番美しい貧乳が好きなわけではなかったんだ。俺が求めていたものは、もう違う。
変わった。
いつの間にか、俺は変わっていたのだ。
世界一の貧乳?
笑えるぜ。そんなもの、氷雨の貧乳とは比較にさえならない。
好きになった人の貧乳が、いちばん好きなんだ。
好きになった氷雨の貧乳が、何よりも大好きなんだ。
「そうか。そうだよ。そうだった」
やっと気付けた。いや、むしろ、ここまでされなきゃ、気付けなかった。
愚かだった。
俺は携帯電話を掴み取る。
乱れたベッドから立ち上がり、片っ端から連絡をする。
比入氷雨の居場所を知ってる者がいれば教えて欲しい。わからなければ、氷雨の目撃情報が欲しい。どんな小さな氷雨の痕跡でもいい、教えて欲しい。
占い娘。天海アキラ。今山夏姫。小川理央。篠原こやのにも。疎遠になったクラスメイトたちまで。思いつく限り、氷雨を見たことあるだろうって人間全員に、俺の知る限り全員に、メッセージを送信した。
南国な感じのアロハシャツに身を包む。
扉を開け、板張りの廊下を走り、階段を転げ落ちた。
いくつかの返信の中から、中身のあるものを探す。
画面を凝視する。指を絶え間なく動かす。
占い娘からの迅速な返信は、『それを知って、どうしようって言うんですか』と不愉快そうだった。
次々に届く返信の大半は、『了解』『把握した』『見つけたら連絡するね』といったもの。
その中から目撃情報を探していく。
「あった!」
今山夏姫からのメッセージだった。
『氷雨先輩なら、海で見ました』
ひとまず、有益に思える返信は、それだけだった。
しかし海か。海ってのは広い。地球の七割以上が海だ。どこの海なんだ。
俺は玄関を通り抜けながら、夏姫に電話した。
「もしもし、夏姫ちゃん! どこの海だ!」
『どーも、好史先輩。ごぶさたです』
「挨拶はいい、どこの海だ」
『えーと、すっごいぐーぜんだったんだけど、びっくりしたよ。あたし神奈川に旅行中なんだけど、今日の昼間に氷雨先輩がさ、その旅行先にいてね。泳ぐでもなく一人ポツンと遠くを眺めてボンヤリしてた。そりゃま、人多かったから、あんまり泳ぐ気分にならないってのはわかるけど。でも、やっぱり氷雨先輩、元気なかったですね。あんな氷雨先輩見たこと――』
「おいおい、まさか自分から海で溺れに行ったりとか、してないだろうな!」
『まさかぁ。合流したくて声掛けたら、うるさいあっちいってろって言われたし、そういう感じではなかったよ。それより、全部断ってたけど、ナンパされまくってましたよ』
「ナンパか。そりゃそうだ。氷雨は最高の女だからな」
『何でそれを、さっさと氷雨先輩に言ってあげないんですかね』
「余計なお世話なんだよ」
『はい、すみませんっ』
受話器の向こうで、びしっと敬礼でもしている感じの声だった。
俺も高いテンションのまま通話を続ける。
「夏姫ちゃん、氷雨が今どこにいるかわかるか?」
『さぁ。でも、もう帰ってる頃じゃないですかね。日帰りだって言ってましたから』
「ありがとう、助かった! 今度アキラとのデートをセッティングしてやる」
『え、ホント? やったー』
通話、終了。
氷雨が住む町には戻っている、と考えていいだろう。
しかし、氷雨の住む町、そこがわからない。
夏休みに入る前に住所を聞いておくんだった。あの時の俺は、昔に通っていた学校の住所ばっかり聞き出して、氷雨が普段どんな生活しているかなんて、知ろうともしなかった。
それはもう、今になって思えば、良い悪いを通り越してる。恥ずかしくさえあることだ。
街灯が光り始めた夕暮れのアスファルトを歩く。地元の駅へと向かう。
電話を切った途端に、着信があった。
ディスプレイに「占い娘ちゃん」と表示されている。無視してやろうかとも思ったが、妹のような彼女の悲しそうな顔を思い浮かべてしまい、通話ボタンを押してしまった。
『どういうことですか、好史さん。世界一の貧乳に、何かご不満な点でも?』
「不満なんかないさ、あれはすげえ貧乳人形だ。生きてるし、どう考えても世界一だと思う」
