玉ねぎの本分(4)
「い、今の私も、よそ者で混ざりものの、玉ねぎなのかな、って」
涙を追うように手で素早く頬を撫で、そのまま、顔を覆った。
「謝りたくて」
両手の隙間から漏れたのは、絞り出すような声だった。
(ゾウコ)
フォンさんが身を乗り出す。
俯く娘の頭を撫でようとして、けれどこの状況では不自然だと気づいたのだろう、腕を引っ込める。
きゅっと指先を握り、囁くような声で、彼女は呟いた。
(大丈夫。泣かなくても、大丈夫ネ)
「でも、できない。母は去年、私の引っ越しの直後、亡くなったんです。交通事故で」
明日がちょうど一周忌で、だから都内に戻って来たのだと、陽子さんは言った。
今は四月。
苺農家にとってはかき入れ時だ。夫はどうしても仕事の調整がつかず、当日だけ日帰りで法要に来ることにして、陽子さんだけが前日入りを果たした。
年を取った父親は、陽子さんの帰省を喜びはしたが、母親不在での会話はあまり長く続かなかった。
準備を理由に、実家ではなくホテルに泊まることにし、迷惑をかけてしまった義理の実家に連絡を入れる。
夫も義理の両親も忙しそうにしていて、そんな中でも「ゆっくりして来いよ」と言ってくれたが、かえって心が塞いだ。
あの家で、自分はいてもいなくてもいい存在なのだ。
静かなホテルのベッドに、ぽつんと座っていると、そのままなにかに塗りつぶされてしまいそうで、衝動的に部屋を出た。
歩き回っている間は、物思いを忘れられる。
もし迷えば、きっと、どこかに「帰ろうとする」感覚が得られる。
たとえ帰る先がホテルでも。
そうしてでたらめに歩いているうちに、夕食を取っていなかったことを思い出し、ふと漂ってきた甘辛い醤油の匂いに釣られ、「てしをや」の扉を叩いたのだった。
「歩けば、少しは落ち着くと思ったんです。でも、できなかった」
陽子さんは自嘲しようとし、その傍から失敗して、鼻を啜った。
「ずっと、同じことばかり、考えてしまうんです。もう取り返しがつかないんだな。どうして、あのときの私は、あんなに馬鹿だったのかな、って」
(ゾウコ。大丈夫だから)
「どうしてもっと、家に顔を出さなかったんだろう。どうして、あのとき親子丼を断ってしまったんだろう。もっと……もっと、優しい言葉を。だ、大丈夫だよ、って」
(ゾウコ)
「い、一緒に、ご飯を、食べればよかった。ベトナム語を、もっと学べばよかった。たくさん、話して、話を、聞いて……。お母さん、って。きちんと、ご、ごめんなさい、って」
言えばよかった、の言葉は、涙に飲まれてしまい、聞き取れなかった。
店内に、しばし嗚咽が響く。
親子丼から立ち上る湯気が、徐々に薄くなっていく様を、フォンさんはじっと見つめていたが、やがてこう切り出した。
(あのネ。伝えてほしいこと、ある)
落ち着いた声に、俺ははっと我に返る。
慌てて返事をしようとしたが、それよりも早く、フォンさんはカウンターに身を乗り出し、陽子さんではなく、彼女の前に置かれた丼に手を触れた。
(冷めないうちに、はざく、食べて)
そして、ぐいと丼を押し出した。
自分の腕でそうしておいてなんだが、俺は少々戸惑った。
てっきり温かな言葉でも掛けて励ますのかと思っていたからだ。
陽子さんも、腕に触れた丼の感触に気づき、顔を上げる。
「え……」
「あ、あの、どうぞ、冷めないうちにと」
空気を読まない感じになってしまった行為に、俺は冷や汗を浮かべた。
(そうそう、はざくネ。暗いこと考えるの、だいたい、お腹が空いているからネ)
う、うん!
そうなんだけど、ことここに及んで、物理的な解決に頼るというか、食事を急かすのはどうなんだろうか。
情緒というか、寄り添う心というかね!
