第1話
二週間前の、あの奇妙な出会いから。
カタリナ・ローゼの日々は、静かに、しかし確実に転落し始めていた。
かつては王城の華と呼ばれ、だれもが“将来の王太子妃”と認めた存在。
──そのはずだった。
だが今は違う。
「ねえ見た?今日もまた転んだんだって」「あのヒールの高さで?懲りないわねえ」
廊下にひそひそ声がこだまし、笑い声が背中を刺す。
カタリナは視線を逸らし、胸を張る。
……15cmのヒールで、ぐらりと足元が危うくなった瞬間──
「わっ、ちょ、ちょっと……!」
案の定、転んだ。
ガシャン!と大きな音を立て、書類を床にばらまく。
近くの侍女たちはクスクス笑いながら避けていくだけ。助ける気は一切ない。
「くっ……!」
悔しさで顔が火照る。
手袋越しに拳をぎゅっと握りしめた、そのとき──
「……また転んだのか」
優しい声がすぐ真上から降ってきた。
影が覆い、目の前に“壁のような胸板”が現れる。
そして、しゃがんで視線を合わせてくれた。
セルシ・オーブリー。
体格の良い戦士で、いつも穏やかに微笑んでいる男だ。
「だ、大丈夫よ!これは……地面が悪いの!」
「そうか。地面が悪いのか」
本気で信じてしまったようにうなずくセルシ。
その顔が優しすぎて、余計に腹立つ。
「ち、違う……!信じなくていいのよ!」
カタリナは慌てて書類を拾おうとしたが、セルシが先に手を伸ばす。
「重いものは持たなくていい。お嬢様の手は、怪我をしないほうがいい」
「ま、またそれ!あなた……過保護がすぎるのよ!」
「……すぎているか?」
セルシは自分の行動を振り返るように、真剣に考えてしまう。その顔がまた丁寧で優しくて……ずるい。
「ほら、ヒール。紐がほどけてる。転ぶ原因はこれだ」
「ふん……そんなの気にしなくても歩けるわよ」
そう言いながら、カタリナはヒールを履き直す。
しかし、立ち上がった瞬間──ぐらっ!!
「危な──」
支えられた。
がっしりとした腕に、腰をがっちり掴まれて。
軽々と安定させられてしまう。
「……歩けるって、言ったわよね?」
「今は歩けていなかった」
即答。
カタリナの耳まで熱くなる。
「い、いいから離れなさいってば!」
「離したらまた転ぶ」
「な、なんでそんなに断言できるのよ!」
「見れば分かる」
本気でそう言ってくるから困る。
ふと周囲を見ると、通りすがりの侍女や騎士がやや驚いた目を向けていた。
“あのカタリナが誰かに支えられている”という光景は珍しいのだ。
恥ずかしさと悔しさが混ざった気持ちを押し隠し、カタリナはセルシの腕から逃れるように距離を取った。
「もういいわ。仕事があるの。あなたも行きなさい」
「分かった。……何かあったら呼んでほしい」
「呼ばないわよ!」
「呼ばなくても来る」
「来るの!?自分で言ったわね!?」
「お嬢様が困っていれば、だ」
セルシは静かに付け足し、微笑んだ。
その優しさが、胸の奥でなぜかチクリと痛む。
---
その日の午後。
王城内で小さな不祥事が起きた。
王太子の私物の一部が紛失した、というだけの話。
だが、誰かが“面白半分”に名前を出した。
──「悪役令嬢カタリナじゃない?」
何の根拠もない。
ただゲームの中での“イメージ”だけで、安易に結び付けられる。
控室に戻ったカタリナは、唇を噛む。
ドレスを脱いだ足は、15cmヒールのせいで赤く腫れていた。
「なんで……どうして私なのよ……」
悔しさで胸が締め付けられる。
でも泣きたくない。泣けば、負けてしまう気がする。
そんな時、控室の扉がノックされた。
「カタリナ。入るぞ」
セルシの声。
入ってきた彼は、部屋に漂う空気を一瞬で理解したようだった。
「……泣いているのか?」
「な、泣いてないわよ!」
即答したが、声が震える。
セルシは何も言わず、そっと彼女のそばにしゃがむ。
視線を合わせるために、いつも必ずしゃがんでくれる。
「また、根拠のない噂か」
その声は低く、珍しく怒気を帯びていた。
カタリナは驚く。
「あなた……怒ってるの?」
「当然だ。お嬢様を傷つけるような言葉を許すつもりはない」
静かな炎。
セルシの怒りは決して荒げず、だからこそ強い。
カタリナは言葉を失った。
「……どうしてそこまでしてくれるの?」
問いかけるように、弱い声がこぼれる。
セルシは迷わず答えた。
「二週間前、君が誰にも助けられず倒れていたとき……放っておけないと思ったからだ」
カタリナの胸が一瞬、ぎゅっと掴まれたように苦しくなる。
「そ、そんな……ただ転んでただけよ」
「それでも、君は一人だった」
セルシの優しい目がまっすぐ向けられる。
「だから思った。君の味方でいよう、と」
一瞬、心が温かくなる。
けれどその温度を素直に受け取るのが怖くて、カタリナは視線を逸らす。
「……あんた、ずるいわよ」
小さな声で呟いた。
「ずるい?」
セルシは本気で理解していない顔だ。
だからまた胸がチクッとする。
「な、なんでもないわ!」
言い訳のように言い捨てた瞬間──
部屋の扉が乱暴に叩かれた。
「カタリナ・ローゼ!至急、王城中庭へ来い!」
騎士の声。
カタリナはびくりと肩を震わせた。
「……まさか、私に“処分”が?」
セルシがすぐ横に立つ。
「行こう。大丈夫だ。俺がいる」
心強い言葉なのに、胸がざわざわして落ち着かない。
こうして、カタリナの運命は大きく動き始める。
──これが、悪役令嬢カタリナと過保護戦士セルシの物語の第一歩だった。
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