『では、何故、まだ氷雨さんを……? 世界一の貧乳に、あんなに喜んでいたのに』
「そりゃ、最初は喜んださ。あの人形の貧乳はマジで最高だ」
『それなら――』
俺は彼女の言葉を遮った。
「だが違うんだ。確かに、どんな貧乳よりも美しい。だけど、俺が手に入れたいのは、氷雨の貧乳だ。わかったんだ。世界一だから良いとか、そういうことじゃなかった。氷雨だったから、氷雨の胸にある貧乳だから、こんなにも焦がれているんだッ!」
『好史さん……』
「あれは、あの人形は、心をもたない貧乳だ! もはや今の俺の貧乳哲学に反するものだ! 俺は気付いた! 世界一? それがどうした。世界の評価なんて関係ない。俺にとって一番の貧乳とは何だ! 氷雨の胸にある貧乳だ! 氷雨本体なくして、氷雨の貧乳は存在しえないんだ!」
一方的に言い放ち、一方的に通話を打ち切る。
走り出す。
メールが来た。
和井喜々学園一年の、メガネ貧乳。篠原からだ。
このまえ氷雨と話したバスロータリー前の薄暗い駅前広場。そのベンチに腰掛けて、ひどく荒い呼吸を整えながら、メールを見る。犬みたいにハァハァいっているためであろう、周囲の人々が不審なものをみるような視線を向けてくるが、そんなものはどうだって良かった。
メッセージを確認する。
『執事の森田がソッコーで調べてくれました。比入氷雨って人は、学校にいるそうっす。転校した後の新しい学校っすね。もしよかったら、森田に迎えに行かせますか?』
学校?
もう夜だぞ。しかも夏休みだ。
なんだってまた、そんなところに?
ともあれ『ありがとう、送迎は遠慮する』と打ち込んでメールを返した。
助かった。本当に助かったぞ、篠原!
今山夏姫と篠原こやのに最大限の感謝だ。持つべきものは、貧乳の後輩だな。
『先輩、がんばってください。自分もアキラ先輩に恋焦がれる身であります。恋する好史さんの気持ちは痛いほど――』
すまないが、画面からあふれ出る長文を全部読んでる暇は無いんだ。
俺は小さな笑いをこぼし、携帯を勢いよくポケットに突っ込んだ。
立ち上がる。駅構内を駆け、改札を抜けた。
まだ電車に乗れば間に合う。
急げ、氷雨の居る場所へ――。
★
電車は空いていた。電車が急いでくれないのはもどかしかったが、携帯を冷静に見つめる時間ができて情報の整理を行えたことと、息を整えることができたのは幸いだ。
慣れ親しんだ通学路を早歩きで踏みしめて、夜の学校へと忍び込む。
篠原のメールに書かれた道順にしたがって、校内を移動する。
カギの壊れた窓だとか、割れている窓が多いことだとか、警備やカメラの配置だとかを詳細に示してくれていたので助かった。
それにしても、篠原家の情報収集能力のすさまじさといったら……これは敵に回したくないな。貧乳学園の抜け道について知っているだけでなく、俺の学校の抜け道にまで詳しいとは。
忍者か何か雇ってるんだろうか。それとも執事の森田さんが忍者そのものなのか。もしくは有り余る財力を使って、人工衛星の映像とかで探し出したのだろうか。
まあ、それを考えるのは後にして、氷雨のいる場所を考えなくてはならない。
俺に考え付くのは、二つくらいだ。
一つは教室。もう一つは屋上だ。
俺たちのクラスの教室に電気がついていなかったことを考えると、屋上で寝そべってる可能性が高い。あいつは見晴らしのいい高いところ、好きだからな。
自分の胸が高くないからだよな、とか言ったら、怒ってくれるだろうか。
「……」
扉の前に立つ。
氷雨が、この鉄扉の向こうに居る。彼女の気配を感じる。間もなく会える。
よく見ると、扉にはほんのわずかに隙間があった。ちょっと前に、誰かが開けたってことだ。
「…………」
少しばかり、ためらう。
俺が氷雨を深く傷つけた。何度も。
行動で、言葉で、態度で。何度も。
みんなが口をそろえて、氷雨に元気がないと言う。氷雨の元気を奪ったのは、俺だ。
だからこそ俺が、どうにかするしか道はないのだ。
意を決し、勢いよく扉を開ける。