(特に、玉ねぎの部分ネ。いっぱい食べてほしい。美味しい。きっと、元気になる)
だが、フォンさんが真剣に、そして熱心に言い募るのを聞いて、姿勢を改める。
もしかしたらこれは、フォンさんなりの、メッセージなのかもしれない。
(私ネ、おざこ丼の、玉ねぎが一番好き)
事実、彼女はこう告げた。
(玉ねぎが、一番大事ネ)
と。
「あの」
直感があった。
鶏肉や卵より、玉ねぎにこだわったフォンさん。
きっと彼女は、親子丼というより、親子丼に入っている玉ねぎこそを、陽子さんに振る舞いたかったのだ。
「そんな気分になれないかもしれませんが……よければ、食べてみてくれませんか。特に、玉ねぎの部分を」
意表を突かれて涙を止めた陽子さんの前で、頭をフル回転させ、なんとか話のつじつまを合わせにかかる。
「陽子さん。旧姓はもしかして、藤岡ではありませんか? 藤岡フォンさんの娘さん、ですよね。実は俺、フォンさんと知り合いだったんです。店の常連だったから」
いつもそうしているように、フォンさんを「てしをや」の常連客だったことにしてしまうと、陽子さんは大きく目を見開いた。
「そうなんですか?」
「はい」
「そ、そうです。私、藤岡の……藤岡フォンの、娘です」
こうしたときは、堂々としていればしているほどよいのだと、経験上知っていた。
俺は「よかった」と頷くと、今一度、丼を手で指し示してみせた。
「だったらぜひ、食べてみてください。それというのも、フォンさんはよく、『親子丼の玉ねぎが一番好き』って、言っていたので」
「え」
その瞬間、陽子さんは喘ぐように口を開けた。
言葉を受け止め損ねたかのように、丼と俺の顔とを交互に眺める。
(うん、うん、ありがとう。そうネ。こう言ってほしい。『玉ねぎが一番大事。くったくたの玉ねぎ、美味しい。おざこ丼の、味の決め手は、実は玉ねぎ』!)
勢い込んだフォンさんの、弾むような声を、なんとかそのまま伝えたくて、口調を真似ることにした。
「こう言ってました。『玉ねぎが一番大事ネ。くったくたの玉ねぎ、美味しいネ。おざこ丼の、味の決め手は、実は玉ねぎネ』って」
(ちょっとー! 私、そんな、『ネ』『ネ』って言わないネ!)
途端に、フォンさんがけらけらと笑いながら抗議する。
本当に明るい人だ。
一方、陽子さんの表情の変化は劇的だった。
はっと息を呑み、みるみる目を潤ませたのである。
「『おざこ丼』」
その言い方に、たしかにフォンさんを感じたのだろう。
目から疑いや警戒の色が消え、代わりに透明な涙が滲みはじめた。
「そうなんですね」
(そう、そう。あのネ、ゾウコ。玉ねぎは、ずっと玉ねぎネ。おざこの中には、入れない。もうそれは、仕方ない。諦めるしかない)
フォンさんは、娘が真剣に耳を傾けているのが嬉しいのか、胸を張る。
彼女が告げたのは、安直な励ましではない。
どれだけ努力を重ねても、けっして親子丼の定義には含まれない存在だと、よそ者のままだと、自分を割り切る言葉だった。
(ただネ)
だが、続く言葉には、悲しみを吹っ切ってしまった人特有の強さと、朗らかさがあった。
フォンさんはどこまでもきっぱりと、言い切った。
(鶏肉と卵だけで、おざこ丼、作ってごらん。物足りない。だって、味が染みこむのは、玉ねぎだから。味を決めるのは、玉ねぎ。家の『味』を決めるのは、お母さんネ)
しっかりと頷いたフォンさんは、脳内で俺に「伝えて、伝えて」と急かしてくる。
「ええと、フォンさんはよく、自分は玉ねぎで、それは変えられないけど、玉ねぎ抜きの親子丼なんて美味しくないでしょって、言っていました。丼の味を決めるのは、実は玉ねぎ。家の空気を決めるのは、お母さんなんだと」
(そう、そう。だって、ゾウコとパパ、似た者同士すぎて、すぐ『自分が正しい』『私が正しい』ってなるでしょ。『お馬鹿さんなママ』いなかったら、きっと毎日喧嘩してたネ)
さらには悪戯っぽく、そんなことまで言い出した。
極力言葉を選んで伝えたのだが、陽子さんは、フォンさんの意図をしっかり理解したらしい。
「あえて、そんな役回りを、引き受けていたの?」
まん丸に目を見開いて、それから、気が抜けたように苦笑した。
「たしかに今日、母がいない父との会話は、ぎすぎすしてしまいました。……母が、上手、だったんだなあ」
目には、涙の粒が光っている。
「本当に……聡い、人だったんだなあ……」
(でしょー? 私は、私が賢いこと、ちゃんと知ってた。だから、悲しくなかったネ。恥ずかしくもなかった。私は立派な、玉ねぎだったネ)
娘の顔を上げさせるかのように、フォンさんはとびきり明るく微笑んだ。
(ゾウコもおんなじ。ゾウコは頭がぞくて、可愛くて、頑張りざさん。そのことを、ゾウコがちゃんと知っていれば、悲しくないネ。大丈夫。大丈夫)
優しい声だ。
そして力に満ちた声だ。
どうかフォンさんの言葉が、できるかぎりこのままの温度で届きますように。
俺は祈るような思いで、俯く陽子さんにフォンさんの話を伝え続けた。
「フォンさんは、悲しくなんかなかったそうです。溶け込むことはできないけれど、自分の役目を知っていたし、自分が賢いことを、ちゃんと自分で知っていたから」
こういうのを、なんて言うのだろう。
備わった性質以外のものにはなれない。
けれど、自分しか、その備わった性質を生かすことはできない。
話しながら、頭の片隅で考えて、俺はああ、と思った。
本分。
玉ねぎの本分を、フォンさんは誇りをもって果たしていたんだ。
「それは陽子さんも同じだ、とも言っていました。自分が賢くて、可愛くて、努力家であることを、自分がちゃんと知っていれば大丈夫。悲しくも、恥ずかしくもないよ、って」
「…………」
「もしフォンさんが、今の陽子さんを見たら、『気にしていないよ。絶対大丈夫だよ』って言うと思います」
俺なりの言葉を付け足すと、陽子さんはひときわ大きくしゃくり上げ、ぼろぼろと涙をこぼした。
喉を震わせながら、籠もった声で、「メエ」と呟く。
(あ)
それを聞き取ったフォンさんが、ほんのりと口元を緩めた。
(今の、「お母さん」っていう意味ネ)
どうやらベトナム語だったらしい。
娘の口からこぼれた「お母さん」を聞いたフォンさんは、それは嬉しそうに笑い、ねえねえ、と俺に付け足した。
(もうひとつ。スマホ、はざく見て、って言って。たぶん、元気出る)
スマホを?
首を傾げつつ、「ところで、さっきからスマホ、鳴っていませんか?」とそれっぽく促すと、陽子さんはえっと目を瞬かせ、慌ててバッグを探った。
「す、すみません。私、気付かなくて。うるさかったですね」
ばつが悪そうに鼻を啜るが、いやいやすみません、単なる口実なので、なにも気にしないでください。
陽子さんは、さっとおしぼりで涙を拭い、慌てた手つきでスマホを取り出すと、「ちょっと失礼します」と体の向きを変え、素早く画面を表示した。
そして。
「――……ふ」
人差し指で、すいと通知画面をスクロールすると、気の抜けた笑みを浮かべた。
「やだ」
同時に、一粒の涙をこぼした。
「どうしましたか?」
「いえ、すみません。義理の家族から、メールやら着信やらが、いっぱい来ていて」
人差し指で目尻をなぞるが、その傍から、透明な涙が盛り上がってしまう。
「新しくデザインした苺園のサイトが好評で、苺狩りや、ギフトの申し込みがすごいんですって。ゆっくりして、って言ったけど、やっぱりできるだけ早く帰ってきて、って……ふふ、『ごめん』『でも助けて』って、お詫びと悲鳴のサンドイッチ」
急かされ、予定の変更を頼まれているというのに、陽子さんは、それは嬉しそうだった。
(そうそう。泣いてる時間、ないの。はざく食べて、はざく元気になって、帰らなきゃネ。お母さんになったら、なざむ時間もないくらい、忙しいんだからネ)
俺の中のフォンさんは、したり顔で頷いている。
その言葉が届いたかどうか、陽子さんはスマホをバッグに戻すと、すっと箸を取った。
「急いで食べなきゃ」
まだ目は真っ赤だったけれど、瞳がきらきらと輝いている。
先ほどよりも大きな一口を掬い取ると、陽子さんはそれを一息に頬張った。
とろりとした卵を、柔らかな鶏肉を、甘辛いつゆの染みたご飯を。
そしてなにより、くたくたに煮込まれた玉ねぎを。
しっかりと噛み締め、飲み下し、一瞬だけ目を閉じる。
「……美味しい」
すっかり憑き物が落ちたような、素直な声だった。
(でしょー?)