進む。ずんずん進む。都会の控えめな星空の下を、氷雨の気配がする方へ。
見つけた。氷雨だ。月の明かりに照らされて、白く浮かび上がっていた。目を閉じ、自分の手を枕にして、仰向けに寝転がっている。
姿が目に入ったとき、俺はすぐさま駆け出した。体が自然に動いてしまった。
「氷雨!」
「こ、好史?」
氷雨は勢いよく身体を起す。
何でここにいるんだ、とびっくり顔だ。
いつもとイメージの違う服。白いワンピース姿だった。両耳にはイヤホンをつけて、漏れてくるくらいの大音量で音楽をきいている。
みんなが言う通り、あまり元気はなさそうだった。
好きな人には、元気でいてほしい。
もう結論は出ている。俺は氷雨のことが好きだから、占い娘が止めるのもきかずに、ここに来たわけで。世界一の貧乳人形なんてものも押入れに容赦なく、乱暴にぶちこんで来たわけで。
「久しぶりだな、氷雨」
手を伸ばした。仲直りの握手をしようとした。だけど、
「何しに来たんだよ」
差し出した手は、彼女の手の甲で振り払われた。
さらに氷雨は、しゃがみこんだまま、くるりと俺に背を向けた。
その背中がとても小さく見えて、寂しくなった。
思わず泣いてしまいそうになるのを、ぐっとこらえる。
氷雨は、夜の学校に不法侵入していることも忘れたかのように、大きな声で、
「お前さぁ! 何なんだよ。あたしのこと好きじゃないんだろ! 何しに来たんだよ!」
「そんなことない、俺は氷雨のこと――」
「嘘だ! じゃあ、何なんだよ。いつも、『貧乳貧乳』って。あたしさ、好史にだから悲しい過去も打ち明けたんだよ。そのときにも、『貧乳貧乳』ってそればっか」
悲しい過去。
それは、貧乳であることを理由に親との仲に亀裂が入ったということ。
つまり、今、氷雨が学校に忍び込んでいるのは……家に帰りたくないからだ。
そして氷雨は、泣きながら、震えた声で続ける。
「あと、だいたいの話は聞いてるぞ。今山って女とデートしたんだろ。あとリオって女とも。あたしとは一緒に出かけてくれないのにな」
意外と嫉妬深いようだ。もっとサバサバしてると思ってた。
今まで俺は、勝手に氷雨は精神的にも最強なんだと思い込んでいて、本当の氷雨を見ようともしていなかったんだな。
「ちがうんだ氷雨」
「何が違うんだ。占い娘が、嘘を言ってるとでも言うのか?」
「デートしたのは本当だが、きいてくれ、別の貧乳と一緒に過ごしてみてわかったんだ」
「何だよ」
「俺は、氷雨の貧乳でしかときめかないってことだ。それを確かめたくて他の貧乳とデートしたんだよ」
「は? ふざけた言い訳しやがって」
「やっぱり言い訳……だよな、これは……」
「言い訳だろ。悪い意味で男らしい言い訳だよ。だいたい、まだこりないのか。『貧乳貧乳』って、そればっかり。いい加減にしろよ」
とめどない涙を袖で拭いながら。
返す言葉はあんまり無い。だがしかし、他のたくさんの貧乳と触れ合って、氷雨の貧乳が俺にとっての一番触れたい貧乳なんだって気付いたことは間違いないのだ。
俺にとって、それ以上の発見なんて無い。
氷雨は、震えた声で言う、
「出会った時は、本当にもう、ふざけんなって思ってた。けど、いつの間にか、お前のこと考えることが多くなってて、そのことに気付いた時、ああ好きなんだって思ったんだよ」
涙を拭って、さらに続ける。
「そうなっちゃったら、そういう気持ちがどんどん大きくなって、こんな貧乳のあたしを好きでいてくれるんなら、自分のこと話してもいいと思ったんだ。それなのに、なんでだよ」
また拭う。拭っても拭ってもあふれてくる。
「あたしは、お前のこと好きだって言った。お前もあたしの貧乳のこと好きだって言ってくれた。でも、あたしのこと、好きだなんて言ってくれたこと、一度だって無いじゃんか。好きになってくれないなら、もういいよ!」
「氷雨、俺は、お前のこと――」
「違うだろ! あたしじゃない! あたしの貧乳のことだろ! あたしの貧乳が好きなんだよ、お前は。あたしのことなんか、一度だって見たことあるかよ!」
今までは、そうだった。
ついさっきまでは、そうだったかもしれない。
だけど今はもう、
「違うんだ!」
「ちがうくない! 勝手にレッテル貼りやがってさ。あたしは貧乳である前にあたしなんだ。何でそれが、わかんないんだ!」
「わかってるさ! いや、本当は、ずっと前からわかってたんだ。氷雨のことが好きだって。ずっと前から好きだったって。だけど、そんなの、なかなか言えないだろう?」
「は? 何でだよ」
氷雨は、ずずっと、鼻水をすする。
「占い娘は言ったんだ。俺と氷雨がくっつくと、未来がめちゃくちゃになるって」
ついつい、また言い訳じみたことを言ってしまった。
当然、氷雨の怒りは収まらず、悲痛な声は止まらない。
「そんな話、あたしは知らない!」
「それにさ、氷雨。やっぱり俺自身には、大きな問題があったんだよ」
「どんな問題だよ」
背を向けたままポケットからティッシュを取って、鼻をかむ。
あまりにも言いたくないことだったので、俺はしばし黙った。
でも、何も言わないままでいたら、いつまでたっても氷雨と向き合えない。先に進めない。
駅前広場で話した時、氷雨は勇気を出してくれた。勇気を出して自分のことを語ってくれた。
貧乳だったために、恋愛がうまくいかなかったこと。貧乳だったために起きた家庭の不和。
そんな真剣なカミングアウトに対して終始ふざけた態度だったのは、俺だ。
だいぶ遅くなってしまったけれど、あの時の氷雨の勇気に、俺も応えなくてはならない。
ゆっくり、静かに、語りかける。
「……だから、つまり、俺はさ、自信が無いんだよ。氷雨には貧乳がある。美人だし、腕っぷしは強いし、でも俺に一体、何があるっていうんだ。何ができるっていうんだ。たとえば誰かの彼氏になるとか、そんなことになったら、自分のからっぽさに気付かれてしまうんじゃないかって、そういうのが、こわくて」
「…………」
氷雨は黙って耳を傾けてくれている。
「だから、貧乳が貧乳がって言って、誤魔化して……そうだよ、貧乳が好きっていうのは本当だけど、確かにお前の胸を見てるとドキドキして最高のおっぱいだって強く思うけど、でも、それよりもっと重大で、伝えなきゃいけないことを誤魔化してた。
貧乳しか見てないフリをしてないと、そうやって、おちゃらけてないと、自分の最低さが見透かされちまうと思ってたんだ。知られたくなかった。俺の全てを知られたら、拒絶されるんじゃないかって……」
「くだらねぇな。何だよそれ。だいたい、そんな拒絶されるような悪いことしてんのかよ」
「俺さ、勉強も真面目にやってなくて、高校生だってのに部活に打ちこんでるわけでもなくて、夢なんかもなくて、無気力さの塊みたいなもんで、若さが足りないっていうかな。そのくせ物事には批判的で、後ろ向きで。いやなことがあると、全部人のせいにして。言い訳がましくて。
本気で頑張って人生渡ってる人からしたらさ、こういうの、本当にクズに見えると思うんだよ。それが俺の、コンプレックスってやつだ。自分次第でどうにでもなることをコンプレックスだなんて、ダメ人間にもほどがあるけどな。でも、心の弱い自分だけじゃ、どうにもできなくて……」
「…………」
「だから言えなかったんだ。好きだってことが」
「好史……」
「だけど、こうなったら、もう言うしかないよな……」
俺は一つ息を吐く。また吸う。
不法侵入した学校の屋上で、俺は彼女に想いを伝える。
「好きだ氷雨。だから頼む。俺と仲直りしてくれ。俺が悪かった。以前のように、俺と、ふざけた感じで話をしよう」
そして俺は、今まで生きてきた中で、いちばん大きく息を吸った。
「もう一回、やり直そう、氷雨!」
学校中に響く、大きな声でそう言った。
「好きだ、氷雨ぇ!!」
今度はさらにもっと、闇を切り裂くような、町内全域で近所迷惑になるくらいの、大きな声で。
しかし氷雨は、
「……好史はさ、違うだろ。あたしじゃなくて、あたしの貧乳とやり直したいんだろ!」