知っていた、と言わんばかりに、フォンさんは力強く笑った。
陽子さんは、それからあっという間に丼を平らげると、改めて、店先で思いきり泣いてしまったことや、突っかかってしまったことを詫び、そして、母を覚えていてくれてありがとうと、丁寧に頭を下げた。
店にやって来た時の、思い詰めた表情や尖った雰囲気は消え、代わりに、満ち足りた人特有の、明るい顔色をしていた。
会計を済ませると、そっとお腹を撫でながら、彼女は店を出て行った。
(うーん。ぞかった、ぞかった。どうもありがとネ)
「いえいえ、俺は、フォンさんの言葉を伝えただけですから」
(ううん。私がベトナム語で言っても、きっと、届かなかったと思うネ)
娘が去っていった扉を見送るフォンさんは、少し寂しげだ。
その、わずかに突き放したような、諦めたような物言いに、もしかしたらこれが、母と娘の距離感なのかもしれないと俺は思った。
チキン南蛮の時江さんが息子の敦志くんに向けていたような、とにかく丸ごと受け止めてやりたい、励ましてやりたいという愛情とは、少し違う。
できないものはできない、と冷静に指摘し、微妙な駆け引きをも挟み、どちらかと言えば「落ち込んでいる時間はないんだぞ」と活を入れるような、厳しさ混じりの愛情。
だがそれでも、「メエ」と呼ばれたときのフォンさんは、とても嬉しそうだった。
「きっと、今日からは違いますよ」
だから俺は、そう申し出てみる。
するとフォンさんは「おー」と目を丸くし、快活に笑った。
(そうネ。そうかも。念仏はベトナム語でしてくれるかナー。楽しみ)
やはり念仏にも、外国語の概念があるのだろうか。
ということは、神様や仏様は皆とんでもないマルチリンガルということか。
(カムオンエム。ありがとネ。神様にも、ぞろしく伝えてください)
思考を脱線させている間に、フォンさんは俺の体を使って、深々と頭を下げる。
ベトナム語で「ありがとう」という意味なのだろう「カムオンエム」を、正確に神様に伝えるべく、何度か復唱してみたのだが、そのたびにフォンさんは「んー、そうじゃない」「ちょっと違うネ」とくすくす笑った。
でも大丈夫、と付け足して。
――そして口元に笑みの余韻を残したまま、すうと溶けるように、姿を消した。
「うおー……これだけで食うと、純粋に草」
翌日。
窓から柔らかな朝陽が差し込む、「てしをや」でのことだ。
いつもより早く店に着いた俺は、パクチーをちぎって作ったサラダを食べていた。
昨夜フォンさんの一件があったために、自宅ではなく、店の冷蔵庫にパクチーをしまっていたのだ。
そのことを今朝になって思い出し、ならばもう店に行ってから朝食にしようと思い立ったわけだった。
たぶんパクチーって、こんな風に単独でむしゃむしゃ食べるものではない。
付け合わせに少しだけ散らしたり、なにかと一緒に炒めたりすべき、香味野菜なのだろう。
だが俺は、志穂たちが来る前に、パクチーをすべて食べきってしまいたかった。
なぜなら――「てしをや」にエスニックメニューを取り入れる、というアイディアを、きれいさっぱり忘れてしまいたかったからだ。
脳裏には、パクチーに敏感に反応した陽子さんの姿があった。
その土地の味に、必死に身を寄せようとした、フォンさんたちの姿があった。
混ざり合いたくて、でもできなくて、割り切って。
深く長い葛藤を経て、その先に断絶を乗り越えていった彼女たちを前にすると、「なんかおしゃれだからベトナム風ってどうかな。パクチー使えばいいのかな」という俺の態度は、我ながらあまりに幼稚で、軽薄に思えたのだ。
ある種の、証拠隠滅。
調子のいいことを考えていたという事実を、誰も気取られぬよう、パクチーを素早く胃に収めようとしていたのだった。
なお、夏美からもあの後、「念のため忠告するけど、思いつきでパクチー買ってきて志穂ちゃんにメニュー考えさせるとか、やめてよ。志穂ちゃん、ツッコミとかじゃなくて、本気でげんなりすると思うから」という、ありがたいお言葉を頂戴した。
どうやらそれまでにくれたメッセージは、やきもち混じりの可愛いツッコミ、などというものではなく、苛立ちをオブラートで包んだ本気の制止であったらしい。
俺は、夏美にパクチー画像を送りつけずにいた自分を讃え、同時に、送るタイミングを逸させてくれた神様とフォンさんに、深い感謝を捧げた。
おかげで社会的生命が救われました。
ありがとうございます。
きっと神様も、そうした姿勢を学ばせたくて、俺とフォンさんを引き合わせたのだろう。
パクチー独特の青い苦さは、神様からのお説教代わり。
そう受け止めることにした俺は、朝陽の射し込む店内で、ひいひい言いながら証拠隠滅に勤しんだ。
本日11月15日、「神様の定食屋」4巻が発売されました!
無事に季節を一巡することができました…感涙
皆さまのご声援のおかげです、本当にありがとうございます。