そんな言葉を返されて、悔しかった。渾身の言葉だったのに、ぜんぜん納得してくれなかった。まだ俺に背中を向けたままだ。顔も胸も向けてくれない。
けど、ちゃんと納得させられない自分が悪い。
こうなったら、とことん語ってやろうじゃないか。
「ああ貧乳は好きだぞ。今でもそうだ」
「なんだよ、ほらやっぱり貧乳なんじゃん。あたしを好きじゃ、ないじゃん」
「でもな、俺も驚いたことなんだが」
「何だよ」
「俺は、てっきり貧乳だけを好きなんだと思っていたんだが、今はもう、氷雨の全てを好きになった。それに気付けた。確信したんだ!」
「は? そんなの信じられるかよ」
「信じてくれ」
俺は氷雨の白い背中に語りかける。
かなり疑り深くなっているようだ。そうさせてしまったのは、やはり俺……なんだろうか。
「ていうか、どうやって確信なんかできんだよ。ふざけんなよ」と氷雨。
「占い娘ちゃんのおかげでな」
この際だ。隠し事なんか無しだ。俺は正直に打ち明けることにした。
「実は、包み隠さずに言うと、占い娘ちゃんは、俺にプレゼントをくれたんだ。それが、貧乳パラダイスと貧乳ドールってやつだ。特に貧乳ドールの方は、正直言って氷雨以上の貧乳だった」
氷雨は舌打ちをした。
「じゃあその貧乳ドールちゃんとやらのところに帰れよ! あたしより上なんだろ!」
「……最後まで、きいてくれ」
「何だよぉ」
また、涙を拭う動きをした。
「俺はさ、貧乳好きとして生きることで、『貧乳好きである自分』を肯定してきた。それなのに、あの五月の日、貧乳よりも好きなものができてしまった。それが氷雨だ。な? そう考えるとさ、なかなか氷雨を好きって気持ちを素直に肯定できないってことが、わかるだろ?」
「え、全然わかんねぇ」
「だから、つまりさ、なんていうか、その、自分の、それまでの歩みを否定したくなかったんだ。強いこだわりを持つことで自分を守っていた。貧乳を愛する自分が、本当の自分自身だと強く思い込むことで、自分の生きる意味を持とうとしていた。貧乳至上主義の自分を失ったら、俺が俺でなくなってしまうことになると思ってた。だから本当は氷雨のことが好きなのに、わざと冷たくあたったりもした。全部、俺の自分勝手な行動だ。本当に愚かだったと思ってる」
「…………で?」
「色んな貧乳とデートして、色んな貧乳に手を触れて、世界一の貧乳人形を味わい尽くして、それでもなお、幸福になれない俺がいることに気付いた。そこで考えて考えて、自分を見つめ直してみて、本当の幸福は、氷雨と一緒じゃないと手に入らないってことが、わかったんだ」
「要するに何だよ」
「つまり、確かにとっかかりは貧乳だったけど――」
「しね」
「最後まできけ」
「なんだよ」
「好きになっちまったもんは好きなんだ。貧乳ってのは、つるつるでぺたぺただろ? 氷雨の貧乳は、僅かな膨らみが無いこともないが、とっかかることが難しいだろ? それなのに俺は、貧乳を切っ掛けに好きになった。これって、実はとても稀少で特別で、すごいことだろう。もう奇跡って言ってもいいくらいのさ」
「ふざけてんのか?」
「断じてふざけていない。俺は貧乳も好きで、お前も好きだ! それこそが、情けないことに、つい最近になってようやく気付いたことなんだ」
「……しね」
「俺は死なないよ」
「…………」
比入氷雨は黙った。
「氷雨のことも、死なせない」
「…………」
「変に手を加えることはないんだ。氷雨のままで、もうすでに最高なんだ。そして、氷雨が氷雨であるだけで、ずっと最高であり続けるんだ。もしも変わりたいのなら、一緒に変わっていこう。そんなに大きな胸になりたいなら、その微かで健気な希望を、俺はもう否定しない。なりたがるのは自由だからな」
「そ、そうかよ……」
呟くように氷雨は言った。
いける、と俺は思った。
なんだか良いムードだと判断した俺は、氷雨の背後から手を回し、彼女の両脇の下から手を滑り込ませ、
「しかし、せめて、俺の手で大きくしてやる!」
その貧乳に触ろうとした。
最低だ。
しかし瞬間、叩き落とされる腕!
「誰が触っていいと言った!」
「自分で揉んでも大きくならないと言うだろう、だが、きっと愛にあふれた俺だったら、少しくらいは大きくしてやれるはずだ!」
史上最低のセクハラである。
だけど、その時、ようやくこっちを向いてくれた。
それは久々の、かなり怒った顔だった。
「しねよ、変態!」
「ふはは、それとも、揉まれるだけの肉もないとでも――ぐぁああ!」
粉、砕、骨、折!
ばっきばきの、ぼっこぼこ!
ひどい連打で骨の音が響き渡る!
最高に痛い!
ああ、でも、久々の彼女の暴力が、どうしてか最高に嬉しかったわけで。
「おい、あたしと付き合いたいなら、またイヌからだ。今日からまた、あたしのイヌになれ」
「そ、そういうセリフは、おっぱい触らせてから言うんだな!」
「いいからイヌになれぇ!」
轟音がして、俺の身体は宙に浮いた。
屋上のフェンスを突き破って、暗い空に飛び出した肉体が、地面に向かって落ちていく。
「うぉぉおおおおん」
遠吠えみたいな声を挙げながら、落ちていく。
「好きだばかやろー!」
彼女の甲高い声が、闇夜を切り裂いた。
★
目覚めた場所は、コンクリ歩道の上だった。起き上がり、周囲を見渡して、そこが学校のすぐ外にある遊歩道だとわかる。
「夢じゃ、ないよな」
肉体が元通りだし、痛みも引いていたものだから、現実なのか疑わしくなる。
「本当に、氷雨と仲直りできたんだよな……」
「大丈夫ですよー」
漆黒のローブを羽織った娘が立っていた。もじゃもじゃヤキソバヘアーですぐわかる。
占い娘ちゃんだ。
俺は立ち上がって身構えた。
占い娘にとって、俺のとった行動は、思惑と大きく外れるもののはずだ。
彼女は、俺と氷雨を別れさせるために未来から来たと言っていた。水晶玉は見たこともない操作で不思議な映像を映し出したし、彼女に貰った虫刺され薬の効果も抜群だった。
占いの的中率だって、もうそれは占いというより予言といったレベルだ。それらの不思議未来グッズ等の存在から考えれば、彼女が未来から来たというのも、信じられる話。
――この娘に勝たなければ、ハッピーエンドは訪れない。
そう思って、強く拳を握りしめ、彼女を見据えていた。
しかし、占い娘ちゃんは意外なことに、うれしそうに笑った。
「よく言えました、好史さん。おめでとうございます」
祝福された。
「何だ、どうしたんだ、占い娘ちゃん」
「貧乳だけではなく氷雨さんのことも大好きだと、よく言えたと思います」
「どういうことだ。君は、俺と氷雨の仲をぶった切ろうとしていたはずだ。そうしないと未来が悲惨なものになるとを言ってなかったか?」
「そうですね。確かにそんな感じのことを言いました。でも、愛し合う二人を引き裂こうなんていうのは、よくないのですよ」
そこで、俺の脳裏に、ある疑惑が浮かんだ。
「もしかしたら、君がすべての黒幕で、最初から、こうなることを目標にしてたのか? 俺と氷雨にあえて障害を与えて、俺たちがくっつくように……ロミオとジュリエットで障害が二人を燃え上がらせたように、逆に親密度を高めようとしてくれてたとか」
「いいえ」占い娘は、静かに頭を振った。「試練を与えていたというわけではありません。本気で二人を別れさせようとしていました。そういう指示が、上司から送られてきていましたので」
「……だったら何故、今は俺を祝ってくれているんだ?」
「そうですねぇ」ヤキソバ娘は顎に人差し指を当てて、「ある時から、二人を応援したいと思うようになりました。……いえ、二人をというよりも、好史さんを、ですかね」
「ある時?」
「ええ。好史さんが世界最高の貧乳ドールを手に入れたけれど、やはり氷雨さんのことが好きで仕方ないと、そう気付いて、押し入れに投げ込んだ瞬間からです。よくぞ真実の愛ってやつに気付きました」
偉そうな口調だった。そこで俺も負けないように、偉そうな口調で返す。
「そうか。感謝しないといけないな。君がいなかったら、大事なことに気付けずに終わるところだった。気付かせてくれて、ありがとう」
「さあ、ほら」
占い娘は、顎に当てていた人差し指を今度は車道と歩道の間に向けた。
「ヒロインが、降りて来ましたよ」
そう言って、ぎこちなく微笑んだのだった。
比入氷雨は、小ぎれいな白のワンピース姿は、夜の闇に美しく浮かび上がっていた。上は肩が隠れていて、谷間なんか無いのに、胸元の露出部分が多い。スカートの丈は短めで、引き締まった太股がよく見える。サンダルも白く、全身、ほぼ真っ白だ。
見れば見るほど、普段とは違う印象を受けた。
そういえば、俺が氷雨を思い出す時に、想像の中の氷雨が着てる服は、いつも制服だった。私服姿なんて、興味を持ってすらいなかった。俺は本当に、側面しか見てなかったんだなと昔の自分に呆れ果てる。
白い氷雨は、闇に浮かび上がるようで、とても美しかった。
彼女は、全力で駆け寄って来るなり、いきなり俺の胸倉を掴んだ。
「なぁおい好史、あたしと貧乳、どっちが好きだ?」
「選びようがないな。お前は貧乳で、お前の貧乳も、お前だから」
「イミわかんねぇな」美しい顔をしかめながら、俺のアロハシャツから手を離す。
「でも、貧乳がなかったら、俺はお前を好きにならなかったぞォ!」
俺が夜の闇に向かって叫ぶと、
「うるせえな、ばかじゃねぇの」
そう言って笑う。何か企んでる風な魔女笑いじゃなくて、普通に、心から、気を許しているような笑顔だった。
「考えてみたら、お前のそういう笑顔、初めて見たかもしれない」
「ん、ああ、そういわれると、何年ぶりかな、ちゃんと笑ったの」
「そういう笑顔も、最高だな」
本当に本当に嬉しくて、いとおしくて、残り少ない夏休みの間に、あと百回くらいは見たいと思った。
「な、何言ってんだよ。褒めたって胸は触らせないぞ」
俺はヘラヘラしながら「ううむ、手ごわい」とか言うわけで、そしたら氷雨は、「ばーか」と言って胸をガードするわけで。こういう、くだらないやり取りを求めてたんだなって思う。
「好きだ、氷雨」
本当に本当に心から、良いところも、良くないところも、彼女の全てが好きになれる。そう確信できたことがとても幸福で、かけがえの無いものだと理解できた。
「氷雨を傷つけたことで初めてわかったなんて、情けない話だけどな」
「本当だよ。ふざけんな」
「ごめん」
「一生許さないからな」
氷雨は、恥ずかしそうに目を逸らしながら言った。
一生許さない。
それはつまり、一生一緒にいてくれるという意味なわけで。
「さぁて、それじゃ氷雨さん、よく聞いてくれ」
「何だよ……あらたまって……」
「氷雨のおっぱいが見たい。おっぱいを出せぇい」
「しねぇ、変態!」
今までの鬱憤を晴らすように、氷雨は俺を思い切り蹴り上げた。
二人の力で、夜空に描く放物線。
そうそう、これこれ。
流れていく視界。遠ざかる地上。骨の折れた感覚。
死なない身体でよかった。もし俺が普通の身体だったら、氷雨は今頃、重犯罪者だ。
これから死ぬまで、何回仲直りの握手ができるんだろうか。
きっと数え切れないくらい握るから、別に数えなくてもいいかと思った。
空中を泳いで、氷雨のそばまで。
落ちて、着地を決めて、彼女の手を強く握る。
「好きだぞ、氷雨」
「うるさい。もうわかったから」
手を握り合いながら目を逸らし、上擦った声で恥ずかしがる貧乳の氷雨のことが、本当に大好きで。
そして占い娘ちゃんが、僅かに光る水晶玉をのぞきこみながら、こう言った。
「めでたし、めでたし。ですねぇ」
【第四章に続く】




